坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

欲望あってこそ人間

 ネットサーフィンをしていたら、「ひきこもり」に関する次ような記事を見つけました。

 

「専門家座談会【前編】ひきこもり、うつ…「働けない」子どもを、親はどう見守る?」 (https://fujinkoron.jp/articles/-/340

 斎藤環雨宮処凛工藤啓の対談です。

 

  「欲を取り戻すと稼ぎたくなる」

 

との項目建てで次のようなやりとりがされていました。

 

雨宮 働かずに自宅にいると、学生時代の友人とも疎遠になるし、人づきあいがほぼなくなってしまう。すると、社会的に孤立してしまいます。それはすごく危険なので、他者との関係性を作ることは大事ですね。

斎藤 長くひきこもっていると、自分の欲望が低下してしまうことが多いので、まずはそれを回復させるような支援が必要です。

(略)

工藤 はい。欲を取り戻すと、お金を稼ぐ理由も生まれるので、働く意味が生まれます。そして仲間の誰かが働き始めると、自分もできるかな、みたいな感情も芽生えます。

 

 禅に関わっていると、どちらかというと、欲望の制御の方がテーマになりやすいので、見失いがちな視点だけれども、欲望も、ある以上は然るべき理由があるはず。  「欲望の制御」は、「欲望」があることを前提として「制御」するものであり、「滅尽」するものではない。

 

「われわれの坐禅は決してこうした煩悩妄想を断滅しようとするのではありません。煩悩妄想がわき起こるのも、われわれの生命力なのですから、これを断滅していいはずはないからです。」 (内山興正『坐禅の意味と実際・生命の実物を生きる』138頁)

「静を守るというは強ち(あながち)吾人の心想を遏絶(あつぜつ。さえぎりとどめること。排斥すること)して槁木(こうぼく。枯れ木)の如く頑石の如くなるを可とするものではない。若し吾人の精神活動を抑止して無念無想となり、吾人の頭脳を空虚にして恰も虚器空宅の如くならしむるは到底不可能である。仮令之を可能なりとするも畢竟無益のことであろう。」 (忽滑谷快天『禅の妙味』5頁)

「悟りというものは、吾々をして血も涙もない石地蔵や、古木寒巌のようにするものではありませぬ。禅宗の大悟徹底は、灰吹から蛇(じゃ)を出すような、魔術師の松旭齋天勝でもやりそうな奇術に類したことをすると思ったり、又どんな悲しい場合にも、決して悲哀を感じないし、どんなに楽しい場合でも、決して楽しく感じない、恰も石地蔵のようなものだと考えている人が、世間に往々あるが、これは本当の悟りを知らぬ人で、全く誤解であります。」 (釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』4頁)

 

 仏教において、通常、欲望の抑止が特に問題となるのは、人間は、通常、欲深く、自分自身の欲望に振り回されていることに問題意識を感じていることが多いからでしょう。

 よく人生に対する疑問を解消するために、仏教や禅に興味を持つ人がいますが、これも、衣食という物質的な欲求が満たされた上で、更に、精神的な欲求も満足させたいという欲望が生じるからにほかなりません。

 生活に窮乏しているのであれば、そもそも人生の意義などを考える気持ちも生じないでしょう。

 

「長く貴族生活に耽溺していたトルストイは、中年に及んで人生の意義を懐疑し始めて虚無思想の結果いく度か自殺しようとしたそうである。ところが或る時彼は突如として一の真理に契当した――人間は生を欲するのが順当である。しかるにその生を求むべき人間が死を追わんとするが如きは、どこかに誤りがあるに違いない。一体、人生の意義などということを考えて懐疑に陥るのは、怠惰な生活を送っているからである。孜々として働いているものを見よ。彼らは人生の意義なぞというものについては何の疑惑も持っていない。一体、人生問題なぞというものは、生活に隙があるから起って来るのだ。そんな懐疑は有閑階級の戯論である。怠惰こそ一切罪悪の根本である。人生の意義なぞというものは、勤労者の日々の生活によって自ら体験さるべきものなのだ。トルストイはこう考えて自ら労働の生活に入った、といっている。」 (前田利鎌『臨済荘子』238頁)

 

 固より、釈尊自身、王族の者として、衣食も、性欲も十分満たされている状態で、さらに、避けようがない事態であるにもかかわらず、老い、病、死などに対する不安を解消するという過剰な欲望を満たすために、修行を始めたのです。

 また、古代インドにおいて、仏教に帰依した人の中心も、当時の富裕層であったことからしても、仏教は、本来的に、過剰な人間の欲望を制御しようという問題意識を前提とする考え方と言ってよいでしょう。

  「あらゆる歴史家は、インドにおける都市化の第二期の初期において、仏教が興隆したことに同意している。(略)この都市化は、農産物の余剰生産に伴って生じたのに違いなく、社会と経済の根本的変化へと繋がった。(略)仏教が、とりわけ交易商人のような新興の社会階級を惹きつけたことは、初期の文献と、少し下った時代に由来する考古学的史料の双方から、明らかである。」

(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』59~60頁)    

 マインドフルネスは、うつ症状などの改善のためにも用いられますが、うつ症状も、将来の不安の徹底的な回避という過剰な欲望の産物といえます。

 人間関係の問題も、いろいろな人に良く思われたいという欲望から返って自由が利かなくなる事態だといえるでしょう。  

 私達は、利益を得ようとするにしろ、不利益を避けようとするにしろ、過剰な欲望を抱きがちですから、通常は、欲望を抑止するという方向で働きかけた方が、却って、バランスがよくなり、健全な日常生活を営めるといえます。

 けれども、欲望が過小な人に対し、欲望の抑止を働きかければ、その人は、活力を失ってしまいます。

 このような人に対しては、欲望を高めるように働きかけることが大切なのだと思います。

 

神経科学の研究によれば、抑うつ症患者の脳内では快感の領域が異常に不活発になっている。

 いっぽう、生きることに深く意欲的にかかわっている楽天家が快感を経験したり感じたりできないというのは、まずありえないことだ。

 楽天的な人はたいてい意欲とエネルギーに道あふれ、人生がさしだしてくるものを余さず楽しむ貪欲さをもっている。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』75頁)

 

 特に、テーラワーダの実践をしている人には、抑うつ的な傾向が進行しているとみられる人が少なからずいます。

 テーラワーダは、活動的な行為について否定的であることともあいまって、過度の瞑想によって、却ってうつ症状が進行しているのではないのかなと思います。

 瞑想によって、扁桃体の活動が低下した後は、もっと世間的に楽しいことに目を向ける方がその人にとっても、社会にとっても、価値ある人生を歩むことができるのではないかという気がするのですが、どうでしょうか。

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