坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

2019-01-01から1年間の記事一覧

「苦しい修行」

「苦しい修行」も悪くはありません。 ただ、やる人間としては、平均的な人なら、苦しいと思うような状況を楽しむべきです。 避けられない苦しみを処理しやすくなる=楽しめるようになることが、禅の実践の大きな楽しみの一つです。 苦しみも、楽しみも解釈の…

求めることをやめる。

不幸の始まりは幸福を求めすぎることにあるのだと気づく。 ほかの人を蹴落として、その上に立とうとすることに不幸があるのだと気づく。 求めるこの心が不幸の原因であることに気づく。 幸福を実現しようとする求めるこの心が不幸の原因であることに気づく。…

大往生を目指すから苦しくなる

高齢化に伴って、週刊誌で「終活」が特集として組まれることが多くなりました。 いずれ来るものであり、来たときには、まあ大騒ぎになるのだから、今のうちから準備をするというか、覚悟をしておくのは良いことかと思う。 人生に対する悩みというのは、つま…

「私」とは「何」か?

禅では「直指人心」とよく言われます。 罪作りな言葉であると思います。 それは価値ある作業になり得るのだけれども、おそらく不毛な作業になるものと思われるからです。 よく禅の実践をすると「本当の自分を知ることができる」などと言われます。 公案でも…

欲望あってこそ人間

ネットサーフィンをしていたら、「ひきこもり」に関する次ような記事を見つけました。 「専門家座談会【前編】ひきこもり、うつ…「働けない」子どもを、親はどう見守る?」 (https://fujinkoron.jp/articles/-/340) 斎藤環、雨宮処凛、工藤啓の対談です。 …

本当の利他行為

禅の講演会での講師の方のお話。「大乗仏教は究極的には利他を説くものです。どういう人なら本当に人のためになれるか?そのためには、「空」を体得すること。自我を空じていなければ、他人のことをあるがままに写し取ることができない。『空』を体得するた…

坐禅において呼吸回数を減らすべき科学的根拠

坐禅のときには、呼吸回数を減らす、すなわち、呼吸を長く、ゆっくりとすることが推奨されることが多いですが、このことは、科学的にも正しいようです。 坐禅等の瞑想をすると脳の「扁桃体」の活動が低下することがわかっています。 扁桃体の機能は、次のよ…

嫌われるのも素晴らしい生き方

「禅の修行の成果は、自分が死んだときに初めて確かめられる」と言う久参の方がいる。 おそらく、禅の修行をして人格が磨かれれば、おのずと人から死を惜しまれ、そのことから、修行の成果が分かるということだろう。 しかし、死を惜しまれるということが本…

世界と人生に何の不満があるのか?

坐禅などの仏教の瞑想をする人は往々にして不満がある。 人生に疑問をもって始める人は、人生に不満がある。 世界は「苦」ばかりであるという人は、世界に不満がある。 しかし、なぜ、不満を抱くのか? 山川草木悉皆成仏だ。 きちんと世界を見回したらいい。…

伝法の虚構性(その2)

3 菩提達磨(1)石井清純『禅問答入門』 “菩提達磨とは、サンスクリット語(印度の古語)のBodhiが「菩提」、つまり「悟り」で、Dharmaは「法」、真理とか教えという意味で、とうてい実名とは思われません。年齢も、(武帝に出会った)この時すでに百四十…

伝法の虚構性(その1)

仏教では、ものごとをありのままに正確に知ることが大切であるとされます。 禅について、正確に知るという観点から疑問を抱くことは、「伝法」についてです。 禅の世界では、よく釈尊から現在に至るまで、その法を嗣いだ伝法の師家に参ずることが大切だなど…

肯定も否定もできない

先日、心理学の講演会を聴いたときに、講師の先生が「脳は否定語を理解できない」というお話をなさいました。 たとえば、「今、ここに、『手の平サイズのピンクの象』が……“いません”」と言った途端に、脳は『手の平サイズのピンクの象』を創造してしまうとい…

安心は主観的世界に耽溺することではなく、客観的世界に生きることにある

仏教の目的は、安心立命にあると言われる。安心とは、「心の安まる」ことだから、自分の主観的世界に変化をもたらすことが重視されるようなところがある。 坐禅等の瞑想を深める中で、外界からの影響に揺るがない精神を作り出す。そこでは、外界から自己の精…

煩悩即菩提

社会的に相応に評価されている人の境涯には好ましいものがあります。 阿川佐和子さんの『聞く力』に次のような一節がありました。 “私は(渡辺淳一さん)に尋ねました。一生、愛し続けられると信じていても、人はどうして気持ちが変わっちゃうんでしょうね。…

楽であることの重要さ

仏教は、世界に対する私たちの評価に正統な根拠がないことを教える。 苦楽という概念も正統な根拠はない。 だから、「楽」を目指すのはおかしいということにもなるだろう。 しかし、私たちは、苦も楽もある相対の世界に生きざるを得ない。 世界は空なのだが…

ある世界は、この日常の世界だけ

お世話になっている在家禅団体をやめるのだという人がいる。 「修行」のやり方に「ありがたみがない」ので、「明眼の師を見出しに行く」のだという。 短い期間だったけれど、熱心に取り組み、色々な本を読んでもいるようだった。 しかし、未だに、何か「あり…

【参考資料】仏教者の戦争責任

参考資料「仏教者の戦争責任」 A 「日本の仏教徒は、戦争中ほとんどが戦争に反対できず、逆に戦争に協力してきた。本師山田無文老師は、深くそのことを反省懺悔されていた。『師匠の関精拙老師の尻にくっついて、『兵隊さん、お国のために死んでください。…

見性体験などの特殊な体験を求めない(その2)

私が見性体験等の特殊な体験を求めるべきではないと考える主だった理由は次の3つです。 第1に、坐禅などの瞑想は、脳の特に前頭葉の機能を低下させるものであり、見性体験などの「特殊な体験」は、この機能を著しく低下させるものであって、そのようなこと…

見性体験などの特殊な体験を求めない(その1)

坐禅等の仏教の瞑想に興味を持つようになってから、特異な体験を持つ人と接することが少なからずある。 たとえば、自己と世界とが一体となる感覚、光に包まれる感覚、自分の中に何かすごいものが「ドーン」とある感覚など様々だ。 一番多いのが、自己と世界…

生きることは不幸を引き受けること

自動車は運転を開始しなければ、事故を起こさない。 パソコンは起動させなければ、クラッシュしないし、ウィルスに犯されることもない。 だから、問題を避けるためには、自動車もパソコンも使わないのが正しい使い方だということになるはずだ。 人生もなにも…

参考資料「禅者の述べる人生の価値」

1 前田利鎌『臨済・荘子』238頁 ‘ 長く貴族生活に耽溺していたトルストイは、中年に及んで人生の意義を懐疑し始めて虚無思想の結果いく度か自殺しようとしたそうである。ところが或る時彼は突如として一の真理に契当した――人間は生を欲するのが順当であ…

「苦」を必死になって解消する必要のない理由

仏教は、何らかの形で「苦」への対処を目指すものだけれど、本当に、それを徹底的になくす必要があるのかは立ち止まって考えてもよいように思う。 仏教における「苦」は、「苦痛」というよりも、「むなしさ」、「ものたりなさ」をいうニュアンスが強いとされ…

結果の出せない禅の修行は無価値ではないのか?

禅の修行が、愛し、働くことができるようにするためのものであることからすると、「禅の修行」と「愛し、働くこと」とでは、後者の方が重要であるはずです。 前者は手段であり、後者は目的なのですから、手段と目的とでは目的の方が重要であることに決まって…

無明の必要性

鈴木大拙の『禅学入門』を読み返していたら、次のような記述を発見して、勇気付けられました。 やはり、我が禅海波瀾洪大、嫌う底の法なく、著するの底の法なし、驢を通し、馬を通す必要がある。 重要なことは、否定ではなく、自然と限定していくこと。”禅が…

悩み、苦しみ、迷うことは人間の特権

仏教では、悩み、苦しみ、迷いへの対処が課題とされます。 ここで重要なことは、課題は、「悩み、苦しみ、迷い」に対する「対処」であって、これらを無くすことではない、ということです。 私たちは、どうでもよいことに対し、「悩み、苦しみ、迷い」を抱く…

(坐)禅の効果の測定方法

(坐)禅の効果については語ろうとしない人が多い。 不遜はよくないであろし、また、どうも語ることができるような効果は本当の効果ではないと思っている人も多いようだ。 効果に本当も嘘もないと思うし、仮に、プラシーボ効果であるとしても、効果は効果で…

心理カウンセリングにおける仏教に類似する考え方その2

5 サイコドラマ(心理劇)(96頁) 日常の場面で生じた心理的な問題を、集団で役割演技を行うことによって解決する技法。 決まった筋書きや配役があるわけではない。 即興劇で、「今、ここで」生じたテーマの状況に基づく役割を演じる。 参加者個人の自発…

心理カウンセリングにおける仏教に類似する考え方その1

ほかの人の悩みが解消できるようになりたいと考えて、心理学の勉強をしようと考え、松原達哉編著『図解雑学 心理カウンセリング』をネット古書店で購入したところ、仏教的な考え方と思えるものがありました。 佛陀自身が、人間の心理について考え、その悩み…

参考資料:安心ではないものを安心とする

仏教の目的の一つは、安心立命です。 “古来の常套の語(ことば)を以っていえば、安心を得るのが仏教の目的である。(略)安心とは、心を一定不動の處に安住せしむるの意で、謂ゆる宗教の力に依って、不動の信念を確立するということである。古来禅門で悟った…

実社会生活で結果を出す

禅の実践と結果との問題は容易ではない。 専ら禅の実践として行われること、すなわち、座禅は余りに不自然なことであって、それは明らかに狙いを持って行われるはずのことだ。 同時にそれは、結果を求めないものとして、行わざるを得ない。 この矛盾こそが教…