坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

ある世界は、この日常の世界だけ

 お世話になっている在家禅団体をやめるのだという人がいる。
「修行」のやり方に「ありがたみがない」ので、「明眼の師を見出しに行く」のだという。
 短い期間だったけれど、熱心に取り組み、色々な本を読んでもいるようだった。
 しかし、未だに、何か「ありがたみ」のあるものを求めていて、そんなものをくれる「明眼の師」がいると思っている。
 最後に投げつける言葉だから、当人としては、工夫したのだろう。
 しかし、その見解は余りに寂しい。

 衆生本来仏
 煩悩即菩提
 即心即仏

 …… きっと、法理の言葉は知っている。
 しかし、身についていない。
 悩み、苦しみ、迷う、このありのままでよいということがわからない。
 何か「ありがたみ」のあるものをくれる「明眼の師」に出会いたいと思ってしまう。
 師家とは、与える者ではなく、奪う者であるのに。(注1)

 禅は、日常を離れない。(注2)  

 特別なありがたいものなど何もない。
 都合のよい救いなど何もない。

 少なくない人は、日常生活がうまくいかないことから、禅の「修行」を始める。
 けれど、そもそもが、日常生活は、うまく行くようにはできていない。(注3)
 だから、誰もがみんな、あたふた、ドタバタ、悩み、苦しみ、迷いながら生きている。
 それがこの日常の世界で、誰もがやっている普通の生き方だ。

 少なくない人は、悩み、苦しみ、迷う中で、劣等感を抱く。 
 そして、自分が何か特別な人間になった彼岸の世界を夢想する。 
 そんな人に、禅は、彼岸の世界などなく、あるのは、この日常の世界だけであることを体認させる。

 世界は、この日常の世界しかないこと。
 私たちに、この日常の世界の中で、悩み、苦しみ、迷いながら生きていく力があること。
 日常の世界の中で、悩み、苦しみ、迷いながら生きて行くことこそが、人間として充実した人生を生きて行くことなのだということ。(注4)

 ただ、勘違いする人も少なくない。 
 普通の人より何か優れた特別な者になり、いわば、日常の世界を脱することが禅の「修行」の目指すものなのだと思ってしまう。
 
 成長しようとすること自体はよい。 
 禅はそういったものを目指すものでもあるからだ。 
 というより、日々成長しようと努力するのが、ごく普通の人間のあり方だ。 
 禅は、成長する努力をすべきだという。(注5) 
 しかし、特別な方法はない。
 普通の人がやっている努力をする。
 すなわち、愛し合うために、より高い理想を目指して悩み、苦しみ、迷うことだ。  

 禅の「修行」に力を入れすぎることの問題点がここにある。
 実践する内容、施設、儀式等々。禅堂には、禅の「修行」を助ける様々な工夫がある。しかし、そのような特別な工夫がなされているがために、少なくない人が、「修行」により、何か特別な「ありがたい」ものが手に入るという勘違いをしてしまいがちになる。
 禅の「修行」は頑張りすぎない方がよい。(注6)

 元々人間には、悩み、苦しみ、迷いながら、愛し合って、充実した人生を送る力がある。
 禅の「修行」は、その力が発揮しづらくなった人を少し後押しするだけで十分なはずだ。
 「修行」は所詮「修行」、本番ではない。長い花道はいらない。(注7)
 古則公案が切実に必要なのは、出家者――極端に日常の世界に適応できない人――である。
 在家者であれば、禅堂の外には、日常的にいくらでも現成公案があるのだから。 
 
 ある世界は、この日常の世界だけ。 
 特別な人間、たとえば、悩み、苦しみ、迷うことのない人間になる必要などない。 
 これまでどおり普通の人として生きていけばよい。
 そのごく普通のことに気づいて欲しい。
 そして、その力があるのだと信じてあげたい。

(注1)
 前田利鎌『臨済荘子
 「臨済は一物も与えずして、徹底的に奪って行く。飢人の食を奪い、耕夫の牛を駆る、というのもこの消息を語るものである。己を確立して自由な自然児になるためには、人惑迷執を惹き起す一切の偶像は破壊せられねばならない。先ず仏門における最大の偶像は――仏である。仏を礼拝するは愚か、仏に自らなろうとするのが已に人間の無知を語るものである。」(42頁)
 「禅門の鍛錬は、この意味における生命の解放と独立を齋らさんがために、一切の『依るべき』ところを破壊するのである。破家散宅とはこの意味に他ならない。従って禅門の使命は、与うることにあらずして、徹底的に奪い尽すところにある。故に這賊とか老賊とか白拈賊というのは、禅門における最高の賛辞である。」(96頁)

(注2)
(1)釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』
 「『平常心是道』とは、常並の心、それが即ち道であるというのです。誰でも、心とか、神とか、佛とか言うと、近い所にあることを知らずに、却って之れを遠きに求めるのが常であります。神様や、佛様は、別世界にいられるように思う。然うして又大道とか、真理とかいうと、如何にも難しいことのように思うのが常であります。何んぞ知らんや、孔子の言われた通り、『道は近きに在り、却って之れを遠きに求む。』で、足許にあるものを、頭の上に向って求めています。事は易きにあり。却って之れを難きに求む。人間は気が利いているようで、間が抜けていることが多いのです。此精神の修養を仕上げたところから言うと、洵に道は須叟(しばらく)も離るべからずであります。朝ムックリ起き上がった時にも道があれば、顔を洗うて仕事に着手するにも道があります。人間は毎日それを繰り返して行っているのです。吾々は道の上に立ちて、道の上に働き、道の上に寝るというようなもので、道は決して吾々を離れた別のものではありませぬ。これを日々の行事の上に味わって往けば、往けるのであります。」(16頁)
(2)釈宗活『臨済録講話』
 「大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。」(221~222頁)
(3)鈴木大拙『禅学入門』
 「普通の神秘主義は余りに不定的な産物で、吾らの日常生活とはまったくかけ離れたものである。禅はこれを改革したのである。青空にさ迷っていたものを、禅は地上へ引き降したのである。禅の発達とともに、神秘主義神秘主義でなくなってしまった。それはもはや異常ある心の発作的の産物ではなくなった。すなわち禅は日常生活そのものの事実を認めることによって、最も平凡な、そして最も平穏な、普通人の生活裡に現れているからである。禅はこの事実を見せるために人の心を組織的に訓練する。(略)禅はともかく実際的であり、平凡である。そして溌剌として生きている。(略)禅は人生の溌剌たる事実以外は問題にしないのであるから、根本的であり創造的である。」(35~36頁)
(4)ティク・ナット・ハン『仏の教え ビーイング・ピース』
 「瞑想は社会から離れ、社会から逃げ出すことではなく、社会への復帰の準備をすることです。」(68頁)
 「瞑想は、私たちが社会にとどまる助けをする道です。これは、重要なことです。」(74頁)
(5)有馬賴底『「臨済録」を読む』
 「趙州は、『禅とはなにか』なんて、そんなむつかしい議論をしても何の役にも立たない。日常、飯を食って、お茶を飲んだりするところに真理はある、と言ったんです。」(61頁)
(6)西嶋和夫「さとりとは何か」『ドーゲンサンガブログ』
 「『さとり』とは、われわれが、心の世界でもなく、物の世界でもなく、現実の世界の中に生きているという事実を、単に頭の中だけではなしに、体全体を通じて実観することである。」
(2005年12月1日配信https://doutetsu.exblog.jp/i2/

(注3)
(1)忽滑谷快天『宇宙美観』
 「人世は不如意なるを佳とす。不如意なればこそ吾人は安らかに人世に住するを得るなれ。若し吾人の思惟するが儘に変動するとせば宇宙には秩序もなく法則もなきなり。凡を人類ほど気儘気随なる動物はあらず、此動物の各々が意の如くするを得ば天地は大混乱の状を呈すべし、幸にして天地には法則あり、秩序ありて人類の意の如くならず、是に於て乎吾人は安んじて此生を楽しむを得るなり。」(130~131頁)
(2)伊藤賢山「怨憎会苦」建長寺派布教師会『『怨憎会苦』を語る』
 「そもそもこの世は理不尽にできている。理不尽なことから逃れたいのに、逃れられないから苦しみが生じる。誰も避ける事が出来ない苦しみなら捉え方を変える。苦しみを『苦しい苦しい』と受けとめるのではない。笑って受けとめる。」(9頁)

(注4)禅とテーラワーダとの最大の相違は、煩悩への対応。
 テーラワーダは、煩悩の滅尽を目的とする。
 禅(大乗仏教)は、煩悩を否定するのではなく、煩悩があるからこそ、充実した価値のある人生を送ることができるのであると捉える。
(1)釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』
 「悟りというものは、吾々をして血も涙もない石地蔵や、古木寒巌のようにするものではありませぬ。禅宗の大悟徹底は、灰吹(※)から蛇(じゃ)を出すような、魔術師の松旭齋天勝でもやりそうな奇術に類したことをすると思ったり、又どんな悲しい場合にも、決して悲哀を感じないし、どんなに楽しい場合でも、決して楽しく感じない、恰も石地蔵のようなものだと考えている人が、世間に往々あるが、これは本当の悟りを知らぬ人で、全く誤解であります。」(4頁)
※灰吹(はいふき)=茶道の道具の一種。煙草盆の中に組み込み、煙草を煙管で吸い終えたとき火皿に残った灰を落とすための器。
(2)釈宗活『臨済録講話』
 「佛性を心内に向って求めねばならぬと云うて、別段奥深くにかくれて居る譯ではない。
其人々の、惜いとか、欲しいとか、憎いとか、可愛とか、活動しつつある其一念上を離れて、別にあるのではない。(略)
 無分別光と云ったところで、何も、ぴかぴか光っているわけのものではない。差別、分別のまっ只中に、分別していながら、徹頭徹尾分別なしじゃ分別なしと云うと、なにかぽかんとして居ることかと思うが、そんなことではない。世間ではよく、虚心平気だなぞと思い違えて、それを取捨分別なしの、境地だなぞと誤解して居るが、そんなことではない。朝から晩まで、三百六十五日、差別界のまっ只中に在って、分別を逞しくして居りながら、それで少しも分別をしたと云う気ぶらいもありはせん。」(171~172頁)
(3)内山興正『坐禅の意味と実際』
 「煩悩妄想を細めていって、最後にそれをすっかり断滅しきってしまうことが坐禅の目的ではないのです。小乗仏教では、そういう煩悩妄想を断滅しきることを涅槃、悟りとよび、これを求めて坐禅するわけですが、もしそういう悟りを人間生命の真実であるとするならば、無生命(死)こそが生命の真実だということにほかならないでしょう。しかも小乗仏教では、人間生命のもつ欲望(煩悩)が人間の苦しみの原因であるがゆえに、それを断滅して涅槃の楽を得ようとするわけですが、この場合、苦しみを解脱し、涅槃の楽を得ようと求めることは、欲望煩悩ではないでしょうか。――じつはそれも欲望煩悩なのであって、それなればこそ、修行者は自己矛盾してかえって苦しまなければなりますまい。」(61頁)

(注5)
(1)釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』
 「総ての境遇に摘するものは、存在して往くのであって、それに応じない処のものは、悉く敗滅して了うのであります。優勝劣敗と言はば、多少の語弊があるように思われる文字でありますが、これも確に一つの真理であります。如何にしても人間は努力せねばならぬのです。吾々は何處までもストラッグルせねばならぬ運命を有(も)っています。今の生存競争の世の中に立っては、努力せねばならぬ。若し油断があると、落伍者と為って、後に残されて了います。だから吾々は智的修養もせねばならぬし、又情的修養も尊(たっと)ばねばなりません。更に意志の修養というものに、最も重きを置かねばならぬと思う。」(15頁)
(2)秋野孝道『此処に道あり』
「近頃世間ではよく修養々々と云う様であるが、只だ口ばかり云うたり、耳許(ばか)りで聞いたりする、所謂口耳三寸の学では何にもならないと思う。修養は何時も云う通り着実でなければならぬ。自己の脚下を忘却しては何もならぬ。日々三省して、自謙以て回光返照せんければならない。回光返照せんければならない。」(2頁)

(注6)
 鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
 「多くの人が好奇心から坐禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。修行によって、より悪い状態になるなど、ばかげています。(略)あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまい、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。」(110頁)

(注7)
 秋月龍珉『公案
 「故吉田清太郎先生(筆者が最後についたキリスト教の牧師、天龍の峨山老師に参禅された)は、『禅もよいが花道が長うて本舞台が短い。せっかく骨おって法を得ても、得たとたんにもう幕になるのでは立派な宗教とは言えない。花道を短かく、実人生への現成公案(その人自身の現前の問題)の適用を長く』と、常に言われていた。」(188頁)

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