坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

結果の出せない禅の修行は無価値ではないのか?

 禅の修行が、愛し、働くことができるようにするためのものであることからすると、「禅の修行」と「愛し、働くこと」とでは、後者の方が重要であるはずです。

 前者は手段であり、後者は目的なのですから、手段と目的とでは目的の方が重要であることに決まっています。
 目的は実現できなければいけませんが、手段は目的が実現できるのであれば、どんな手段でもよいはずです。
 仏道修行の世界では、目的のことを忘れたまま手段に対してこだわる例が少なくないのですが……。

 愛し、働くことは、実社会生活の中でなされるものであり、禅の修行が愛し、働くことに寄与するものであるとするのなら、禅の修行者は、それをやっていない人と比べて、実社会生活のなかで、より人を愛し、より働くことができるはずです。
 そうだとすれば、禅の修行をしている人は、していない人よりも、よりよく人を愛し、よりよく働いている以上、実社会生活において、人格的にも、労働の成果という点でも高い評価をされているはずです。

 そうでなければ、どこかやり方がおかしいのだと反省すべきなのでしょう。
 仮に実社会生活において、結果が出ないのであば、禅の修行をする価値はないのではないでしょうか。
 人間の生きる価値は、あるいは、存在それ自体の価値は、ほかの存在を支えることにある。
 そこからすると、禅堂での修行の人生における価値はさして高いものとはいえません。

 禅の修行は、飽くまでも、「修行」に過ぎず、「訓練」に過ぎません。
 禅の修行は、やはり、生きることそれ自体からは遠いといわざるを得ない。
 禅の修行も
  ほかの存在に手を加えずにあるがままにさせること
  禅堂で道友と一堂に会することでほかの道友を勇気づけること
  師家の命を使い切るお手伝いをすること
という点で、利他行為としての側面もありますが、やはり、弱い。
 本質的に、禅の修行は、禅堂に留まるためにするのではなく、禅堂から出て実社会生活の中で活躍するためにあるのです。
 ですから、ティク・ナット・ハンは

 ”瞑想は社会から離れ、社会から逃げ出すことではなく、社会への復帰の準備をすることです。”
 (『仏の教え ビーイング・ピース』68頁)
 ”瞑想は、私たちが社会にとどまる助けをする道です。これは、重要なことです。”
 (前掲書74頁)

などと社会に出て行くことを強調するのでしょう。
 また、禅の修行に関する鈴木俊隆老師の次の指摘も同様のものでしょう。

”多くの人が好奇心から坐禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。修行によって、より悪い状態になるなど、ばかげています。(略)あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。
 落ち着いて、日常の修行を行っていれば、自分の人格は強いものになっていきます。心がいつも気ぜわしいと、人格をつくる余裕がなく、うまくいきません。(略)
 夢中にならない、という私たちの修行は、非常に否定的に見せるかもしれません。しかし、そうではありません。自分自身に対して働きかけるには、これがいちばん賢く、効果的です。また平易なのです。(略)平静で、日常的な心で修行していれば、毎日の生活自身が悟りそのものだからです。”
(『禅マインド ビギナーズ・マインド』110~112頁)
”禅堂には、素敵なものはなにもありません。ただ、ここへ来て、座るだけです。お互いに意思を通じ合わせたあとは、家に帰り、また毎日の暮らしを純粋な禅の修行の続きとして行います。そして、人生の真の生き方を楽しむのです。”
(前掲書258頁)

 私たちは、禅堂から出て真の生き方をするために禅の修行をする。
 「真の生き方」とは、愛し、働くことです。
 禅の修行をしていない人よりも、愛し、働くことができないのなら、禅の修行の価値はありません。
 それならば、坐禅などの禅の修行プロパーのことをするのではなく、端的に、愛し、働くべきなのです。
 同じ時間を使うのであれば、愛し、働くことに有用なのかわからない坐禅などをするよりも、同じ時間を、愛し、働くことに使った方が遙かによいはすです。
 結果の出せない禅の修行、愛し、働くことに結びつかない禅の修行が価値がないという理由です。