坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

「苦」を必死になって解消する必要のない理由

 仏教は、何らかの形で「苦」への対処を目指すものだけれど、本当に、それを徹底的になくす必要があるのかは立ち止まって考えてもよいように思う。
 仏教における「苦」は、「苦痛」というよりも、「むなしさ」、「ものたりなさ」をいうニュアンスが強いとされます。
 しかし、「むなしさ」や「ものたりなさ」というものは、本当に解消しなければならない大問題なのでしょうか。
 別にそれはあって困るようなものではないし、特別なことをしなくても、刹那的な娯楽を楽しめば済む話です。
 刹那的な娯楽の楽しみは一時的なものだというかもしれません。
 しかし、一時的で何が悪いのでしょう。
 「むなしいなら、むなししいまま」
 「物足りないなら、物足りないまま
 それで生きていけば済むだけの話です。
 
 仏教では「一切皆苦」の解釈について、おいしいものを食べると、食べ終わってそれがなくなっても、ほしくなるから、おいしいものを食べるのは苦であるとも言います。 
 そのほかの楽しいもの、面白いものもすべて同様の理由で苦だというのです。
 しかし、そのような理屈をこねてまで何でもかんでも「苦だ、苦だ」ととらえる必要などないのではないでしょうか。
 このようなものを絶対に解消しなければならない苦だととらえるのは、余りにも神経質な考え方で、真剣にそのように考えているのなら、たぶん、それは、うつ病の類いのようなものであって、座禅等の仏道の実践で対処するよりは、精神科を受診すべき場合のように思います。

 このように考えると、重要なものは、苦痛的な苦であると思われます。
 ところで、「苦痛的な苦」のうち、肉体的な苦痛は、客観的な方法で対処ができないのであれば、それを受け入れるよりほかないものでしょう。
 いわゆる「老、病、死」の苦痛は、このような客観的な方法で対処できなければ、受け入れるよりほかない苦痛です。
 
 そうすると、私たちが、真剣に対処しなければいけない「苦痛的な苦」の生じる場面というのは極めて限定されているように思われます。
 おそらく、衣食住が満たされない人間としての最低限度の生活もできないような場面に限定されるのではないかと思われます。
 そして、そのような場面は限局されていますし、仮に、そのような状態になったのだとすれば、それもおそらく客観的な方法で対処できなければ受け入れるべき苦になるのではないかと思います。
 そうすると、私たちが真剣に対処しなくてはならない「苦痛的な苦」は、このような状態になる前に生じるものだといえると思います。
 しかし、このような状態になる前なら、「このような状態」にはないのですから、結局、私たちが真剣に対処しなければならない「苦痛的な苦」とは、本当に、妄想の世界にしかないように思います。