坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

「苦しい修行」

 「苦しい修行」も悪くはありません。

 ただ、やる人間としては、平均的な人なら、苦しいと思うような状況を楽しむべきです。

 避けられない苦しみを処理しやすくなる=楽しめるようになることが、禅の実践の大きな楽しみの一つです。

 苦しみも、楽しみも解釈の問題。(注1)

 同じ解釈なら、楽しい方がよいでしょう。  

 実際、どんな状況も楽しく解釈しやすくなることが面白くて、坐禅がやめられないのです。

 人はいつ死ぬかわかりません。

 次の瞬間には死んでいるかもしれません。

 だから一瞬一瞬を大切にして楽しめるようにする。

 平均的な人が楽しいと思えるような状況だから、楽しむのではありません。

 平均的な人が楽しいと思えないような状況でも、楽しむところに、楽しみがあるのです。  

 このような個人の立場を捨象すると、問題は、「苦しい修行」というものを、特別な機会を設けてまでやる必要があるのか、ということです。

 引きこもってでもいない限り、実社会生活を送っていれば、平均的な人なら苦しいと思うようなことはいくらでもあります。

 だいたいが、日常生活にどこか息苦しさを感じ、あるいは、そもそも明確に苦しいからこそ、何か救いがあるのではないかと思って、坐禅などをやってみようと思いつく人が多いように感じます。  

 価値ある人生を送る、愛する人生を送る人であれば、平均的な人なら苦しいと思うような状況がより現れやすくなります。

 一瞬一瞬の現成公案に真剣に取り組むことが、何よりも人格的成長を促すものであると同時に、衆生済度の端的です。

 正に、修証一如。

 日常生活こそが真剣勝負の場。

 禅堂はあくまでも練習場。  

 出家者には、禅堂しかないから、そこでの「苦しい修行」を充実させる必要があります。

 しかし、在家者には、どうでしょうか?

 出家者の「修行」の環境がよいから、それをトレースすればよい、というものでもないでしょう。

 出家者には、真剣勝負の場がないからこそ、「修行」の環境の整備が必要なのです。  

 禅は、ブレーキを踏むことです。

 坐禅を通して、適切にブレーキを踏めるようにすれば、後は、日常生活において、愛する実践を続けることで、すべては自然とよくなります。(注2)

 特に、現代社会は、上から下まで余裕がなくなっています。

 ブラック企業が一つの象徴でしょう。

 しかも、大手コンビニエンスストアチェーンのような大企業ですら、弱い人の足元を見る商売をしているような状況です。

 そのような社会状況で、「苦しい修行」をわざわざやること、あるいは、やらせることの必要性がどの程度あるでしょうか。

 現実の苦しみがあるところに、わざわざ追加して苦しみを足すようなことをする必要があるのでしょうか。

 重要なことは、しっかりと心のブレーキを踏むやり方を伝えること。

 余計なことをすれば、ブレーキを踏む余裕のないまま、アクセルを踏ませることになるのではないのでしょうか。

(注1)よく引用するけれども、次の原田祖岳師の考え方を好ましく思う。

「闘争も不幸もすべて心の持ちよう=解釈=一つ、同じ事実も見ように依って蓮華にもなれば汚物ともなる。嬉しくもなり悲しくもなる。好きにもなり嫌いにもなる。黄金にもなれば糞土にもなる。すべてこちらの業の現れによって、客観世界が如何ようにも変って来るものである。だから同じく五十年の人生も、人の心の持ちよう、即ち解釈、見方一つで地獄にもなれば極楽にもなる。 (略) およそ誰でも自分は最も幸福だという解釈の出来ない人は、まだ正法の理解も信念もない証拠です。正法を信解した人は必ず自己の幸福に目覚めて、その境遇を真の幸福に向上させるものです。然らざれば佛法=真理=の未だわからぬ人であります。」

(原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』108~109頁)

(注2)鈴木俊隆老師が次のように述べるのは、このような肚ではないかと思うのですが、どうでしょう。

「禅堂には、素敵なものはなにもありません。ただ、ここへ来て、座るだけです。お互いに意思を通じ合わせたあとは、家に帰り、また毎日の暮らしを純粋な禅の修行の続きとして行います。そして、人生の真の生き方を楽しむのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』258頁)

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