坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

参考資料「禅者の述べる人生の価値」

1 前田利鎌『臨済荘子』238頁
‘ 長く貴族生活に耽溺していたトルストイは、中年に及んで人生の意義を懐疑し始めて虚無思想の結果いく度か自殺しようとしたそうである。ところが或る時彼は突如として一の真理に契当した――人間は生を欲するのが順当である。しかるにその生を求むべき人間が死を追わんとするが如きは、どこかに誤りがあるに違いない。一体、人生の意義などということを考えて懐疑に陥るのは、怠惰な生活を送っているからである。孜々として働いているものを見よ。彼らは人生の意義なぞというものについては何の疑惑も持っていない。一体、人生問題なぞというものは、生活に好きがあるから起って来るのだ。そんな懐疑は有閑階級の戯論である。怠惰こそ一切罪悪の根本である。人生の意義なぞというものは、勤労者の日々の生活によって自ら体験さるべきものなのだ。トルストイはこう考えて自ら労働の生活に入った、といっている。‘

2 南直哉『語る禅僧』57~59頁
 私は、この「生きがい」という言葉が典型的に示す、我々の思考と行動の底の底まで食い込んでいるところの、「〇〇のために〇〇する」という発想が、そもそも多くの思い違いと不幸の原因だと思っている(略)。
(略)
「〇〇のため」の連鎖はついには、「何」でどんづまりになってしまい、そこから先に行かないのだ。私たちの生の極には、あらかじめ決まった目的も価値も意味もあるわけではなく、あるのはひとつの「問い」だ、ということになる。
 それはそうだろう、私たちは選択の自由があって生まれてきたわけではないし、死ぬのに理由を教えてもらえるわけでもない。(略)
 始めと終わりに根拠がないのに、中間にそれがある道理もない。ならば、人生は全体としてそれ自体、無根拠で無意味である。我々は、意味や価値があって生きているのではなく、生きていることが意味や価値をつくることなのだ。これを称して仏教では「諸行無常」と言う、のだと私は思う。
 こうしなければならないと、最初から決まっていることなど、この世にはひとつもない。

3 神保如天『従容録講話』序
 私どもは何の為に生れたか、何故死ぬるか、這んなことは問題にならぬ。何の為でも、何故でもない生まれたから生きてをる。死ぬから死ぬるのである、それ以上何と理屈をつけても詮無いことである。生を生とさとり、死を死とさとれば、それでよろしい。人生のすべては斯くして解決されるのである。

4 酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』41頁
 わしは少年のころに、一時は、仙人になりたいなと思っていたこともあった。仙人は不死だと聞かされてきたからである。しかし仙人の不死は娑婆の要求で、自分の寿命を延ばすことだけしか考えていない。勝手に好きなことでもやって、どんなに長生きしてもそれは意味はない。それはただ自分勝手なことをして生きたというだけで、本当に授かった命を生きたことにはならない。むしろ自分の要求を捨てて仕舞って、この身ぐるみ全部を他人のために使い尽していくのが本当だ、我々はいつ死ぬかわからぬが、要するに人のためになったというだけが人生の意味だ。こんなことも、そのころ考え始めていた。