坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】禅における『教義の否定』

梁の武帝達磨大師に問う、「如何なるか是れ聖諦第一義?」
磨云く、「廓然無聖
帝曰く、「朕に対する者は誰ぞ?」
磨云く、「不識」
――碧巌録第一則



禅は、多様な運動であり、それを統一的な観点から説明することには無理がありますが、私は、「教義の否定」という潮流を支持しています。

「人間の認識能力には限界があり、何が正しい教義なのかわからないから、無いものとして生きるしかない」からです。



禅における「教義の否定」については、臨済録等では、「概念の人為性=虚構性」から導き出していますが、そもそも人間の認識能力の限界から導き出されてしまうことがより根源的であると思います。

達磨伝に出て来る『廓然無聖』や『不識』はこの文脈で理解するのが適当だと勝手に思っています(公案の理解の仕方としては一般的には間違いでしょう)。



禅では、自由や日常への回帰が強調されますが、それらは、「教義の否定」の反射といえます。

「何にもない指で指された、何もない月は、その何もないところから照りわたる」(鈴木大拙『日本的霊性』360頁)

大拙先生の趣旨は、このようなところにはないとは思うのですが、ぴったりに思います。

禁止的規範を含む教義が否定される結果、人間のあらゆる生き方が肯定される。



このような観点に立つと、「教義」は、「何か正しいもの」が欲しい人などのための善意の虚構(親切)ということになります。

もちろん、このような「教義の否定」自体が「教義」になり得るものであり、「不立文字」とはよく言ったものと思います。

力のある禅匠の中にも同じような捉え方をしている方が少なくないものと感じます。

それは馬祖~臨済の法系に特に目立ちますが、臨済宗では、菅原時保老師や朝比奈宗源老師、曹洞宗では、酒井得元老師に感じます。

鈴木大拙先生については、正直微妙に思います。



「教義の否定」と言っても、大してすごい話ではなく、私たちの圧倒的多数は、特別な教義など全くおかまいなしに一瞬一瞬判断して行動している、その当たり前の在り方です。

私たちは特別な教義がなくても生きていくことができる。

日本文化には仏教の影響があるなどと言いますが、日本人の大多数が仏教を理解してその通りに生きてきたことはなく、圧倒的多数の日本人は、冠婚葬祭の演出の場面等を除き、昔から仏教とは関係なしにきちんと生きてきたのです。

『大きな都会によっては真宗でも禅宗でも真言宗でも何でも自由自在に御弔いをやってくれる職業の人があるということであるが、まずこんな風で、多数の日本人は宗教に無関心な状態である』

鈴木大拙『日本的霊性』90~91頁)

日本的霊性は、1944年に出版されたものですが、80年近く前の皇道仏教や皇道禅が流布されていた時代であっても、大多数の日本人は仏教とは関係なしに生きてきたのです。

むしろ、伝統的仏教教団の指導者を含めた仏教者のほとんどは、かつて、皇道仏教や皇道禅といわれるように、戦争で相手を殺戮することもその相手に対する慈悲の行為などと主張していました。

このような教義を唱えていたことについては、時局からやむを得なかったなどと言われますが、このことは、仏教の教義には、その時々の政治情勢等の社会的状況によって変わっていく不安定さがあることを示します。



「こうしておけば間違いない」という正しい教えを欲する人もおり、特定の教義やそれを踏まえた実践を正しいものとして教導することも親切かとは思います。

しかし、一時期在家禅団体で活動したり、テーラワーダの実践にはまり込んだ人たちと付き合った経験などからすると、狂信的になってしまう人も相当数おり、このような教導が果たして望ましいかは疑問に思っています。

仏教で示されるものの中には使えるアイディアもありますが、様々なアイディアの源泉の一つとして付き合っていくことが健全ではないかと思います。



1 朝比奈宗源『佛心』

『以前、私が禅を修行しなくては、佛道の真実はわからないとだけ説いていた頃、郷里へ帰り親戚や友達の親しい人々をまじえた聴衆を相手に、説教をしましたら、年老いた従兄が、佛道のありがたいことはわかったが、私等にはそうした修行はとてもできない。本当のことはわからずに死ぬのかな、となげきました。私はこれが淋しくもあり、悲しくもありました。後に私はいま説くように、修行しなくても、本来佛心の中にいるのだから、死後も絶対安心してよいと、はっきり言い切る信念に達しました』(39~40頁)



2 有馬賴底『『臨済録』を読む』

『最後の方で解るんですが、実は「公案」なんてどうでもよかった。臨済禅師も言ってますね

「わしの教えに従ったらあかんぞ」

と。師匠の言うことに従わんでもいいんです。その前に全部剥ぎ取られている。空っぽになっている。その全否定こそが大事なんです。最後は全部、受け入れてくれる。「公案」の正解が出ようと出まいと、間違っていようと、そんなことはどうでもいいことなんです
その「どうでもいい」という所までゆかないといけない』(24頁)

『「仏教」の経典を解読して仏教を理解しようなどと思わなくていいんです。『臨済録』を読んで、その一語一語、一文一文を解釈しようなどとしなくていいんです。

 私は問われれば答えます。しかしその答にあなたが拘泥する必要はない。「問」と「答」の間に漂うもの、気配のようなものに気付いてくれたらそれでいいのです』(30頁)

『座主有り、問う、三乗十二分教は、豈に是れ仏性を明かすにあらざらんや。師云く、荒草(とうそう)曾(か)て鋤かず。(「上堂」)

(座主が問うた、「三乗教や十二分教などの仏の教えの一切は、すべて仏性を解き明かすものではありませんか。」師「そのような道具では無明の荒草は鋤き返されはせぬ。」)(略)

仏教ということ自体が既に“こだわり”なんです。経典に縛られていたらあかん。もっと自由にあなたの自然の姿で人々に接したらいいと、臨済は言うのです』(110~112頁)

『あらゆる経典、あらゆる説法、みんなどんなに素晴らしくても、「病を治した薬みたいなもの」、つまり、病が治ったらもう薬はいらんよ。薬なんてなんの役にも立たんよ。一時の病は治すかも知らんが、すべての病を治す薬なぞない。病を治したという真似事をしとるだけや、と。これも例え話。仏さんの言うことをいろいろまともに受け取ったらいかんと。そしてまた同じことを言いますね。

仏教そのものが偽物やと。坊さんも文字を並べて偉そうなことを言ってるだけや。じゃあ、どうすればよいのか。(略)

「仏を求めれば仏を失い、道を求めれば道を失い、祖を求めれば祖を失う」。「求めて派いけない」ということは、坊さんの説法を聞いてもアカン。いや聞いたらアカン。あんなんウソ八百。「求めたら」全部失う。結局自分に自信がないから、他人に相談し、外に求めて、それで“自分”を失う。自由を失う』(170~171頁)

『仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業
菩薩を求むるも亦た是れ造業
看経看教も亦た是れ造業
仏と祖師とは是れ無事の人なり
臨済録『示衆』)

(略)

有馬 (略)「地獄」は自分で造っているんです。悟れない者が仏に頼り、経典に頼り……
そうするとどんどん地獄に落ちていくよ、ということです。
地獄というのは煩悩の凝り固まった世界。「煩悩即菩提」――煩悩を裏返しにしたら菩提なんです。菩提っていうのは悟りの境地。それが実は煩悩と同じもんやと言うてる。だから、それを求めたらアカン、というただそれだけの話です。

――禅とは修行して「悟り」を求めるものではないのでしょうか。それなのに、菩薩を求めても、仏典を読んでも「地獄」から逃れることは出来ない、というのですか。

有馬 いや、そうではなくて、その行為自体が「造地獄」やと言うとるんです。書いてある通りです。仏を求めること、法を求めること、これが「造地獄」の業と。

――祖師を頼ったり、仏法に帰依することが「地獄」へ落ちるということなのですか。

有馬 そうです。

――では、どうしたら私たちは、その己が造る「日常の地獄」から逃れられるのですか。

有馬 何もせんことや。「仏と祖師は是れ無事の人なり」と書いてある。「無事の人」とは何事もしない人。つまり「求めるな」です。求めたらアカン。求めれば求めるほど地獄へ落ちる』(189~190頁)

『――『臨済録』の中に「生きるための」“答”があるのでしょうか。(略)

有馬 そうそう。『臨済録』の中で、修行者が質問するでしょ。何かを言おうとすると、バーンとどつかれる。なんでどつくかと言うとね、その質問が合っているとか間違っているという問題じゃない。質問を出すこと自体を打ち砕く。だからバーンと叩く』(220頁)



3 小川隆『中国禅宗史』

『禅の性格は矛盾に満ちている。謹厳と洒脱、沈黙と哄笑、容赦なき聖性の否定と大らかな現実肯定……「禅」とは、と、定義しようとしたとたん、それと相反する表現が禅籍の中から次々と出てきてしまう。矛盾する両極の緊張の上にこそ、無定形の禅の生命が活きて活動しているのだと言ってもよい。(略)絶対の『真理』に緊縛されない、それこそがいにしえの禅僧たちのめざすあり方であった』(24~25)

『道には修めるような姿形はなく、法にも悟るべき姿形はない。ただ「閑」であって、過去も思わず明日にも思わず、「一切時中総て是れ道なり」――あらゆる時がすべて道なのである、と。唐代禅における激烈な聖性否定・偶像破壊の精神は、そのまま他愛もないような日常性の即時的肯定と表裏一体となっていたのであった』(59頁)

『弟子の雪峰(八二二―九〇八)から「従上の宗風は何の法を以ってか人に示す」と問われた際、徳山は、きっぱり、こう答えている。

――我が宗に語句無く、実に一法の人に与うる無し。

 私のところには、人に授けるべき言句など存在しない。人に与えるような宗風など、もともと有りはしないのだ、と』(101頁)

『無業はいう、「三乗の学問は、おおむね究めました。しかし、禅門で説かれる“即心是仏”、その意が未だ了(わか)りませぬ」。馬祖はこたえる、「只(まさ)しく未だ了ぜざる底の心こそ即ち是れなり、更に別物無し」――いま現に「了らぬ」というその心、それこそがまさに仏である。それを置いて外にない、と』(204頁)



2 小川隆「破家散宅の書 ――“Seeeing through Zen”日本語版解説」――」ジョン・R・マクレ―『虚構ゆえの真実 新中国禅宗史』

『禅には「破家散宅(はけさんたく)」という成語がある。自ら大切に守るべきものであり、また、逆に、自らを守ってくれるものである家宅。それをすっかりご破算にしてしまうということで、あらゆる既成の見解を捨て去り、何ものにも依拠しない、という喩えである』((1)頁)



4 衣川賢次「臨済義玄禅師の禅思想」『禅研究所紀要第34号』

『諸君よ!きみのところでは「修すべき道があり、悟るべき法がある」と言っている。では訊くが、いったい何の法を悟り、何の道を修するのか?いまこうして活動しているきみたちに、いったい何が缺けているというのか?どこを修理して繕おうというのか?新米の坊主どもはこのことがわからず、ああいった狐ツキの輩が説法して人をしばりつけ、「教えられた教理どおりに自ら修行し、心口意の三業の清浄を大切に守って、初めて成佛できる」などと言うのに丸め込まれている。(略)

 古人は言う、「道を修している人に出逢ったら、けっして話しかけてはならぬ」と。(略)また古人は言う、「平常の心が道である」と』(115~116)

臨済録

『人は聖なるものへのやみがたい希求があるが、それの持つ魅力は必然的に人を虜にし屈服させる魔力を持ち、元来そなえていた人を浄化させる力が却って人の自由を束縛するものへと転化する。臨済はこれを「仏魔」と呼んだのである』(123頁)



5 酒井得元『永平広録について』

『禅の真実は思想ではないということです。昔、私が沢木興道老師に会った、その時、老師から再三再四、思想じゃない、思想じゃないと言われた時、若い私は抵抗を感じたものです。道元禅師が思想家でないのかと抵抗を感じたものです』(5頁)

『宇宙の全てが仏性、即ち真実です。故にこれこそはという特別であるものは、全てあってはならぬことです。こうしてみると、全てが仏性であり真実であってみれば、特に外道というものがあるわけではないのです。あの外道というのは一切衆生悉有仏性に背を向けて、即ち広い宇宙に背を向けて、小さな自分だけの家の中にとじ籠っているものです。したがって思想家は殆どが広い宇宙に見向きもしないで、小さな自分だけの家にとじ籠っているから外道だったのです。しかし仏法の方からは外道も一切衆生ということになって、外道というものはありません。
 
かくて全てが真実であって、真実以外の何物もあり得なかったのです。この事実が心ということであったのです。したがって心は決して精神的なものでも、意識的なものでもなかったのです。つまり、この宇宙全体の真実が心であったのです』(23頁)



6 菅原時保『碧巖録講演其一』

『「分けのぼる麓の道の多ければ

登らぬ先に日は暮れにけり」

道の善悪、――道の高低、――道の遠近、――道の安危なぞを選択して居る中に日は暮れますぞ、人生五十の命は尽きますぞ』(39頁)



7 菅原時保『碧巌録講演(其三)』

『平常心、是道。――お互が毎日毎日至誠の心を以て喫茶喫飯、坐作進退なしつつある、それが至道であり大道であり妙道である。若し此外に至道あり大道あり妙道ありと思はば、それは邪道にして魔道、偽道にして悪道であります』(41頁)



8 鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』

『日本語では初心といいますが、それは「初めての人の心(ビギナーズ・マインド)」という意味です。修行の目的は、この初めての心、そのままを保つことです』(31頁)

ブッダは、当時存在していた宗教を受け入れることはできませんでした。多くの宗教を勉強されましたが、その修行には満足できませんでした。哲学や苦行では、答えを見つけることができなかったのです。またブッダは、形而上学的な存在には興味がなかったのです』(44頁)

『ある考えを獲得しようとすることから解放された修行とは、般若心経(略)にもとづいています。しかし、注意しないと、心経それ自体が、なにかの考えを与えてしまいます。般若心経は「現象〈フォーム〉とは空〈エンプティネス〉である、空はそのまま現象である」といっています。しかし、こうした考え、ただこれだけの考えに執着してしまうと、二元論に陥ってしまいます。(略)われわれの教えは、「色は色であり、空は空である」といっています。ここには二元論はありません』(74頁)



9 鈴木大拙『禅』

『思想の歴史が証明するように、非凡な知性の人によって築かれた新しい体系は、どれも必ず、後に続く者たちによって、倒されてきた。このように絶え間なく、倒してはまた組立てるということは、哲学自体に関するかぎり結構なことである。なぜならば、自分が思うに、知性本来の性質がそれを要求するのであって、哲学的探求の進行は、われわれの呼吸と同じように止めることができないからである。しかし、人生それ自体の問題になってくると、たとえ知性が究極の解決をもたらすことができるとしても、それを待つわけにはゆかない。われわれは、一瞬たりとも、生活活動を停止して、哲学が人生の神秘を解き明かすのを待つわけにはゆかない。神秘はそのままにしておいても、われわれは生きねばならぬ』(50頁)

仏陀は、知性についてまことにプラグマティックな考えを持っていた。かれは、多くの哲学的問題を、人生の究極目的を達成する上には不必要なこととして、未解決のまますて置いた。(略)“法(ダルマ)”(dharma)、“涅槃”(nirvāna)、“自我(アートマン)”(artman)、“業(カルマ)”(kārma)、“菩提”(bodhi、悟り)等の概念の究極の意味について、無益な思索にふける必要はなかったのである』(93頁)



10 鈴木大拙『禅学入門』

『禅教徒は一、二の教理を持っていることもあろうが、それらは皆自分の便宜のためであって、禅そのものから出たものではない』(23頁)

『禅は何を教えるのかと問うものがあれば、私は答える。禅は何物も教えないと』(23頁)

『一弟子が師に「私は仏教の真理を求めんとして来た、いかが致すべきや」と問うた。
 師は「汝はここに来て何を求めんとするのか。汝は何ゆえに自らのうちにあるものを打ち捨て、外に何かを探しまわらんとするのか。われは一物の汝に与うべきものを有(も)たぬ。何の仏法をこの寺に来てさぐり当てんとはする。本来一物もないではないか」と答えた』(41~42頁)

『趙州は虚無哲学の無効をかく明白に喝破したのである。禅の真理に達するには「無一物」という観念さえも捨てなければならぬのである。断定すべき何物もなくなった時、初めて仏陀は現れて来る。仏陀のために、仏陀を捨てるのである。禅の真理を体得するにはただこの一筋道があるばかりで、虚無を語ったり、絶対を口にしている間は禅は遠く吾々を離れている。吾々は絶えず禅から遠ざかろうとしている。「空」の足場すら脱ぎすてられねばならない。救いの道はまず自らを無限の深淵に投ずることである。これはまったく容易なる仕事ではない』(51頁)



11 鈴木大拙『禅と日本文化』

『禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を生死の羈絆(きずな)から解こうとするのである。(略)禅は無政府主義アナーキズム)やファシズムにも、共産主義や民主主義にも、無神論(アイシーズム)や唯心論(アイデアリズム)にも、またいかなる政治的、経済的な教説(ドグマ)にも結びついている。ある意味では、禅はいつも、革新的精神の鼓吹者ともいえる。また過激な反逆者にもなれば頑固な守旧派にもなりうるものを、そのなかに貯えている』(37~38頁)

『厳格にいえば、禅には自己の哲学というようなものは無い。(略)

禅匠は、ある理屈づけに対して、その方が都合がいいと思えば、かならずしも伝統的の解釈にしたがわずに、それによって、自分自身の哲学的構造を打樹てていいのだ。禅徒はときとすると儒教徒、ときとすると道教徒、また、ときとすると神道家にさえなりうるのである』(105頁)



12 鈴木大拙『日本的霊性

『禅者はよく「這箇(しゃこ)」という。心といっても、また仏、人といっても、もとよりよろしい(略)

「這箇」は「これ」である。しかし「これ」もまた、月を指す指で、その指に囚えられてはならぬ。この指はつまり何も指さされたもののない指である。指さされて見るべき月はないのである。そしてその指も亦もとよりないのである。それ故、無い月を指すのは、指であろうが、拄杖であろうが、坊さんのもつ払子であろうが、それは何でもよいのだ。が、何にもない指で指された、何もない月は、その何もないところから照りわたるのである』(359~360頁)

『禅の行き方は、いつも一方に肯定をおき、また一方に否定をおく。その二つは絶対的に矛盾する。それをそのままにしておく、否定にも拠らず、肯定にも拠らない。そしてそこで一句を言えと、逼ってくるのである。この一句が絶対の一句である。それが道取できなくてはならぬ。ここに絶対の現在の自己限定がある。天地が剖れるとか、物が出て来るとかいうところにのみ囚えられて居ると、絶対が見えぬ。相対をそのままにしておいて、しかも相対ならざるものを見なくてはならぬ』(389頁)



13 鈴木隆泰「大乗経典―仏教における〈教え〉とは何か―」『山口県立大学 :大学院論集 第8号』

釈尊の説法(〈教え〉としての仏教)の一大特徴は、教義の固定化を避ける点にある。縁起(略)という根本的真理に支えられながら、釈尊の説法は千変万化の様相を呈する。時には、内容に前後の矛盾を孕んでいることも決して稀ではない』(1頁)



14 藤吉慈海『禅と浄土教

『禅においてはドグマの束縛がなく、自己の宗教体験に即して浄土教のそれを理解し得るところに、禅の自在性があるといえよう』(99頁)



15 前田利鎌『臨済荘子

『古代の自由人は、人間の積極的な活動を阻害する三個の怪物を殺戮してしまう。――精神の粘着停滞する対象と、精神の奔放な発動を圧迫する禁止的価値観と、われわられの大胆な自己主張を畏怖せしめる死の脅威とを』(9頁)

臨済のいう出家とは伝統的な生活からの逃避と解すべきではない。家とはわれわれの生命を囲繞して圧迫阻害する偏見的思想、反生命的価値観、環境対象に牛耳られる執着――即ち人間の生命を幽閉するもろもろの化石的な殻という意味である。従って禅門における出家とか、破家散宅とかいう意味は、――換言すれば一切を自由に所有すること、一切に対して自由なる君主として振舞うことに他ならない』(40~41頁)

臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。」――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。(略)

臨済は一物も与えずして、徹底的に奪って行く。飢人の食を奪い、耕夫の牛を駆る、というものもこの消息を語るものである。己を確立して自由な自然児になるためには、人惑迷執を惹き起す一切の偶像は破壊せられねばならない。先ず仏門における最大の偶像は――仏である。仏を礼拝するは愚か、仏に自らなろうとするのが已に人間の無知を語るものである。臨済は寸毫の仮借なく、口を極めて伝統的な既成概念を罵倒している。――いわゆる仏を求め、法を求めるのも一種の迷妄である。それらは一種の抽象的な概念――名句、名字にすぎない。単に頭の中で捏ね上げた仏などは、俺の眼から見れば、糞壺――厠孔のようなものだ。菩薩羅漢の如き概念は、尽くこれ首械、手械、人を縛する底の邪魔物である。従ってそれらのものを御大相に書き記したような、一切の経文の如きは、「不浄を拭うの故紙」にすぎない。古人の言説や経文に没頭するのは、「糞塊上に向って乱咬する」の醜態ではないか。それにもかかわらず、一切の学人どもは、聞きかじり、読みかじりして教理などを語って得意でいるが、そんな醜態は糞塊を口に含んで、また人に向って吐き与えるようなものだ』(41~43頁)



16 柳田聖山『禅思想』

『『二入四行論』の雑録の一部(略)に、つぎのような一段がある。
 
縁法師がいった、「一切の経論はみなこころを起す教えにすぎぬ。道という心を起すと、たちまち巧偽が生れて、有事のなかにおちこむ。心が起らなければ、なんで坐禅する要があろう。巧偽が生れなければ、念を正すには及ばぬ。菩提心を発さず、知恵にとらわれなければ、事も理も共に消え尽きる」
 
一切の経論は心を起す教えである。すくなくとも、心が起ってからのあと始末である。仏陀は弟子あっちのひき起す不始末のたびに、一つずつ戒律を制せられたという。随犯随制である。法律というものは、すべてそんなものだ。はじめから犯罪を予定して、禁令をだすのは宗教のことではない。説法もまたおなじである。ブッダの説法は、すべて弟子たちの質問に答えてのことだ。問わねば、答えぬ。問があって答がある。応病与薬である』(36頁)

『道心を起すことが、巧偽をひき起す。道心を起すことが、じつはすでに道に背くわざなのだ。(略)もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。乱れた心を制する技術である。応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。

ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」

答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」

顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい』(37~38頁)

『馬祖派の主張は、われわれの心を起し念を動かし、指をはじき、目の玉をぎょろつかせるなど、することなすこと、すべてが仏性の活動そのものであって、けっして他のものが動いているのではないというにある。つまり、われわれがものをほしがり、何かに腹をたて、煩悩を起すことの全体が、善であれ悪であれ、楽であれ苦であれ、そのすべてが仏性なのである。(略)心を起して悪念をやめるまでもなく、また心を起して道を修するまでもないのだ。道がそのまま心であるから、心で心を修めることはできないし、悪心もまた心であるから、心で心を断つこともできない。悪をやめず、善をなさず、任運自在であるのを解脱とよぶのだ。どこにもわれわれを拘束する理法はないし、われらが努めて成るべき仏もないのだ』(136頁)



17 柳田聖山『禅と日本文化』

ブッダは晩年、こんな述懐を残している。

「わたしは、ある夜、はじめて最高の悟りに達してから、涅槃に入る死の朝を迎えるまで、その間に未だ一言も、ものを言ったことがない」

 ブッダは三十歳で悟りをひらき、七十九歳で亡くなるまでの四十九年間、席の温まる暇もないほど、忙しい伝道と遊行の生活をつづける。衆生の苦悩を救うための、徹底した奉仕の生涯であった。(略)

ブッダの説法は、いつも応病与薬であった。医者が患者の病に応じて、薬を与えるのと同じである。戒律も、同じことである。弟子たちが間違いをしでかすたびに、今後こういうことをしてはならん、もし犯したら、こういう罰を与えるぞ、というのである。一つ一つ、戒律が増えて来た。

要するに、経典も、戒律も、本当は無かった方がよかった。すべてが弟子たちの間違いの、後始末であった。かまどの灰などという、迷信を助ける危険さえまざりかねない。さらに、苦悩は無限である。方便は人類の、苦悩の数だけ必要となる。収拾は、不可能である。あの晩年の述懐は、そのことを表すといえそうである。

ブッダの死後、経典や戒律の編集に当たって、弟子たちが最も苦心したのも、じつはこの点であった。さまざまの方便の言葉をめぐって、弟子たちの意見が分かれた。方便そのものに、矛盾があったからである』(26~29頁)



18 山田邦男編『森本省念老師 下〈回想篇〉』

『森本老師は長い間寝たきりの母堂に何とかして安心の境地を手に入れてほしいと思い、暁烏敏(あけがらすはや)全集を何回も読んできかされ、その結果母堂はとうとう。「孝治さん、仏法というのはこれというものがあったらあかんのやなあ」と領解して安心を得て、それにより老師自身も肩の荷をおろして安心されたのである』(44頁)
 
『『若し仏法を論ぜば一切現成』、肯定も否定も『義なきを義とす』、解決つかぬが解決したこと。しかし、解決したと言うと、ウソになる。なり切る。しかし、なり切ったということがあったら、ウソ。ちょっとでも坐禅したという尻尾があったらダメ。ごんべえ、太郎べえの言葉は、知らんだけ本物だ』(190頁)





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「哲学的な問題」について考えていたことと「禅思想」

私が「禅思想」に興味を持ち、色々な本を読み囓っている理由には、私が、十代から二十代に入る頃までに考えていたことに沿う面が多いこともあります。

やはり、自分を支持してくれるものは好ましいという自己愛から逃れることは難しいのでしょう。

書いているうちに、私の思想遍歴の告白というかなり私的なものになってしまいましたが、同じようなことを考えている人、あるいは、考えていた人がいれば、お互い勇気づけられることになるかも知れないので、公開することとしました。



1 誰しも十代くらいの頃、「哲学的な問題」を考えることがあると思います。

私も同じでした。

おそらく本職の哲学者の方から見れば、稚拙なもので、哲学未満のものでしょう。

だから、哲学そのものではなく、「哲学的な問題」。

今でも考えることがありますが、趣味的、あるいは、実用的なもので、十代の頃のような必死さはありません。

その頃には、その問題について解決できなければ、人生の価値がない、人生を生きていくことができないのではないかと思う必死さがありました。

私の場合は、その期間が少し長くて、20歳になるかどうかというところまで続きました。



2 私が当時気にしていた「哲学的な問題」は、「どうしたら正しいことはわかるのか」ということでした。

正しい判断をしたいという単純な理由のほかに、当時、カルト宗教の問題がマスコミでよく取り上げられており、私の身近にも、勧誘活動を行う団体があり、理論武装の必要性を感じたことがありました。

カルト宗教団体の一つであるNの施設が通学先の高校の近くにあり、最寄り駅の公衆電話のコーナー(その頃携帯電話はありませんでした)には、Nの会員が群れをなして、おそらく勧誘の電話をかけ続けるという異様な光景があったほか、複数の同級生がその会員となり、勧誘活動を行うことが身近な問題となっていました。

Nのよくやる手口の一つは、中学校の同窓生に対し、「同窓会をやろう」などといって誘い込み、勧誘活動を行うものでした。

高校を卒業をした後も、同様の手口の勧誘が続けられたため、誰かからの「同窓会をやろう」という声かけは、その団体の勧誘である可能性があることから、おそらく、Nとは関係のない人も、Nだと思われるおそれがあるという警戒心があるからだとも思いますが、結局、私の期の高校の同窓会は行われないままです。

そこで、このようなカルト宗教団体に対する理論武装の必要を感じたこともあって、「どうしたら正しいことはわかるのか」という課題に取り組むようになりました。



3 最初の頃は、単純で、科学はきっと正しい、それに対して、カルト宗教団体の考え方はきっと非科学的なもので、どのような根拠で科学的な判断が成り立つかが分かれば、「どうしたら正しいことはわかるのか」がわかると考えました。

丁度その頃、池田清彦先生の『構造主義科学論の冒険』を偶然書店で目にして、科学哲学なるものがあることを知りました。

この本の中で、帰納法というそれまでの私の常識の中では正しいと思っていた科学的な方法論が厳密には正当化できないということを知り、ベタな表現ですが、目から鱗の落ちる思いをしました。

それと同時に、自分がそれまで正しいことに間違いないだろうと思っていた科学の方法論の基礎づけに困難があることを知りました。



4 私が自分の哲学的な問題に解答が得られるのではないかと期待したもう一つのルートは、自分の意識から出発するやり方でした。

外界の存在は夢からも知れないけれど、その外界に対する自分の意識は確実だから、そこから出発すれば、確実に正しいものがわかる、というデカルトの発想はもっともであるように思えました。

そこからフッサール現象学の入門書を読み囓ったりしました。
 


5 色々な本を読んだものの、正直、 字面を追うだけで、十分理解することまではできないことがほとんどでしたが、一つはっきりしたことは、人間の認識能力には限界があり、そもそも何が正しいのかは窮極的にはわからないという、考えてみれば、当然のことでした。

意識は、何らかの「機構」を通して、何かを正しいと判断する。

問題は、その「機構」が正しく働いているかを判断する方法です。

しかし、意識は、意識から離れて、その機構を観察したりすることはできません。

したがって、「機構」が正しく働いているかどうかはわからないし、どうやったら正しいことを知ることができるのかもわからないということになります。

どうもこのような結論になるしかないのではないかと思われました。
 
その頃は、ピークは過ぎたとはいえ、「構造主義」や「ポスト構造主義」が思想の世界で力を持っていましたが、そこでは「相対主義」が強調されていました。

人間の価値観が相対的ということは、当時の常識的な感覚で理解できました。

では、事実はどうでしょうか?

事実は1個しかないように思われます。科学は事実を踏まえたものだから、正しい理論も1個のはずだと思われます。

しかし、その1個の理論の正しさの保証はどこにあるのでしょうか。

そもそも、事実は、本当に1個なのしょうか。

判断の機構の正しさはわかりません。

だから、複数の人間の事実に関する判断が異なるときには、そのどれが優先するのかは判断できないのではないでしょうか。

そうすると、窮極的なところでは、事実関係も相対的であるとしか言いようがないのではないでしょうか。

私の目の前に展開する世界。

これは私には圧倒的な現実感を持って迫ってきて、疑う余地もなく確かにあるとしか言いようがないにもかかわらず、私には、それがなぜ確かに存在すると言えるのかについて何ら合理的な根拠がありません。

私を含めた誰も、「事実」についてすら、何が正しいのかの判断ができないし、しがたがって、あらゆる判断について、ほかの人を服従させるだけの特別な権威を持ち得ない。



6 そのことは、当初、おそろしいことのように思えました。
 
元々批判しようと思っていたNなどのカルト宗教団体を批判することのできる特別な権威を私は持たない。

どんな非常識な教義に対する信仰も窮極的には批判できない。

なぜなら、私自身が、この目の前に展開する世界を現実にあると判断しているのだけれども、その判断には何ら正当な根拠が見出せないからです。
 


7 しかし、ほどなく私は、その帰結を受け入れました。

受け入れるよりほかないと思われましたし、考えてみれば、裏返しの意味ではあるけれども、私は、とても自由な状態にあるということに気づいたからです。

何が正しいことかはわからない。

誰も正しさについて窮極的な権威を持ちません。

そのことは、私に対する誰のどんな要求も正当性を持ち得ないことを意味します。

私は、あらゆる要求に対し、それが一見正しいように見えても、それを要求した当人の認識自体誤りである可能性があるのだから、最後は私の意志だけで決めればよいことが反射的に許容されます。
 
ですから、後に、鈴木大拙先生の次の言葉を目にした時、強く勇気づけられました。



「われわれは知性に生きるのではなく、意志に生きる……。『われわれは、理解の行為と意志の行為とを歴然と区別すべきである。前者は比較的価値の低いものだが、後者は一切である』というブラザー・ローレンスの言葉(「神のみ前の行い」)は真理である。」

鈴木大拙『禅』68頁)



8 このような考えに立つと、ほかの人との間に考え方の相違が生じたときの対応は、二つ考えられました。

一つは、交渉であり、この観点からハーバーマスのコミュニケーション行為の理論に興味をもって入門書を読んでみたりもしました。

もっとも、現在、頭に残っている内容はほとんどありません。

しかし、交渉が上手くいかなかったらどうするか。

また、直観的には、相手の言うことが間違っていると思うのだが、相手に言い負かされてしまったときにはどうするか、というような場合の対処が問題となります。

実際、頭の良し悪しは、脳の生物学的な要素も大きいし、中には私利私欲のために優れた脳の機能を使う利己主義者もいるでしょう。

したがって、理性的な交渉で相手に言い負かされた場合でも、それに従う必要はないといえます。

考え方の異なる他者との対立は、窮極的には、何らかの物理的な闘争によって決着をつけるしかありません。

次の釈宗活老師の言葉にも共感できました。



「大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ」

(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)



9 特別な権威の存在は否定される以上、究極的に正当化される秩序は観念できません。

とはいえ、殺人の禁止の正当化ができないことと同様に「殺人の禁止」の禁止の正当化も許されない。

窮極的に正当化される秩序は存在しないが、秩序の存在は反射的に許されるといえる。

人はどんな在り方をしてもよい。

それは、あらゆる政治的、思想的、宗教的立場を肯定する。

耳障りのよい表現で言えば、あらゆる人を応援すると言ってもよいかと思います。

私が、いわゆる「本覚思想」に共感できるのもこのような観点があるからです。



「禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を生死の羇絆から解こうとするのである。しかも、これをするために、それ自身に特有な、ある直覚的な理解方法によるのである。それゆえに、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも、応用自在の弾力性を持っていて、極めて抑揚に富んだものである。禅は無政府主義アナーキズム)やファシズムにも、共産主義や民主主義にも、無神論(アイシーズム)や唯心論(アイデアリズム)にも、またいかなる政治的、経済的な教説(ドグマ)にも結びついている」

鈴木大拙『禅と日本文化」からの引用。ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)105~106頁)



そして、あしざまにいえば、いわゆる「皇道仏教」的な在り方も肯定するということになるのです。
 


「禅とは、武士と永遠の命、正義、神の道、道徳的観念を、必ずしも論じたわけではない。ただ人が一つの結論に達したとき、合理的であろうが非合理的であろうが、直進すべしと励ますのみ。哲学は知識人に安心してまかせればよい。禅は行動をとるのみ。決心した以上、もっとも能率的な行動は、ふりむかず前進するのみ。この意味では、禅こそがまさに武士にふさわしい宗教である。」

鈴木大拙『禅と日本文化』からの引用。ブライアン・アンドリュー・ヴィクトリア『禅と戦争』114頁)
 





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統合失調症と悟り体験

【要旨】

この記事は、要旨

坐禅によるうつ傾向の解消等の主要な効果は、呼吸回数の減少を緒とする扁桃体の活動の低下によりもたらされると考えられるが、扁桃体の活動の過剰な低下は、統合失調症における自我意識障害及び誇大妄想に類いする症状をもたらし、これが「自他不二の体認」などと呼ばれる白隠禅的な意味での悟りの体験であると解釈されていると思われる

ことを記述したものです。

【構成】

1 臨済禅(白隠禅)等における「悟り」体験

(1)臨済禅=白隠禅=「悟り」体験を求める禅

(2)白隠禅における「悟り」の内実

(3)白隠禅以外における「悟り」体験

2 扁桃体の活動の過剰な低下と悟り体験との関係性

(1)坐禅のプラス面における生理学的効果

(2)扁桃体の活動の過剰な低下と統合失調症との関係

(3)統合失調症と「悟り体験」

ア 扁桃体の活動の低下と自我意識障害

イ 統合失調症における誇大妄想の特色と悟り体験との整合性

3 悟り体験における前頭葉活性化仮説との整合性

4 白隠禅の禅修行と扁桃体の活動の過剰な低下との整合性

5 白隠禅的な悟り体験を求めることの問題性



以前から、白隠禅的な「悟り」の体験は、統合失調症の自我意識障害が急性的に生じるものなのではないかと考え、少しずつ調べ、ブログにもいくつか記事を掲載してきました。

【参考】

魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10)(補訂板) - 坐禅普及

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及



最近、アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマン(エリコ・ロウ訳)『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか? 脳科学で「悟り」を解明する!』、岡田尊司統合失調症』、小林和彦『ボクには世界はこう見えていた 統合失調症闘病記』を読了したのですが、これらの文献の内容を踏まえると、先のような捉え方の正当性がより強く感じられたことから、これまでの記述を整理し、前記各文献の内容等を付け加えることにしました。



1 臨済禅(白隠禅)等における「悟り」体験



(1)臨済禅=白隠禅=「悟り」体験を求める禅



「現在の日本の臨済禅は主として白隠禅である」

(鎌田茂雄「禅思想の形成と展開」『禅研究所紀要第2号』72頁)



とされます。

江戸時代に白隠慧鶴禅師が確立した修行の方法論が、現在の臨済宗全体の方法論になっています。

白隠禅の特徴は何かといえば



「見性体験の一事に尽きる」

(柳田聖山『禅と日本文化』153頁)



とされます。

禅宗では、「悟り」のことを、伝統的に「見性」といいます。

白隠禅においては、見性の体験をすることを重視します。

ちなみに、日本の禅宗のもう一方の雄である曹洞宗では、特に近代以降、悟りや見性の体験を求めることを否定する立場が主流です。(注1)



「禅は人間としての生活を出ない。禅の目標は人間完成にある。悟りを強要するような禅は、見性流の禅であつて、超人生活をあこがれる人々の迷妄である。」

(岡田宜法。大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』258頁)



(2)白隠禅における「悟り」の内実



白隠禅における「悟り」とは、一般的に次のようなものであるとされます。



「『悟り』とは、今まで『差別』の世界しか知らなかった自我が、自我を空じて無我に徹したところで、“自他不二・物我一如”という『平等』の世界が根底にあったということに目覚めることである。」

(秋月龍珉『日常の禅語』27頁)

「自己の本性を悟るといっても、べつに今までになかった新しい知識を得ることではなく、いままで後生大事に背負い込んでその重さに耐えかねていた自己という妄想の固まりを放り出して、天地宇宙と一つに融け合った瞬間の体験が悟りだ」

(大森曹玄『参禅入門』241頁)



また、具体的な実例としては、手元にある文献の中に、次のようなものもありました。なお、大竹晋『「悟り体験」を読む』には、ほかの例の引用も豊富にされており、参考になろうかと思います。


 
ア 朝比奈宗源

「長香一炷(一本)がすみ、独参の喚鍾がでるのをまちかねて、まっさきに入室し、湘山老師にいきなり、『できました』と申し上げました。それまではいつも『できません』としかいったことのない私が、勢いこんでこういいましたので、老師も、『ふうん、どう見たか』と。私が見処を申し上げると、『そう見まいものでもない』と。その場でいくつかの拶処(問題)を透りました。ここにくわしくは申し上げられませんが、ここで私は佛心の一端を見たのであります。佛心は生を超え死を超えた、無始無終のもの、

《佛心は天地をつつみ、山も川も草も木も、すべての人も自分と一体であること》

、しかも、それが自己の上にぴちぴちと生きてはたらいて、見たり聞いたり、言ったり動いたりしているのだという。祖師方の言葉が、そのとおりであるということを知ったのであります。」

(朝比奈宗源『佛心』35~36頁)

イ 鈴木大拙

「鈴木(大拙)先生の場合、『アメリカに行けばもう参禅はできぬ。渡米前に片付けなくては』というせっぱつまったとき、いわゆる『窮すれば変ず、変ずれば通』じたのである。すなわち臘八摂心中のある晩、参禅を終わって山門を降ってくるとき、月明りの中の松の巨木との区別をまったく忘じ尽した、『自他不二』の、

《天地と一体の自己を体得》

したのである。」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』149頁)

ウ 関大徹 

「見性が、いかなる内容であったかという点については、誰でもそうだと思うが、筆舌にあらわし難い。(略)

一種の宗教的恍惚かも知れず、恍惚といってしまったのでは、身も蓋もないが、やはり恍惚としかいいようのない世界であった。

とにかく、私は一つの世界を得た。それは、解放感といってもよかった。伸びやかな気分だった。自由とは、これかと思った。」

(関大徹『食えなんだら食うな』27~28頁)

*せきだいてつ。曹洞宗の僧侶。引用に係る部分は発心寺の原田祖岳老師に見性を認められた場面のもの。その後、伊深にある臨済宗正眼寺僧堂においても参禅。



以上の「悟り」体験の記述からすると、白隠禅における「悟り」において体認されるものの要点として

① 心身が他の存在との関係性においてあることの体認(自他不二・物我一如)

② ①に対する肯定的評価(恍惚感、自由、佛心等)

の二つが挙げられることができるように思います。

このような関係性(①)の肯定的評価(②)の体認が「慈悲」を基礎づけるものとされ、「大智と大悲の調和」などといわれたりします。



「禅は、徹底的に否定道を行くので、自己の煩悩を断じ、大智と大悲にめざめんとする。徹底した大悟の人においては、この大智と大悲が完全に調和して、人間の真のあり方を自ら示してくれる」

(藤吉慈海『禅と浄土教』101頁)

「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらるる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州の石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて、大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了すると考えられる」

鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』157頁)



(3)白隠禅以外における「悟り」体験



アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマンほか『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか? 脳科学で「悟り」を解明する!』によれば、白隠禅的な「悟り」体験は、キリスト教イスラム教などでも認められるとされます。

同書では、約2000の悟り体験の記録を集めたとされますが(59頁)、それらから抽出した要素は次のとおりとされます。



1 一体感やつながりの感覚
2 信じがたいほど強烈な体験であること
3 明瞭な感覚と根本的に新たな認識
4 明け渡しの感覚、自発的コントロールの喪失
5 自分の信条や人生観、目的意識などが突然、恒久的に変わってしまった感覚

(同書63頁)



もちろん、何を「悟り」と捉えるかについて、本質的な答えはありませんが、一般的に「悟り」の体験というものをイメージしたものを抽象化したものがこれらの要素といえるかと思います。

こうしてみると、1と4が白隠禅の要素の①に、2、3、5が②に当てはまるように思います。

ちなみに、上座仏教(テーラワーダ)における「悟り」は「貪瞋癡」の滅尽ですから、そこでの「悟り」の概念は、以上のような一体感とは異なるものとされます。



「最近日本でも不二一元論(advaita vedanta)系統の精神世界の教えが、欧米経由で入ってきています。『仏教は本来不二一元論だ』と主張している人もいます。ヒンドゥー教でありながら大乗仏教の空や如来蔵思想などの影響がみられ、『仮面の仏教徒』といわれたシャンカラの教えですから、似ているのは当たり前だと思います。本来の仏教をどう解釈するかにもよりますが、そのような意見に対して疑問を感じずに受けてしまう理由は、無我と真我の違いの理解の不足と、大乗仏教における空や如来蔵思想とアドヴァイタ哲学の真我との違いを分別できないことだと思います。単純に『全ての真理は同じだ』などと言うことは安易です。きちんとテーラワーダ仏教側からの意見を言うべきだと思っています。」

(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』51頁)



2 扁桃体の活動の過剰な低下と悟り体験との関係性



(1)坐禅の生理学的なプラスの効果



「悟り」体験が統合失調症の症状として理解できるのではないかということは、坐禅のプラス面の生理学的な効果について自分なりに勉強する中で着想を得ました。

坐禅のプラス面の生理学的な効果については、既に、別の記事で触れましたが、改めてのその想定される機序について記述します。

【参考】
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1) - 坐禅普及



坐禅のときには、呼吸回数を低下させること(ゆっくりと呼吸すること)が勧められますが、呼吸回数が低下すれば、血中二酸化炭素濃度が上昇し、セロトニンが分泌され、脳の扁桃体という部位の活動が低下する結果、うつや不安感が解消、軽減することが判明しているとされています。

扁桃体については、近時、その過剰な活動が、うつ病の発生原因である、あるいは、マインドフルネスによる効果が期待できるとされる慢性疼痛をもたらすと言われています。ネット上に無料で読める専門的研究者による文献が多数ありますが、これに関するドキュメンタリーを担当したNHKのディレクター氏の講演の発言が非常によくまとまっています。


 
「脳の中心部に位置する大脳辺縁系には『扁桃体』と呼ばれる小さな器官が存在し、不安、恐怖、悲しみといったうつ病の症状に関連する感情をつかさどっています。最近のヒトを対象とした脳活動の画像研究により、

うつ病の患者さんは健康な人に比べて扁桃体の活動が上昇しており、不安や恐怖の感情を強く受け止めてしまう》

ことが明らかになりました。このことから、うつ病の発症には扁桃体が深く関与している可能性が示唆され、扁桃体を中心としたうつ病発症の仕組みを解明する研究が進められるようになりました。」(2頁)

(山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」『第11回 日本うつ病学会市民公開講座・脳プロ公開シンポジウム in HIROSHIMA 報告書』)
http://www.nips.ac.jp/srpbs/media/publication/140719_report.pd



また、扁桃体と慢性疼痛との関係については次のようなことが言われています。



「身体からの痛覚情報が長期に繰り返されたり、陰性情動(恐怖、不安、怒り、悲嘆感)という付帯情報が繰り返される場合は、疼痛体験の記憶(短期記憶)が海馬から繰り返し引き出され、疼痛体験の記憶が定着化するようになる。扁桃体は常に過敏となり、僅かな情動刺激にも反応するようになる。つまり身体脳からの痛覚情報がなくとも、陰性情動のみで疼痛体験の記憶が容易に身体化し、『痛み』として体験されることになる。これが慢性疼痛の脳内での中心的維持機構であると考えられる。」

(北見公一「プライマリ・ケアとメンタルヘルス:慢性疼痛と心因性疼痛」『北海道医報』1029号9頁)



このような扁桃体の活動を低下させる機序は次のようなものであるといわれています。



「現在うつ病の薬として脳内のセロトニンを増やすという薬を使います。セロトニンは脳幹にある縫線核(ほうせんかく)というところの細胞が長い突起を伸ばし、その突起の先から出されます。とくに、感情の場である大脳辺縁系扁桃、海馬、帯状回)にセロトニンを出します。そうすると精神が安定するとされるのです。 

呼吸を止めると苦しくなります。それは血中の二酸化炭素が脳の呼吸中枢を刺激するあからです。そこで苦しくなり、息を吐き出し、早く呼吸をします。それは早く二酸化炭素を体の外に出そうとする反応です。またゆっくり呼吸すると血中の二酸化炭素の量がある程度増えます。だから少し苦しくなり、早く息をしたくなるのです。このような二酸化炭素は脳内でセロトニンを増やす効果をもつのです。つまり脳内の二酸化炭素が増えると脳内に多くのセロトニンが放出されるのです。」

高田明和『一日10分の坐禅入門――医者がすすめる禅のこころ』142~143頁)

「ネガティブな情動は扁桃体が中心で、障害され機能がしなくなると、恐怖などあらゆる感情が起らなくなります。ここに絡む呼吸を情動呼吸と呼んでいます。(略)

扁桃体でも呼吸のリズムが生まれていて、このリズムは情動と共に変化しています。不安になった時、呼吸数は増大し、呼吸は速くなります。(略・107頁)

不安と呼吸は一体となって動くので、その人の呼吸数を少しでも下げれば不安も和らぎます。世の中に出ている呼吸法はすべて、呼吸をゆっくりにする方法です。

(本間生夫「呼吸と健康」『大法輪』(2020年3月号)106~107頁)



以上の記述からすると、通例、心が落ち着く、あるいは、不安が和らぐなどとされる坐禅の生理学的な効果の機序は

「呼吸回数の減少→血中二酸化炭素濃度の上昇→セロトニンの分泌→扁桃体の活動の低下」

というものであると考えられます。



(2)扁桃体の活動の過剰な低下と統合失調症との関係



扁桃体の活動の低下は、うつ病等の発生を防ぎますが、扁桃体の活動が低下すれば低下するほどよいわけではありません。

扁桃体は、自己防衛機能ですから、これを除去した場合、危険の判断ができなくなることが知られており、扁桃体の活動が過剰に低下した場合には、日常生活に支障が生じることが懸念されます。



「左側の扁桃体を除去した結果、リンダは恐怖の回路の核を失うことになった。(略)リンダは危険を示す一般的なサインを広範囲にわたって認識できなかった。たとえば彼女は、うなり声をあげている犬を平気でなでようとした。走っている車の目の前を歩き出そうとした。熱い炭を素手でそのままつまみ上げようとした。リンダの夫の話によれば、手術を受けてから最初の二年間、妻はしじゅう怪我をしていたという。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』154~156頁)



また、扁桃体の活動の低下は、統合失調症にも認められることであり、表題に記載したとおり、統合失調症と同様の症状が生じる可能性があることも懸念されます。



統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連していることも知られています。」

独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター 菅野 巖 センター長ほか「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」)

https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html

「情動における脳機能では,扁桃体が情動記憶の形成と価値判断においてシステムの中心といわれている(略)。扁桃体の機能障害があることが(略)残存している認知症高齢者の情動に何らかの影響を及ぼしていると考える。」

(占部美恵「認知症の看護~脳の残存機能を活かしたBPSDへ対応を目指して~」『京府医大誌』121号)

http://www.f.kpu-m.ac.jp/k/jkpum/pdf/121/121-12/urabe12112.pdf



これらの文献で指摘されている情動反応の低下は、禅の修行者について、人格的に問題があると言われることが少なくないこととも整合します。



「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき、これは並以上に悪い人間じゃないか、と思うことが多かったです。」

司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』65頁)

【参考】
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/04/16/180740
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/13/120953



なお、血中二酸化炭素濃度の上昇に伴う扁桃体の活動の低下は、上座仏教の瞑想でも認められることから、「貪瞋痴の滅尽」とされる上座仏教の「悟り」の状態とは、扁桃体の活動の過剰な低下により、情動反応が極端に低下した状態といえるかと思います。



(3)統合失調症と「悟り体験」

ア 扁桃体の活動の低下と自我意識障害

扁桃体の活動が過剰に低下すると、統合失調症と同様の症状が現われうると考えた場合に、「悟り」体験との関係で興味深い統合失調症の症状として、「自我意識障害」が挙げられます。



「(統合失調症の症状としては)自分と外界の境界が曖昧になるために自我意識障害もみられる。これは、思考が他人に抜き取られる(思考奪取)、または吹き込まれる(思考注入)と観じたり、自分が誰かに操られている(作為体験)と確信したりする状況である。」

(原和明監修 渡邉映子 藤倉孝治編集『はじめて学ぶ人の臨床心理学』221頁)



自我意識障害における「自分と外界の境界が曖昧になる」感覚は、白隠禅等の「悟り」体験における「自他不二」の体感と類似するように思われます。

思考注入や作為体験は、自己という存在が他力的存在であるという仏教の教義と整合するようにも思われます。

とはいえ、このような自我意識障害は、少なくない文献で、通常、不安感を伴うものとされており、白隠禅等の「悟り」体験においては、体験に対する肯定的評価が伴うこととの整合性が問題となるのではないかと考えていました。

この問題について、私は、従前、血中二酸化炭素濃度の低下が多幸感を伴うことから、これにより自我意識障害に伴う不安感が解消されると考えれば、整合性があるのではないかと考えていました。



「死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、空気中の酸素をとり入れて、体内にできた炭酸ガスを放出することです。これが充分にできなくなるということは、一つには酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に留まることを意味します。

酸欠状態では、前述のように脳内にモルヒネ様物質が分泌されるといわれています。柔道に絞め技というのがありますが、あれで落とされた人は、異口同音に気持ちよかったといっています。酸欠状態でモルヒネ様物質が出ている証拠だと思います。

一方炭酸ガスには麻酔作用があり、これも死の苦しみを防いでくれます。」

(中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死のすすめ」』64頁)



今回、岡田尊司統合失調症』を読み、妄想の内容が、誇大妄想であれば、肯定的な評価を伴うことが分かり、この観点であれば、整合的な説明は容易であるように思われました。



イ 統合失調症における誇大妄想の特色と悟り体験との整合性

文献上、統合失調症における誇大妄想の特色としては、次のようなものがあり、「悟り体験」や、俗にいう「聖者」とされる人のイメージと整合するように思われます。

① 肯定的な体験であること
② 慈悲の感情を生み出すこと
③ 妄想知覚=それまでなかった考えが想起され確信されること
④ 無欲
⑤ 清明な感覚=朦朧状態ではない
⑥ 知性の維持



「誇大妄想自体は、その人にとって心地よいものであるため、一旦誇大妄想がはじまると完全にはなくなりにくく、慢性的に続きやすい。」

岡田尊司統合失調症』95~96頁)



肯定的な誇大妄想が、自我障害と並立することは、統合失調症の体験記である小林和彦『ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記』からも窺い知ることができます。



「僕はまるでワーズワースの詩の世界のような幸福感に包まれ、木陰に腰を下ろした。(略)

蚊が腕にとまり、僕の血を吸っていた。僕はそれを払いのけようともせず、蚊をじっと眺め、僕の血を求めているその蚊に対して、何か愛おしさのようなものを感じてしまった。とにかく幸せな気分に満ちていたのである。(略)

何者かが、『この世界は僕のためにある』というシグナルを絶えず送り続けている感じなのだ。『世界は僕のためにある』とは、二~三日前から考えていたことだが、それがこんなにも違和感を与えるものだとは思っていなかった。」

(小林和彦『ボクには世界がこう見えていた』112~113)



この誇大妄想の肯定的感覚の強さは、小林氏の次のような記述からも認められます。



「できれば入院は避けたい。(略)それは毎日薬を飲むことに限る。しかしそれを実行すると僕は想像力を失われ、ロボットのように生きていかねばならないことを意味するような気がしてならない。だから、今は薬は飲みたくない。いかに気分がハイになろうとも、入院せずに済む方法を模索したい。毎日創造的に生きていきたいのだ。」

(小林前掲書209~210頁)



小林氏は、妄想を苦痛ではなく、創造的なものとして肯定的に捉えていることがわかります。

また、誇大妄想が、慈悲の感情を生み出すことも、小林氏の体験からもうかがえます。



「現実的な考え方をしていくべきだ、とは思っているが、僕はどうしても統合失調症患者の切なる願いが世界を動かしている、という妄想的世界観に頭が支配されてしまう。最初に発狂した時の気持ちを忘れたくないからだ。僕は以来ずっと、『世界を救いたい』という誇大妄想的使命感(メシアコンプレックスと言う人もいる)を持ち続けている。」

(小林前掲書350頁)



ここでも、「最初に発狂した時の気持ちを忘れたくない」という言葉の中に、誇大妄想に対する強い肯定感が顕われています。



自他不二の体感が慈悲の感情を生むわかりやすい例としては、岡田尊司先生のクライアントに関するお話が具体的です。



「彼は『声』が聞こえてくるのだと言った。その声は宇宙の星から届くのだという。彼は、その星で自分は生まれ、その星に還らなければならないのだとも言った。(略)
 
自分が泣いているのは、

《すべての人間の悲しみが、彼に押し寄せてくる》

からだというのだ。苦しめないでほしいと、彼は誰にともなく懇願した。自分には、どうすることもできないのに……。

《彼は全人類の苦しみを一人で背負っている》

ようだった。(略)

彼の熱っぽく、一途なまなざしは、歪んだ顔に流れ落ちる涙とともに、高貴で崇高な何かを湛えていた。私は彼の苦悩の純粋さに心を打たれていた。」

岡田尊司統合失調症』25~26頁)



「すべての人間の悲しみが、彼に押し寄せてくる」というところは、思考注入の一種かと思われますが、「一切衆生病めるを以てこのゆえに我れ病む」(維摩経。鎌田茂雄『維摩経講話』124頁)の観があります。



このような慈悲の使命感を表わすような「妄想知覚」は、ほかの例でも認められるようです。



「精神医学には『妄想知覚』というタームがある。これは通常の外界からの刺激に対して、特別の意味づけを行うものであり、患者本人はその内容を強く確信している場合が多い。(略)

また現実にそぐわない考えが突然浮び、それを直観的に確信してしまうことも生じる。たとえば『自分は社会を変革する使命を与えられた特別な人間だと急にわかった』などといったものであるが、これを『妄想着想』と呼んでいる。妄想知覚や妄想着想は、初期の統合失調症でよくみられる症状である。」

岩波明「解説」『ボクには世界がこう見えていた』373頁)



この中で、興味深いものは、「現実にそぐわない考えが突然浮び、それを直観的に確信してしまう」という点です。

臨済禅の禅堂の場の実際を考えると、このように思い浮かんだものを師家に示したときに、それが教義に適うものとして師家が認めれば、更にその妄想が強化されるということになりそうです。

先の岡田尊司先生のクライアントの方に対する記述の中の「高貴で崇高な何かを湛えていた。私は彼の苦悩の純粋さに心を打たれていた。」との記述も興味深いものがあります。

このクライアントの方について、岡田先生は、次のようなことも仰います。



「三ヶ月ばかり入院して、彼はよくなって退院した。ごく普通の若者に戻っていた。どちらかといえば、純粋すぎるくらい純粋で、優しくて、誰にでも親切な若者だった。気になるといえば、あまりにも無私無欲すぎることであった。我欲というものを、ほんとうにわずかしかもたないように思えた。」

岡田尊司統合失調症』26頁)



「無私無欲すぎる」、あるいは、「我欲というものを、ほんとうにわずかしかもたない」という点は、禅等の大乗仏教に近しいものを感じます。

岡田先生は、ほかの統合失調症の患者さんについても次のようなことを仰います。



「二十八歳のときに精神科医となって以来、私は、統合失調症の患者さんの純粋さに、心が洗われるような思いを味わってきた。私は、彼らと向かい合うことに、

《何ともいえない心地よさや安らぎを覚えた。》

健康とされる人のほうが、当時の私には、鈍感で、がさつで、無神経な存在にさえ思えた。世間で偉いといわれている人と接するとき、私は醜い欲望と自己顕示欲しか感じなかった。だが、統合失調症の患者さんと相対するとき、猥雑なものを捨て去った、

《清らかな精神を感じた。》

ぎりぎりのところで、危ういバランスを取りながら、辛うじて命を保っているというのに、何も自分からは求めようとしない、その無抵抗さや儚さに、私は心を打たれたのである。」

(岡田前掲書28頁)



このような記述を見ると、統合失調症の方には、俗なイメージでの聖者的な方も存在するように思われます。

そして、実際に、中世では、統合失調症の方を聖なる存在としてみることもあったようです。



統合失調症は、創造性や予知能力と関係した聖なるインスピレーションをもたらすものとして、社会の中で崇められ、高い地位を占めることも珍しくなかった。

実際、近代的な制度が、精神病の患者を社会から排除して、分厚い壁や鉄格子の中に閉じ込めるようになるまでは、精神病を患っていても、社会の中でほかの住民とともに暮らすことが当たり前であった。彼らは社会に居場所を認められていたのである。キリスト教文化圏に限らず、神聖なものとして大切に扱われることも多かったのだ。(略)

十七世紀の初めまで、精神病者たちはどこにでも自由に行くことができ、むしろ神聖な存在として、大切に扱われる慈しみの対象であった。」

(岡田前掲書54~55頁)



このように考えると、坐禅等の扁桃体の活動を低下させる実践等は、聖者的な人物を人為的に生み出す方法として、ある程度の合目的性があるようにも思われます。

特に、統合失調症の症状のうち、誇大妄想の場合には、クライアントの知性が維持され、妄想内容も論理的整合性のある場合も多いとされることから、宗教上の指導者としての活動も可能であるように思われます。



「妄想型は、妄想や幻覚を主な症状とするタイプで、もっとも遅く発症して、もっとも予後のよいタイプとされる。生活能力や平均的なIQも、ほかのタイプより高く、認知機能の障害も小さいことが多い。」

岡田尊司統合失調症』47頁)



また、アンドリュ-・ニューバーグらは、「明瞭な感覚」が悟り体験にあるところ、統合失調症の妄想では、そのような「明瞭な感覚」はないのではないかと考える人もいるかも知れません。

しかし、誇大妄想における妄想は、明瞭なものでもあり得ます。この点は、先に引用した小林和彦氏の闘病記からもわかるところです。



「市立釧路総合病院の森田先生から、会社に提出する診断書が送られてきた。以下はその全文。

『傷病名 幻覚妄想状態。(略)』

僕はこれを読んでショックを受けた。分裂病か躁病、あるいは従来症例のない新しい病気ではないかと思っていたからである。それが幻覚妄想状態という病名の病気であることを初めて知らされた。(略)

手紙を受け取った当初は、あれだけ頭脳明晰で、直観力鋭敏で、洞察力深遠だった精神状態が『幻覚妄想』の一言で片付けられるとは……。」

(小林和彦『ボクには世界がこう見えていた』195~196頁)



三者的にはわかりませんが、小林氏自身の中では、「頭脳明晰で、直観力鋭敏で、洞察力深遠だった精神状態」であったものとされています。



以上の考察からすると、悟り体験は、坐禅に伴う扁桃体の活動の低下から整合的に説明ができるようにも思います。



3 悟り体験における前頭葉活性化仮説との整合性



悟り体験の要因については、前頭葉が活性化することなどを挙げる考え方もあります。



チベット仏教の修業僧が深い瞑想に入った時の脳の働きを調べた報告で、額の奥の脳である前頭野が活動し、いっぽう頭のてっぺんの部分である脳の頭頂野が沈黙しているということであった。(略)

坐禅で強力な瞑想へのトリガーがかかると前頭葉が活動するが、それに反比例して頭頂野の活動が抑えられてゆく。(略)

その結果、自己と外界との境界の消失ないしは融合、さらには自己と宇宙との一体感をもたらす。これによって大日如来との一体化や、キリストとの合体感も起きるようである。

また深い瞑想の境地では脳内の神経物質であるセロトニンドーパミンが分泌される。

菩提樹の下での最後の悟りに入られた釈尊は「虚空を太陽が照らすがごとき」境地であったと述べられている。このような劇的な境涯は神経伝達物質ドーパミンが放出された結果と思われる。

脳内で起こる特殊な状態は、伝教大師弘法大師法然上人や親鸞聖人、そして道元禅師などの宗教家、また荒野をさまよい悪魔と戦いながら修業をしたキリストも体験されたものと思われる。

深い瞑想状態によってもたらされる宗教家の脳内変化は、洋の東西を問わずほぼ等しかったと考えられる。」

(本庄巌「お釈迦様の脳」『仏教クラブ』)
http://www.bukkyoclub.com/colum/buddha



耳鼻科が専門の本庄先生は、「前頭葉の活動の活性化→頭頂葉の活動の低下」という機序を考えられているようですが、アンドリュー・ニューバーグ他『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか? 脳科学で「悟り」を解明する!』によると、前頭葉頭頂葉の活動が共に活性化した後、急激にその活動が低下するという機序を辿るものとされます。



「人が悟りを求めて特別な修行をする場合、西洋でも東洋でも、宗教上の修行で当ってもそうでなくても、黙想的な省察に集中したり瞑想を始めると、まずは前頭葉の活動が活溌になる。増加が大きいほど、明瞭さを増し、自分の行動や振る舞いを意識的に行え、コントロールしやすく感じるようになる。

われわれの脳のスキャンの研究では。最初に頭頂葉の活動も活溌になっていた。瞑想の対象や世界との関わりを感じる自意識が増加するので、自分のゴールを定めてそれに向かいやすくなる。

こうして前頭葉頭頂葉の活動が増加することで感情を感じる激しさも減らすことができる。そのため私たちはより落ち着き、ぐらつかず、自分をコントロールしやすくなる。そうしたことで悟りに導かれるわけではないが、突然に前頭葉頭頂葉の活動が大幅に減少すれば、私たちは制御不能(明け渡し)を感じ、自意識は弱まるか、またはなくなり、感情的にも劇的に高揚するため、その体験が尋常でないほどリアルに感じる。」

(アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマン(エリコ・ロウ訳)『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか? 脳科学で「悟り」を解明する!』101~102頁)



以上の文献に出てくる前頭葉の活動の活性化に始まる「悟り」体験に至る一連の機序と、2項で述べた扁桃体の活動の過剰な低下に伴う自我意識障害等の発生=「悟り」体験に至る一連の機序とは整合性についてですが、次に挙げる文献のとおり、前頭葉の活性化が扁桃体の活動の低下をもたらすとされることからすると、整合的に説明できるように思われます。



前頭前野の特定の部分が活性化すると、扁桃体の反応を抑制できる」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』152頁)

「マインドフルネスによる前頭前皮質の賦活は,(略)感情の増幅を行う扁桃体への抑制を生じさせ,興奮状態となる感情を抑制する」

(織田 靖史,京極 真,平尾 一樹,宮崎 洋一「近赤外分光法を用いた前頭前野の酸化ヘモグロビン量の比較によるマインドフルネス作業療法の効果─マインドフルネス作業療法とマインドフルネス・スキルトレーニング,精神科作業療法の比較─」(日本臨床作業療法研究No.3)26頁)

https://kenkyuukai.m3.com/journal/FilePreview_Journal.asp?path=sys%5Cjournal%5C20161011065157%2D2C9400914A1F1C9DB6DCCC836FEDA10757527F004CAC8EAA120244C8E634E76C%2Epdf&sid=848&id=2253&sub_id=39719&cid=471



前頭前野前頭前皮質は、同義であり、前頭葉の一部になります。

坐禅等の瞑想によって、前頭葉が活性化すると、扁桃体の活動が低下しますから、統合失調症様の症状が出てくることと整合性を保つことができます。



4 白隠禅の禅修行と扁桃体の活動の過剰な低下との整合性



「悟り」体験に匹敵する統合失調様の自我意識障害及び誇大妄想が生じるほど扁桃体の活動が低下することは、稀な事態であると思われますが、白隠禅の禅修行は、このような事態を相対的に生じさせやすくするものといえるかと思われます。

たとえば、このような効果をもたらす「修行」の内容のメニューとして、次のようなものが考えられます。

① 長時間の坐禅

② 睡眠時間の減少

③ 公案参究

④ 受動性の強調

(1)長時間の坐禅

白隠禅においては、夜坐を含め長時間の坐禅が強調されますが、坐禅扁桃体の活動を低下させる効果があると考えられることからすると、長時間の坐禅扁桃体の活動を極端に低下させる上で有効であることは明らかであるように思われます。

(2)睡眠時間の減少

前項の夜坐に挙げたとおり、白隠禅の禅修行においては、睡眠不足の事態が生じやすいものと考えられますが、睡眠不足が統合失調症の症状を活発化させることからすると、これも、白隠禅的な悟り体験を得やすくする要素であると思われます。



統合失調症患者における陽性症状は主に急性期にみられ,陽性症状が活発で不眠が続く患者にとって薬物療法は効果を得やすく,睡眠導入剤による睡眠時間の確保によって症状安定を図れると考えられる」

(武内玲、川田美和、柴田真志「統合失調症入院患者の身体活動と睡眠指標の関連」『日本看護科学会誌』39号69頁)



(3)公案参究

白隠禅においては、禅の語録から抽出された日常的な感覚では意味不明の文章を「公案」と称して検討させる修行がなされますが、これも統合失調様の症状を生じさせる上では有効と思われます。


 
「近年、統合失調症の機能低下は、前頭前野の過剰な活動亢進によってもたらされていると考えられるようになっている。つまり、頭が働きすすぎることが、機能低下を引き起こしてしまうのだ。考えすぎて、結局何も考えられないというのが、統合失調症の思考回路が陥った状態なのでる。」

岡田尊司統合失調症』180~181頁)



意味不明の文章を苦しみながら考えさせることが、前頭前野の過剰な活動亢進をもたらすことによって、統合失調症様の症状を生じさせ易くなることが考えられます。

(4)受動性

禅や仏教の世界では、「受動性」が強調されます。

次に挙げるような鈴木大拙先生の著書に出てくる考え方は、その典型かと思います。



「他力、受ける、向こうから授けるのを受ける、すなわち受動性というものが宗教にはあるのです。(略)『本性清浄』ということにもなります。この清浄とは、ただ綺麗であるとか、大空の雲のない姿で、からりとして何もないという、ただそれだけを意味するのではなくて、そういう姿でないと、そこへはものが這入ってこないのです。これは受動性をたとえたのであります。受動性は、つまり絶対的包摂性と云ってもよいものです。」

鈴木大拙『無心ということ』9頁)



そして、「受動性」は、統合失調症病前性格として重要視されています。



「近年行われたある研究によると、統合失調症病前性格の最大の特徴は、受動性だという。自分から主張したり、かかわりをもったり、不満を訴えたりすることが少なく相手から望まれれば応じるという受け身的な行動様式は、統合失調症に特徴的な『させられ体験』や悪口や命令が聞こえる幻聴などの症状にみられる受動性に通じている。『大人しくて手のかからない子』『自分からはあまり言わない、優しい子』というのが、子ども時代の典型的な印象であることが多い。」

岡田尊司統合失調症』86頁)



禅の修行の場では、単に理念的なものとして「受動性」が説かれるだけではなく禅堂における生活の中で、「忍辱」という観点が重視されたり、指導者である師家等の命令に従うことが強調されますが、「相手から望まれれば応じるという受け身的な行動様式」を繰り返すことが、統合失調症病前性格と同様のものを作り上げ、統合失調症様の精神症状を出やすくさせるように思われます。



5 白隠禅的な悟り体験を求めることの問題性



以上のことからすれば、白隠禅の「修行」に基づいて、「自他不二」の体認などと呼ばれる「悟り」の体験ができる可能性は非現実的なものともいえないようにも思われます。

しかし、扁桃体の活動の過剰な低下によって、統合失調症における自我意識障害と誇大妄想が起こり、これが悟り体験として体認される可能性があるとしても、統合失調症の症状は多様であり、都合よく、悟り体験に相当する症状が現われるとは限らない点は問題となるかと思います。

坐禅の実践を中心とした禅の修行では、「魔境」と呼ばれる幻覚の生じる場合のあることが知られています。



「(専門僧堂での修行の)過程のなかで、色んな幻想が湧き起ってくるわけで、これは古来『魔境』とか『現境』とかいって白隠禅では特に喧しく注意されているところですが、少なくとも、いい気分になる場合であれ、あるいは鐘の音が全身に突きささってくるような苦しい幻覚であれ、凡そ日常生活では味わうことのできぬ体験が臨済の修行にはあるというのは事実です。」

(西村恵信「済家の風」『禅研究所紀要第18・19号』78頁)



統合失調症が種々の幻覚や妄想をもたらすことからすると、このような魔境の発生は、扁桃体の活動の過度な低下の観点から、白隠禅的な悟り体験を捉えることの合理性を裏づけるものといえます。

そして、禅の修行で体験されるものとされる特異な体験の多くは、魔境のような異常心理にすぎないものといわれます。



「今日あちこちの禅会でいわれる見性など、大半は異常心理で、断じて見性などとはいえない。」

(秋月龍珉『公案』72頁)



古来、白隠的な意味での悟り、すなわち、「見性」が認められる例が少ないとされるのも頷けるところです。



「むかしから禅では、その修行の純粋さをたもつために、真実に修行するものはそう多くあるものではないから、一人でも半人でも真実の修行をするものを目当てにして、決して多くの弟子を得ようとするなと、きびしく戒めております。」

(朝比奈宗源『佛心』1頁)

臨済禅のほう、特に私のほうなんかでは、見性者というようなことはなかなか言わないことであり、口にすることさえ慎しむというくらいの気持を持っているのに、東京のほうの老師方はじきに見性々々ということを単純にいわれる。私どもどうもその点がわからぬ。見性というようなことは大体いうたら大悟に等しいものでなければならんので、その単純に三日でちょっと見性したとか、あれは見性したとか、私は見性しましたとかいうようなことは、少しくらい禅の匂いやら方向がわかったようなことでは、そういうことをいわない、むしろ隠しておくということがわれわれの世界です。それをだれでもかれでもみな見性者というということは、何だかこのごろの百円札を見るような気がしまして、いかにもインフレがきつ過ぎるような気がします。そんなことでは真剣な修行の態度だとか法を尊ぶ態度というものが出てこない。ある禅の雑誌に、今度の接心にはだれとだれが見性したから小豆飯を炊いて祝ったとある。私どもは見性者なんということをみずからいうということは、祖師に等しい境地になりましたということを宣言するような気がしておりますから諒解できません。」

(柴山全慶発言。大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』292~293頁)



私がかつて所属していた禅の団体には、「見性」した「とされる」人が多数いました(私を含めて!)。

もっとも、ほかの会員と話をした限りでも、魔境に入った人も稀でしたので、当然ながら、その実態は疑問であると思われます。

柴山老師の発言は、このような団体を指して言ったものであったのかも知れないなとも思います。

魔境の問題点は、単に異常な体験をするだけではなく、それが精神疾患をももたらし得るところにもあります。



「魔境は,心理学的にいうと坐禅の修行中に遭遇する一種の幻覚体験であるといえよう。幻覚は,精神病の典型的な徴候の一つであるために正に病理的な現象である。(略)人格発達の面で自我形成が未分化な場合,防衛機制によって処理できない内容に唐突に遭遇することで,不安や恐怖で一時的に錯乱したり,一種のノイローゼ症状を呈する場合もある。これは専門の禅の修行者にも見られることが知られている。(略)

魔境の問題だけでなく坐禅の不適切な修行法のために,古来禅病に罹患する禅僧が少なからずいたことはよく知られている。」

(斎藤稔正「変性意識状態と禅的体験の心理過程」『立命館人間科学研究 第5号』52頁)



魔境の危険性は、マインドフルネスの専門家の方からも、指摘されています。



「(マインドフルネス訓練にあたり)自分を信じすぎるのは困りものです。瞑想中に光が見えたとか、神様が現われたといったような特殊な体験から自分は偉い人になったように誤解してしまうのは一番危険なことです。特殊な体験は魔境と言っています。このような状態は重要視しないほうが良いでしょう。

≪とりわけ人格変容状態には気をつける≫

必要があります。

≪精神医学で診る人格変容状態は殆どが病的なもの≫

です。それにおぼれたり、こだわったりすることは強く避けるべきです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号80頁)

「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして

≪権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性≫

をはらんでいます。」

(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)88頁)



白隠禅の「修行」は、慈悲の行為を行うような人格の形成を目指す「人格変容状態」を目指すものであり、それ自体が危険な側面もあります。

また、「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」があるとの指摘も無視できません。

実際、禅の修行のプロセスは、洗脳を成功させる条件にも合致し得るものです。

【参考】
摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(1) - 坐禅普及



成功が保証されておらず、却って精神を病む可能性があるような「修行」をする必要がある否かは、よく検討する必要があるように思われます。



6 まとめ



言うまでもなく、「悟り」体験に関する科学的な研究は非常に限られていますし、また、統合失調症の機序についても、未解明な点が多いとされます。もちろん、書いている私自身が、一読書人にすぎません。

とはいえ、白隠禅的な「悟り」体験については、扁桃体の活動の過剰な低下により、統合失調症と同様の自我障害及び誇大妄想が生じるのだと考えると、関連する現象について整合的に説明ができるように思われます。

白隠禅において「悟り」を体験できるまでの修行を完了できる方が少ない理由も、脳が異常な状態になることから、肉体の正常な機能として、ブレーキをきちんと掛けてくれていると理解することが適当であるのかなと思います。

また、体験的に坐禅をしても、再びやる人がすくない理由についても、扁桃体が平均よりも活発に活動しておりうつ傾向があるなどの場合を除いては、日常生活を送るに当たっては、扁桃体がきちんと機能している必要があるので、坐禅に対して自然な拒否反応が倦まれるためではないかという気もします。

仏教の教義は「応病与薬の方便」と言われますが、坐禅も病んでなければいらないものといえるのではないかなと思っています。

今後も、自分なりに勉強をしていき、内容をより充実させたいと思います。



(注1)近現代曹洞禅における悟り体験批判

曹洞宗では伝統的に悟り体験を否定してきたわけではないとされます。

「悟り体験批判に対しては、曹洞宗内部からの逆批判も提起されている。すでに戦前から原田祖岳(略)、渡辺玄宗のような僧堂師家から逆批判めいた声が上げられていたのであるが、本格的な逆批判が提起されるようになったのは、戦後、悟り体験批判の急先鋒であった駒澤大学宗学者たちが引退し始めてからである。沢木興道、岡田宜法に対しては、前述の佐橋法龍が問題視している(略)。衛藤即応、榑林哠堂、酒井得元らに対しては、柏田大禅、板橋興宗らが反論している(略)。近年においても、角田泰隆が次のように述べている。

道元禅師の修証観において、無所得無所悟の強調が、いかにも証悟の否定であるかのように理解されてきた面もあるが、けっしてそうではないことは明白である。(略)

駒澤大学における道元研究の第一人者、角田がこのように発言したことの意味は重い。あるいは、曹洞宗においても、いずれ、悟り体験批判は鎮静化していくかもしれない。少なくとも、道元の名を借りての悟り体験批判は、もはや、通用しなくなる可能性が高い。

曹洞宗における悟り体験批判は、近現代から始まったものにすぎず、もともと歴史的に道元に結びつけることが難しい。」

(大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』268~269頁)





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二者間の意志疎通による自己の探究――河合隼雄『心理療法序説』を読む(その2)

本稿も『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』からの引用は頁数のみにとどめます。

【前回の記事】
死と再生――河合隼雄『心理療法序説』を読む(その1) - 坐禅普及



○自己の探究

禅の目的として、「真の自己の探究」が挙げられます。(注1)

心理療法においても、同様のことが言われています。



「われわれの目指しているところは、与えられた環境のなかでクライエント自身がいかに

《自分の生きる道を自主的に見出してゆく》

か、それを援助しようとしているのである。」(137頁)

ユングの言っている『個性化の過程』ということは参考になるだろう。まず、この世に生きてゆくために必要な強さをもつ自我をつくりあげ、その自我が自分の無意識に対して開かれており、自我と無意識との対決と相互作用を通じて、

《自分の意識を拡大・強化してゆく。》

無意識の創造性に身をゆだねつつ生きることは、相当な苦しみを伴うものであるが、それを回避せずに生きるのである。」(286頁)



禅でいうところの自己は、他者との関係性における自己ですが(注2)、心理療法においても、他者との関係性の回復も重要な課題とされます。



「現代は孤独に悩む人が多いが、そのひとつの原因として、自分の思うままに他人を動かそうという考えに知らぬ間にのめり込んで、結局のところは人と人との『関係』を失ってしまっていることが考えられないだろうか。相談室に訪れる多くの人に対して、『関係性の回復』ということが課題になっている、と感じさせられるのである。」(62頁)

「近代になって急激に発達した自然科学は、テクノロジーと結びついて、人間が多くのものを操作し、自分の意のままに他を動かすことができる、と思いこみ過ぎたのではないでしょうか。『科学の知』によってすべてのことが理解され、すべてのことが可能になると思ったのではないでしょうか。しかし、科学の知の根本にある対象と自己との分離ということを何にでも適用しようとしすぎて、「関係性の喪失」という病を背負わさざるを得なくなったと思われます。心理療法家のところに訪れる人たちは、大なり小なり『関係性の喪失」を病んでいるということができると思います。

フロイトユングの試みたことは、『関係性』を前提とする知を獲得することであったと言えます。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』22~23頁)



これらの記述の中で、「操作」に対する消極的な価値観が繰り返し出てくることも、仏教の考え方によく出てくるもので興味深いものがあります。



また、禅においても、心理療法と同様、それぞれの個性が重要であるものとされます。



「禅の実修体験はものに執われない自由な主体性の確立を促すもので、それが人間の自由な創造意欲をたかめ、独創性に富む芸術作品やいろいろの禅文化を創造せしむるにいたる。」(藤吉慈海『禅と浄土教』53頁)

臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。』――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。」

(前田利鎌『臨済荘子』前掲書41~42頁)



禅とユング心理学がなんとなく似ている面があることから、禅における「真の自己」をユング心理学における「無意識」ではないかと見る観点も強くあるようです。

しかし、ユング心理学における「無意識」はやはり個人の人格の問題にとどまるのに対し、禅における「真の自己」は人格の更に背後にある法則性それ自体ですから、安易に同視することはできないように思われます。(注3)

その点で、禅は、個々人の中にある普遍性を重視するのに対し、心理学はどこまでも個人を問題とする点で相違が出てくるように思われます。

このことから、関係性と個性とでは、禅においては、関係性を重視し、心理療法においては、個性を重視する点で違いがあるように思います。

禅、あるいは、仏教の場合は、どうしても教義論的な側面が出てくるためではないかと思います。

このことが、禅や仏教が全体主義的な方向に行く危険をはらむところで、禅の世界にいらっしゃる方も注意を促します。(注4)

河合隼雄先生も、仏教に共感しながらも、距離を置こうとされます。



明恵を心の師と仰ぐと言いましたが、明恵自身は宗派をひらくことには否定的でありました。彼は当時の宗派の組織や教団から逃れようと大変な努力をしています。このことは、私がたとい明恵を師と仰ぐとしても、明恵を尊敬する集団に属しようとすることはできないことを意味しています。明恵にならうならば私は一人でなければなりません。安易に彼の『弟子』になることは許されないのです。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』61~62頁)



その上で、この文章に先立って次のように語られます。



仏教徒と言っても厳密に考える限り、仏教のどれかの宗派を選ばねばならないし、そうなるとそこには一定の教義があり儀礼があるし、その宗派の集団の維持ということも生じます。このような点まで必要となってくると、私は仏教徒であることを留保しなくてはなりません。私が

《個性化の過程と考えることに、これらは妨害的にはたらく》

ことがあると感じられるからです。特に日本人の集団は、西洋近代の自我に対して敵対的にはたらく傾向が強いので、特定の集団に帰属することには慎重でなければならないのです。私は西洋近代の自我の在り方を唯一の正しいものと考えるのには反対ですが、その肯定的な面を十分に認めています。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』61頁)(注5)



このような個別性が重視される関係から、心理療法においては、予め答えが定まっているわけではなく、個々人が自分の中から見い出さなければならないことから、禅では、師家に当たるであろう治療者の役割の相違が生じるように思われます。

次項で、この点を確認しようと思います。



○二者間のコミュニケーション

禅、特に臨済禅においては、師家と学人との間の問、すなわち、二者間のコミュニケーションが重視され、心理療法においても、治療者とクライアントの二者間のコミュニケーションが重要です。

ただし、前項のとおり、個々人が自らの中からそれぞれ固有の答えを見つけ出さなければならないという性質上、治療者本人も答えを知らないというところに特色があるように思います。



心理療法家は『答』をもっていない。(略)

考えてみると、心理療法家というのは、ドグマをもたずに全人的かかわりを強いられるという非常に困難な状態におかれている。それは言うなれば『宙ぶらりん』の状態である。しかし、何か特定のものにしがみつくことなく、宙ぶらりんの状態を永続させる強さをもつことは、心理療法家として実に必要なことであろう。それに耐えているとき、クライエント自身が解決を見出してゆくのである。」(118~119頁)

※「ドグマをもたず」、「宙ぶらりん」という言葉も禅的な感じがします。



禅の世界でも答えを自らの中から探すということがいわれます。

しかし、たとえば、臨済禅(白隠禅)の修行に用いられる公案については、その師家毎にある一定の枠内での答えがあり、師家本人が最終的にその答えを教えることもあります。(注5)

これに対し、心理療法の場合は、治療者自身が答えを知らないことから、このことが更に強く求められると思われます。

その結果、心理療法では、答えを教えるのではなく、クライエントが答えを見つける援助者になることが大切であるといわれます。



「われわれの目指しているところは、与えられた環境のなかでクライエント自身がいかに自分の生きる道を自主的に見出してゆくか、それを援助しようとしているのである。」(137頁)



そこで、次のような対応をすることになるとされます。



「教育というときに、動物を訓練し、しつけるというイメージと、植物を育てるというイメージと療法がある。どちらも大切なのだが、一般に植物イメージで考えることの方は忘れられがちなように思われる。土壌と太陽の光とがあれば、植物は自分で育ってくる。このときに、人間は植物の芽をひっぱったり、つぼみを無理に開いてみたりしてはならない。ここで、土壌や太陽に相当するのが、教師あるいは親などの、その周囲に存在する人々の暖かい、待つ心である。これは迂路のように見えて、結局は一番の近道なのである。熱心に教育しようとする人によって、芽をつみとられたり、つぼみを台なしにされてしまったような子どもの例をわれわれは多く見てきたのである。」(87~88頁)



強引に特定の方向に引っ張っていくのではなく、飽くまでも対話を通して、自分自身の答えを導き出すように粘り強く援助すること。

一人一人が自分の答えを導き出す力を持っているという観点が、「衆生本来佛也」の感もあって気持ちよく感じます。

そのことを河合隼雄先生は、治療したり、与えたりするのではないと表現し、これも仏教的、禅的な感じがします。



心理療法家は薬や手術によって、クライエントの苦しみを無くしたり、軽減したりすることはできない。その苦しみの意味を知っていることである。これらのことがしっかりしていないと、クライエントは何か不満を感じはじめる。」(210頁)

心理療法によって誰かを「治す」ことなどできない、と私は思っています。深層心理学の理論を「適用」できないことはすべに述べました。しかし、われわれは近代のテクノロジー的思考パターンで考えることに慣れすぎてしまって、どうしても操作的な考えに陥ってしまうのです。(略)

心理療法で最も大切なことは、二人の人間が共にそこに『いる』ことであります。その二人の間は『治す人』と『直される人』として区別されるべきではありません。二人でそこに『いる』間に、一般に『治る』と言われている現象が副次的に生じることが多い、というべきなのでしょう。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』53頁)



クライエントの上にいてどこかに指導していくのではなく、クライエントの隣に「いて」クライエントの苦しみにどこまでも寄り添っていく。

その在り方が何やら「菩薩」としての在り方にも通じるような感じ、「坐」という文字について、二人の人が共に大地にいる意味という理解の仕方にも通じるような感じがします。

反対に、治療者が指導的な立場になることを強く警戒します。



「自己について西洋のユング派分析家で疑問を呈した人がいる。ジェームス・ヒルマンがその人で、彼の考えの要点をのべると、『自己』という考えは一神教的な背景が強く、その元型が他のすべての元型に優越し、自我から自己へという『一直線の進歩の段階』のようなことが考えられてくる危険性が高い、ということがまず第一点である。(略)ヒルマンがもう一点問題としていることについて述べる。それは『自己』はしばしば『老賢者』のイメージとして顕現するが、それが実際の『長老』と結びついてくるときに問題が生じるというのである。つまり『長老』のもつネガティブな面、『神学的一神論の、かたくなな固執、宗教的寛容性のなさ、そして優越性に対する確信』が強く出てきたとしても、他の者はそれに反抗できないのである。(略)

長老(セネックス)のイメージが心理療法家に対して投影されることがある。そのことをわれわれはよく意識しておく必要がある。たとえば、治療者が「解釈」を告げたり、忠告を与えたりすると、クライエントがそれに無批判に従ってしまうことがある。自分の考えや生き方と照らし合わせて考えるのではなく、ただ、それに無批判に従ってしまうことがある。自分の考えや生き方と照らし合わせて考えるのではなく、ただ、それに従ってしまうので、後で問題が生じてくるのであるが、治療者はそれに気づかずに、凄くわかりのいいクライエントだと思ったりする。

クライエントの場合は、それでも自分の生きることに直接関係してくることなので、それに対する反撥がどこかで生じてくるだろうが、むしろ、恐ろしいのは訓練の場である。どうしても、指導者がヒルマンの言うような長老になってくる。このような傾向は日本で非常に強いので、指導者になった者は常に心していなくてはならない。」(148~149頁)



禅における師家・老師は、まさしく「長老」であり、あまりにも権威が強すぎて、本当にうまくやらないと依存的な人間を作り出す恐れが高いように思います。

【参考】
摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(3) - 坐禅普及

人の自律性を尊重する成長の助力の在り方としては、次のような望ましく感じます。



「クライエントの提示する『作品』に対して、治療者はそれを『その精神と肉体によりそって、同じ方向に向いてすすむ行為』としての発言をすべきであり、それが望ましい『解釈』というものではなかろうか、実のところ、何度も繰り返すように、それが望ましい『解釈』というものではなかろうか。実のところ、何度も繰り返すように、治療者とクライエントとの間には逆転が生じることがあるが、『同方向に向いてすすむ行為』として見れば、逆転が生じたとしても、どちらがどちらに『与える』、『つげる』という関係は生じないのではなかろうか。

このようなイメージとして、二人が同行してすすんでゆくことを考えるとき、『洞察』によって、『はっとわかる』というよりは、ともかく二人共に歩み続けることの大切さを感じさせられるのである。自分自身が長い教育分析を体験し、また多くの人の心理療法を行ってきたことから考えて、筆者としては、膝をたたいて、はっとわかるというイメージより、歩き続けに歩き続け、ジワジワと少しずつ変わってくるという実感の方が強いのである。」(224~225頁)



正しく「同行二人」ですね。

そして、最終的に独り立ちして、離れていくことがベストになります。



「人生の過程は死ぬまで続くし、その間に人間の個性化の過程も続くのであるから、心理療法や分析が終わるのは、別に人生の歩みがとまることではない。ただ、その道を自分なりに進んでゆくのであり、心理療法家にそのために会いにくる必要がなくなった、ということである。」(248頁)



(注1)禅の目的としての「真の自己の探究」

「『自己の本性見極めること』。真の自己に気付くこと――これが悟り。」(有馬賴底『『臨済録』を読む』38頁)

(注2)禅の自己とは他者との関係性における自己

「『悟り』とは、今まで『差別』の世界しか知らなかった自我が、自我を空じて無我に徹したところで、

《“自他不二・物我一如”》

という『平等』の世界が根底にあったということに目覚めることである。」
(秋月龍珉『日常の禅語』27頁)

「自己の本性を悟るといっても、べつに今までになかった新しい知識を得ることではなく、いままで後生大事に背負い込んでその重さに耐えかねていた自己という妄想の固まりを放り出して、

《天地宇宙と一つに融け合った瞬間の体験》

が悟りだ」

(大森曹玄『参禅入門』241頁)

(注3)禅における「真の自己」は人格の更に背後にある法則性それ自体

「法は始めなく終わりなく、今も目前にあり又後にもあるもので、よく過去、現在、未来の三際を貫き、大は日月星辰より、小は針の目までも行き亘って居るのだ、一切の事実は悉く是れ法の顕現である。一切の因縁には法が交って織られ、因の中にも法あれば縁の中にも法がある。然し法は決して因縁に束縛されるものでない、大自在である大自由である。円転滑脱の作用がある。この法が即ち仏性とも称せられるのぢゃ、されば仏性は生きとし生ける人、鳥、獣、草、木などの有機物のみならず、金石国土の如き無機物にも猶お宿って居る。萬有の本体は、帰するところ一の仏性である。即ち法が是れ事物の本然という事になる。この法は万古不易の人力を以て如何ともする能わざるもので、人間は総て皆這箇の法の支配を受けねばならぬのである。」

(釈宗演『最後の一喝』226~227頁)

(注4)禅において全体主義に向かわせようとしない注意

「いろんな企業が新入社員や中堅幹部の研修をさせてくれ、とやって来るからである。

こういう社員は、まるで流刑地に護送されてきた囚人のごとく到着し、懲役刑のごとく我々の修行生活を勤め、赦免釈放されたかのように帰っていく。こちらは相手にするのもほとほと馬鹿馬鹿しく、個人で真剣に坐禅している一般参禅者にも失礼きわまりないので、私のいる道場では現在、企業の研修は受け付けない。(略)

『無我』(略)普通、一般人がこの言葉を聞くと、(略)『わがままを言わない』ことを意味する(略)

わがままを言わずに何をするかといえば、『いまなすべきことをひたすらなす』のだ、とこうなる。そのときもし、『なすべきこと』を他人に決められるとしたら、それは、その他人に対して『滅私奉公』することと寸分違わない。(略)

世上に流布する『無我』と『滅私』の取り違えには、仏教者の側にもだいぶ責任があるあろう。

いつぞや、八十過ぎの知り合いのおじいさんと話していたら、彼はこんなことを言った。

『ちょうど戦争が終わり近くになって、そろそろ本土も危ないと言われ出したころ、仏教で言う『無我』ということは、たとえばいまなら、お国のために命を捨てることだと説教していた坊さんがいたな。(略)

ハッキリ言っておきたい。一般に仏教語の『我』とは、常に同一で普遍の実体を意味するのであって、『無我』は、それが私たちの思い込みによる錯覚にすぎない、ということを教える言葉なのだ。

したがって、(略)『滅私奉公』の『公』には、どんな固定した真理も実体もない。それが『無我』の意味だ。裏返せば、私たちが『主体的』と呼ぶべき生き方を築き上げるための、前提中の前提こそが『無我』なのだ、ということである。」

(南直哉『語る禅僧』60~64頁)

【参考】
禅と全体主義――「戦争と禅と日本国憲法」追補 - 坐禅普及

(注5)公案の答えと師家による教示

「禅は教外別伝で不立文字であるという。が、禅宗の坊さんほど、祖録の書入れ本を秘密にする者はない。また公案を数えて、これを透ったとか透らぬとかいって、それで他を験せんとする。そしてその公案を透ったというのは、みずから内に深く発明したものがあるのでなく、老婆禅のお師匠から、その説明を教わったもの、大いに文字を立て、教外でなく、却ってその内に手引かれたという意味なのである。」

鈴木大拙による序文。秋月龍珉『公案』9頁)





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死と再生――河合隼雄『心理療法序説』を読む(その1)

新しい本ではありませんが、最近、河合隼雄先生の『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』を読みました。

河合隼雄先生のお話しは、別の方の本などで目にしたことはあり、仏教に対する造指が深いことは知っていたのですが、きちんと読んだことはありませんでした。

目を通して、禅の捉え方と類似する面を感じると同時に、微妙(あるいは大きな)相違点も感じました。

禅との類似点としてあげられるのは大きくわけると、次のものになるのかなと思います。

・ 死と再生
・ 自己の探究
・ 二者間のコミュニケーション
・ 実践の永久性

以下備忘も兼ねて整理します。

なお、『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』からの引用は頁数のみにとどめます。



○ 死と再生

禅、特に、臨済禅(白隠禅)では、「大死一番 絶後に再蘇」などと「見性」(臨済禅的な意味での「悟り」)する上で、現在の自我を殺すことを象徴的に表現します。

このことは(ユング派における)心理療法においても、同様のようで、心に問題がある自分から生まれ変わるという観点があるようです。



「自己成熟とか自己治癒の力と言っても、それが急激に行動化されるときは危険なこともある。たとえば、自己変革の力を端的に行動化しようとすると、自殺という行為になるだろう。

『死と再生』のパターンは、心理療法の過程につきものと言っていいほどで、(略)単純に自殺をとめることは、せっかくの『死と再生』のプロセスをとめることになるし、さりとて、それが実行されてしまうと失敗になる。(略)

いかにして象徴的な死と再生の過程を歩みつつ、肉体の死を避けるか、というように考えた方が、治療者の役割がはっきりするであろう。」(24~25頁)



禅の修行と違い、心理療法においては、心の問題が症状として表れている人を相手にするせいか、「死」の問題が単なる象徴的な意味ではなく、そのプロセスで自殺をしてしまう現実的な可能性があるようです。



心理療法の底流として、常に『死と再生』ということが存在しているので、それをアクト・アウトとするならば、自殺ということが生じるわけである。治療の過程のなかで、死にたいとか死ねとか言ったり、実際に企図したりということが割によく生じるのも、このためである。」(234頁)



心理療法と自殺との関係性については、薬物療法に関するものですけれど、次の記述がわかりやすい。



「何年にもわたって、自分が特別な存在だという妄想とともに生きてきた人は、薬物療法によって妄想が、妄想だとわかったとき、危機を迎える。それは、長年自分を支えてきた世界の崩壊に等しい。もう何も頼りにするものも、自分を支えてくれるものもない。ただ、自分が何年も妄想にとらわれて人生を無駄にしたという事実しか残らない。それはあまりにも残酷な現実と向き合うことだ。妄想がとれたとき、自殺してしまう人もいるのは、そうした理由からだ。」

岡田尊司『マインドコントロール』59~60頁)



自分自身の内面を変えようという動機は、自分の内面に問題があることを前提としますから、問題のある内面を見た時のショックは大きいのでしょう。

ですから、河合隼雄先生は、表面的な精神障害の症状は、深いところの問題を抑える働きがある可能性があると指摘します。



「症状はクライエントにとって辛いものであるが、それによって自我が守られている面もあるので、治療者としては症状をなくしようと焦らないことである。」(212頁)



このような問題を十分に認識せずに、表面的な症状の治療を急ぐと「アクティングアウト」=自殺をする危険がたかいということでしょう。



禅の修行に関する本を読んでも、精神的に異常を来す人が出てくる例はよく見かけますが、自殺をする例は、私の知識不足もあるのでしょうが、聞いたことがありません。

当り前ですが、禅の修行で「坐蒲の上で死ね!」などと言っても、象徴的な意味に過ぎず、それをやっている人が自殺をすることを現実的に考えることはないものと思われます。

そうすると、禅の指導よりも、心理療法の方が自殺を現実的なものとして考えなければならないという点でシビアなものがありそうです。

そのために、当然ですが、治療者自身がその限界を十分把握している必要があるとされます。



「治療者はクライエントの内的過程が生じるための『容器』として存在しているのだが、そのためには、自分の限界をよく知っておくべきである。

クライエントが自分の限界をこえると判断したときは、そのことを率直に話し合うのがよい。それによって、もっと適切な他の治療者を見出すときもあるし、『限界』を明らかにしたことによって、クライエントも考え直し、また関係が継続され、あらたな発展が見られるときもある。ともかく限界以上のことを無理していることを認識していないときは危険である。」(25~26頁)



心理療法ですが、一般的にクライアントの話を聴くことが中心的な治療方法となります。

アドバイスはしません。

ご存知の無い方は驚くかも知れませんが、クライアントの話に相づちを打ちながら話を聴くだけです。



「臨床心理学社の河合隼雄さん(略)基本的には「セラピスト」のような仕事がご本業。(略)私はさっそく、

『患者さんに、どんなアドバイスをなさるのですか』

と伺いました。すると河合さん、

『アドバイスは、いっさいしません』

え、アドバイスをしないの?意外でした。じゃ、カウンセラーは何をするのかしら。

『僕はね、ただ相手の話を聞くだけ。聞いて、うんうん、そうか、つらかったねえ、そうかそうか、それで?って、相づちを打ったり、話を促したりするだけ』

『どうしてアドバイスをなさらないんですか』(略)

『つまり、他人のアドバイスが有効に働いたときはいいのですが、何かがうまくいかなくなったとき、そのアドバイスが間違っていたのだと思い込んでしまう。すべての不幸をアドバイスのせいにして、他の原因を探さなくなってしますのです』」

阿川佐和子『聞く力 心をひらく35のヒント』146~147頁)



内面をクライアントが語る中で自分自身の問題を対象化して整理していく。

その上で、治療者のアドバイスは無意味で有害ということですね。

答えは自分自身の中から見つけださければならない。

このようなところも、禅と心理療法との近似性を感じるところです。

しかし、語って自分の問題が明確になったがために、却って精神的な痛みが深まるおそれがあります。

だからこそ、治療者は、自分の受けとめられる限度を考える必要があり、クライアントに内面をなんでも表白させればよいというわけではないことになります。



「治療者としては、自分の容量をこえて心的内容が露呈されてくるときには、それをとめることも必要である。ある程度の強さをもったクライエントは、治療者の容量を察知する力があり、治療者の容量にふさわしい仕事をするが、そうでないときは、過去の経験や感情の未消化のものが噴出してきてしまうときがある。クライエントはそのときは自然の勢いによってそのようにしてしまったものの、帰宅後、自己嫌悪に陥ったり、あるいは、治療者の欠点を急に意識しだしたり、防衛がはたらきすぎて中断してしまうことがある。そのように感じたときは、『その話は大切なのでまた後でゆっくりとお伺いしましょう』(略)というような形で、噴出をとめるべきである(略)。一般に信じられているように、ただ心のなかのことを出しさえすればいいのではない。」(26~27頁)



心の問題のある人を禅道場が受け入れるか否かが問題となるときがあります。

衆生済度」の観点から受け入れるべきだという方もいらっしゃいますが、多くの方は、受け入れない方が適切と判断されるようです。

私自身、禅の団体に加入して活動していたときにも、うつ傾向の高い方が、却ってその症状を深めたのか、あるときからやって来なくなる例が少なくありませんでした。

その点の限界をよく考えるべきであることは、当り前の話ですが、改めて参考になります。






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【参考資料】不安なままでいいじゃないか

禅の目的の一つは、安心立命であるとされます。



「古来の常套の語(ことば)を以っていえば、安心を得るのが仏教の目的である。(略)安心とは、心を一定不動の處に安住せしむるの意で、謂ゆる宗教の力に依って、不動の信念を確立するということである。古来禅門で悟ったと云い、又本来面目に相見したなどというは、要するに皆な安心を得たと云うことである。」

(秋野孝道『此処に道あり』15頁)
 


しかし、ここでいう「安心」が、静的状況であると捉えると間違えます。

諸行無常であり、あらゆるものが変化するのですから、静的状況はあり得ません。

不安定な状況なのですから、静的な安心を求めるということ自体が間違っているのです。

禅では、不安から抜け出そうとすることが、却って不安を増すことになり、不安の中に、そのままでいることこそが、安心なのであるという観点があります。

安心が禅の目的、すなわち、「悟り」であるとするのなら、不安なままで、安心、すなわち、「悟り」の状態にあることなのですから、特に、不安を解消するための特別な修行は不要であるということになります(※1)。



よく思い出してみましょう。

私たちは、これまでの人生で、不安な中にいながらも、きちんと対応して生きてきたのです。

だからこそ、私は、この文章を打てるのですし、あなたも、この文章を読めるのです。

人生は不安だらけかも知れない。

しかし、どんな不安があろうとも、私たちが、今、生きているということが、確かな現実なのです。

不安は、想像の中の非現実的な妄想にすぎません。



そのことを忘れてしまうと、不安に駆られて自分を見失ってしまいます。

頼るものなど全くなくても、問題がなかったのに、ほかの誰かや、薬物や、宗教団体や、思想団体に依存することになり、あなたは、自由を失うのです。

自分らしく、自由に生きることができないということは、私たち一人一人が、この世界に異なるものとしてある価値を毀損させるものです。



不安の中にあっても、きちんと独自なものとして生きている現実の自分を見失ってはいけません。



このような観点でいうと、坐禅は二つの機能を果たすと言えます。

一つ目は、不安の中にあって、意識的に何も抵抗せずにいることです。私たちは、不安に耐えきれず、何をか行為をしがちです。坐禅を通して不安な中にあって何もせずとも問題がない自分を再確認するのです。

二つ目は、純粋な対処療法です。不安なままで安心するようにといっても、難しいので、坐禅によって気持ちを落ち着かせる。脳生理学的には、扁桃体の活動を低下させることになります。



(1)秋月龍珉『無門関を読む』

「『心を安らかにしよう』とすること自体が『心を不安にする』ことにほかなりません。『心を動かすまい』という努力自体が『心をうごかしている』当の原因なのです。血を血で洗うようなものです。先の血は清まっても後の血で汚れます。

ともかく何かを目ざして、理念(イデー)を立てて、その理想の実現を目ざして努力する『理想主義』的はからいは『仏道の修行』とは逆の道なのです。

《『安心』を目ざし、『不動心』を目ざし、『無心』を目ざすこと自体が誤り》

なのです。『心を求めましたが、まったく得ることができませんでした』と言ったとき、二祖は真に『無心』の境地に立って、いわゆる『不擬の道』(目ざすことのない道)に達したのです。」(203~204頁)



(2)上田閑照『禅仏教』

「平常心において多難に心労する」(55頁)

「心の動揺中こそが、本来の自己への実践的真剣の道場になるのである。(略)いらいらしながらもいらいらしないものが、

《不安であって不安でない》

ものが、困りながらも困らないものが、病んでも病まないものが、寂しくて寂しくないものが、自己の自由なリアリティになる端緒が開かれ、そしてそのようなリアリティに触れたあり方で事に当ってゆくのである。」(257頁)



(3)柳田聖山『禅思想』

「煩悩を断じてネハンを得るのではない。煩悩を断ぜず、ネハンを得る必要のない本来の心にかえるのが、ほんとうの安心である。

要は、各自の心のありようにある。

《不安な心のほかに安心する心はない》

のだ。」



(4)酒井得元『永平広録について』

「私は若い時に徹底的に坐禅修行をしようと思っていましたので、臨済の道場へ行っておりました。あそこでは全員が、なんとかして見性しようという一つの雰囲気に、ひたりこんでしまっていました。そして見性するためには、自分の身体なんかはどうなってもいいというような熱気に燃えていました。つまり見性のためには手段を選ばぬといった調子でした。後から考えてみますと、これは別に考えなくともわかることですが、本人は真剣な求道人としてどうしても自分は悟りたい、そのためには自分はどうなってもよいと、本当にそのように思ってしまうものです。然し、結局は、それはただ自分のものが欲しいということだったのです。つまり満足感の追求ということだったのです。それでどうしても安心決定したいというのでした。

《安心決定が欲しいというのは、実は自己満足の追求》

に外なりません。」(7~8頁)



(5)飯田欓隠『通俗禅学読本』

「病の時は病ばかり、只管病苦じゃ。病者衆生の良薬なりと仏も云うた。病によりて永久の生命が得らるるからじゃ。(略)死の時は死ぬるばかりよ。死也全機現(しやぜんきげん)じゃ。只管死苦じゃ。この期に及んで安心を求むるとは何事ぞ。只

《死苦ばかりの所に大安心》

の分がある。全機現とは宇宙一枚の死じゃ。死者の世界邪。死によりて宇宙を占領するともいえうる。元古仏は生死は仏の御命なりともいわれた。死を厭うは仏を殺すなりともある。」(24~25頁)



(6)沢木興道発言。酒井得元『沢木興道聞き書き

「その二人の尼僧は一人は叔母、一人はその姪であるが、(略)せっかく仏道に入ったのだから、何とか仏法の安心(あんじん)だけは得ておきたいというので、三井(みい)の法輪寺真言宗)の七十歳の老僧のところへ、

『どうしても私は安心が得られませんので……なんとか安心の得られますようにしてください』

と頼みに行った。その老僧はなかなか面白い人だった。

『ナニッ、安心が得たいって、お前らのような若い者が、いまから安心して、一生楽をしようと思うのか。せんど心配したらええわ、わしは七十にもなって、まだ心配しているじゃないか。このなまくらめ』

と怒鳴られて、この二人はびっくりして、ほうほうのていで引き退った。」(132頁)



(7)鈴木大拙『百醜千拙』
 
「趙州の語録に左の問答がある。一人の婆子が問うた、婆は是れ五障の身で地獄は決定と思いますが、どうしてこれを免れ得ましょうかと。それで趙州の答に曰はく、『願わくば一切の人は悉く天に生まれてくれ。願わくば婆々だけは永く苦海に沈むであろう』と。」(153頁)



(8)中野駿太郎発言。秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』

「現在の凡夫の迷っている心を、それが直らないものと見られたから、仏はそのまま救うてくださるという、〈そこ一つ〉を知らせていただいたとき、そこに永遠の生命を認めて、信仰の境地に入るのです。」(133頁)



※番外編 

本論から外れますが、捨てがたい「安心」の例



(1)西田幾多郎の日記。秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』159頁

「明治三四年二月一四日 大拙居士より手紙来たる。衆生無辺誓願度をもって安心となるとの語、胸裡の高潔偉大可羨(うらやむべし)。(略)

余のごときは日々に私欲のため、この心身を労す。慚愧々々。」



(2)釈宗演『心の眼を開け』

「吾々は腹の中(うち)に種々様々な煩悩妄想を詰め込んで居るから、忙しい此の世の中に在って、人生五十だとか六十だとか、甚だしきは夜半(よは)に嵐の吹かぬものかはなど取越苦労をして居る。力の続かん限り働いてそうして死ねばそれで本望である。何も考える必要はない。如何に病気に苦しみながらも、如何に自由を奪われて居ても、ただ

《自己の活動を続けてさえ居ればそれは大自由であり、大安心》

である。元来生とか死とか考うべき理由も考えうべき事も存しないのである。」(76頁)



(3)山田邦男編『森本省念老師 下〈回想篇〉』

「森本老師は長い間寝たきりの母堂に何とかして安心の境地を手に入れてほしいと思い、暁烏敏(あけがらすはや)全集を何回も読んできかされ、その結果母堂はとうとう。『孝治さん、仏法というのはこれというものがあったらあかんのやなあ』と領解して安心を得て、それにより老師自身も肩の荷をおろして安心されたのである。」(44頁)



(※1)「禅」とは何か特別な修行をして、「悟り」などの特別な心理状態になるものだと考える人もいるかも知れませんが、禅の歴史を振り返ると、特に、理想的な状態とされる唐代の南宗禅、特に、禅の語録いもよく出てくる馬祖~臨済等の系譜では、坐禅等の特別な修行を否定していました。

仏教は応病与薬の方便ですから、病んでいなければいらない。そこで行われる実践は病んでいるからこそ必要であるという観点が入っているのではないかと思われます。



「馬祖によれば、人間はみな覚醒した世界に生きているのであるから、日常の生活の裡に自足しておればよいのであって、このうえ更に『佛法』を学び、『修行』をし、『坐禅』をして『悟り』を求める必要はまったくない、外にそれを求めることはむしろ清浄心を汚すものである、とした。」

(衣川賢次「臨済義玄禅師の禅思想」『禅研究所紀要第34号』109頁)

【参考】
唐代南宗禅 - 坐禅普及






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【参考資料】瞑想の副作用(第2版)

(1)大谷彰『マインドフルネス入門講義』

「マインドフルネス実践中にトラウマの自然除反応が発生することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネスが禁忌となりやすい条件が推察できます。

仏教に造詣の深い精神科医精神科医マーク・エプスタインは、臨床マインドフルネスの悪影響について、マインドフルネスの進展レベル(初心者/熟練者)、およびクライアントのコーピング能力(高/低)という2つの視座から論じています(略)。彼によるとマインドフルネスでは初心者から熟練者までの各レベルにおいて幅広い『副作用(side effects)』(たとえば、知覚の変化、不安、焦燥、トラウマ記憶再生(自然除反応など)が生じる。これらのなかには「病的」なものもあれば、一過性の困難やトラブルにすぎないものもある)(略)。こうした現象が適切に処理できればまったく問題とはならないが、対応が一時的に困難となった場合や、コーピング能力の低いクライアントには深刻な問題になりかねない、と警告します。この区分によると、トラウマ記憶によるマインドフルネス実践中の自然除反応は『一過性困難』の典型であり、境界性パーソナリティ障害のクライアントは『コーピング能力の低いクライアント』のケースと言えるでしょう。要するに、臨床マインドフルネス実践では、クライアントのあらゆる反応に留意することが必要であり、なかでもコーピング能力が十分に確立されていないクライアントには特別の配慮が必須とされるのです。」(195~196頁)



*コーピング=ストレスマネジメント手法の一つ。自分のストレスの感じ方を認知・内省して対処する方法。

境界性パーソナリティ障害=情緒不安定パーソナリティ障害とも呼ばれる。不安定な自己 - 他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害。自傷行動、自殺、薬物乱用リスクの高いグループ。



「コーピング能力の未発達からマインドフルネスが困難となるケースには、境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害(略)などのパーソナリティ障害、PTSD(略)、薬物依存、衝動制御困難といった障害を抱えるクライアントが該当します。これらの障害はDBT、ACT、メタ認知療法などの臨床マインドフルネスが治療対象とする領域です。DBTの専門家たちは、こうした障害に対するマインドフルネス応用を次のように説明しています。

長時間におよぶマインドルフルネスの実践は、深刻な心理障害をもつクライアントには適用すべきではない。ある程度の基本スキルなしに実践することは失敗をまねく原因となるので、段階的に訓練を積んでゆくのが望ましい。」(197頁)

「自殺願望の強いクライアント、トラウマ体験から時間の浅いクライアント、自我強度(ego-strength)の低いクライアント、深刻な認知障害発達障害、精神病(略)などの心理障害をもつクライアントにも、臨床マインドフルネスを禁忌とみなす識者もいます。(略)困ったことに、既存のマインドフルネス効果の過大評価が指摘され(略)、臨床マインドフルネスの適用と禁忌の判定がいっそう困難になりました(略)。」(197~198頁)

「臨床マインドフルネスの禁忌はまた、マインドフルネスの実践がクライアントにとって過分な負担となる場合にも当てはまります。」(199頁)



(2)大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』

「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルース・ベアとウィレム・カイケンによる「マインドフルネスは安全か?」という記事が掲載された。このなかで、リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい、と彼らは指摘している。

この記事に次いで、マインドフルネスのもたらすマイナス体験の実態調査が、(略)発表された。この研究では参種類の瞑想(テーラーワーダ、禅、チベット)実践者、総計60名から6年間にわたりデータが収集された。統計結果を見ると、72%が『リトリート中もしくは終了後に問題が生じた』と答え、オックスフォード・マインドフルネス・センターの見解を裏づけている。個人の実践では28%が『不快体験あり』と回答した。不快反応のタイプについては『恐怖、不安、パラノイア』(82%)が抜きんでている。しかし特筆に値するのは、マインドフルネスによるトラウマ記憶の再体験である。これは実践者の習熟度にかかわらず、約半数近くの実践者(初心者43%、熟練者47%)に生じた。研究対象の被験者数が60名と比較的限られているにせよ、(略)マインドフルネスにより『瞑想難民』のみならず、『瞑想病人』の出現すら危惧されるからである。 」(34頁)



(3)佐藤豪「心理カウンセリングのなかで」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』

「マインドフルネスがさらに多様な人々に広がってゆくことは望ましいが、その注意点や問題点についてもさらに明確にしてゆくことが望まれる。特に自我境界の弱い人にどのように適用するか、自我の混乱を起こさないためにどのような配慮をするかなどを検討してゆくことが重要である。」(46頁)

「動機づけが強くなりすぎて『これさえ毎日おこなっていれば自分は癒やされる』と思ってしまうと、どうしても力んでしまって、自律訓練法で言うところの受動的注意集中や適度なリラックスができにくくなってしまう。 (略)マインドフルネスの瞑想は『意識を集中する』ということにスタートラインがあるため、どうしても、「身体を使う」という現実と接点をもつことが適切に出来にくいという難点があるように思われる。(瞑想等については)無意識のなかにあったさまざまな瞑想や衝動性といったものが意識のなかにあったさまざまな願望や衝動性といったものが意識のなかに侵入してくることによって、心のバランスを崩し、現実から乖離した状態を起こすと言えるだろう。瞑想などの方法では、そのような危険性をチェックすることが必要であると思われる。」(49~51頁) 

「強い怒りなどを持っている人が、その感情と距離を置いて、瞑想のなかでその感情を適度に発散し、コントロールしていく、というのはなかなか難しいことではないだろうか。しばしば自律訓練法の場面においても、強い怒りのために訓練に導入することができない場合や、訓練が終わった後に怒りを表出してしまう人などもいる。セラピストはこのようなことに十分に配慮して自律訓練法の指導をおこなうが、それでもコントロールできないことがしばしばある。このようなことからすると、人が自分自身で瞑想に入ったときに怒りなどの感情をうまくコントロールして昇華することは、なかなか困難であると思われる。」(51~52頁)



(4)プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』

「魚川 あくまで極端な例だとは思いますけどね。とはいえ、やはりリトリートの参加者たちの中で、そこでの経験を瞑想センターの外での日常生活に、どのように繋げていけばいいのかという点に関する困難を、多かれ少なかれ感じた人は多かったようです。実際の所、日本で瞑想をしている実践者にも、同種の困難を感じている方々は多いと思います。」(70~71頁)

「プラユキ (略)『幸福になるために瞑想をはじめたはずなのに、かえって苦しみが増えてしまった気がするのだけど、どうしたらいいでしょうか』と言う人が、私の瞑想会や面談会にいらっしゃることはよくあります。そういう方々を見ていると、やはり『過度の集中』が、身心のバランスを崩す主要因になっているように思われる。

過集中の問題については(略)、一つにはやはり『スピード』が遅れること、つまり、集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つものですから、そこにハマってしまうと、イキイキとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われてしまう。

そして、この集中によるデフォルメされた認知から派生するもう一つの大きな問題は、それが心理学で言うところの「解離」の症状や、「回避」の行動をもたらすことです。私が蚊に刺されたかゆみが全く平気になるようなトランス状態に入ったのに、にもかかわらず村の騒音にどんどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の情を抱くようになるんですね。

実際、私がお話しした「瞑想難民」の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者によっては、そういう状態を『瞑想が進んでいる証』として、肯定してしまったりするわけです。それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに状況を悪化させていくというスパイラルに落ちていく。」(137~138頁)



(5)プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』

「日本やタイでは、苦しみから抜け出そうと瞑想していくうちに、さらに多くの苦しみを抱えてしまう『瞑想難民』が増えている。」(66頁)

「苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり、人間関係がぎくしゃくするようになったり、なかには、統合失調症離人症、感情障害や摂食障害のような不調をきたす人もいる。

その要因として瞑想をストイックにやりすぎて、心身機能のバランスを崩すケースが多い。心身の土台がしっかり整っていない状況で、心というデリケートな対象にアプローチした結果、それまで自然に機能していた生命状態が撹乱し、心身の調和が乱れ、通常の認知状態に戻る柔軟性も失われてしまい、種々の症状となって現れてくるのである。

たとえばこんな感じである。精神状態がちょっとすぐれないので、『瞑想で解決しよう』と思いたつ。けれども、集中が思うように続かず、『俺はダメな人間だ』と考えて、無能力感や絶望感に陥ってしまう。心を楽にしようと思って始めた瞑想が、いつの間にか『苦悩の増幅法』にすり替わる。しかも本人はそれに気付かずに、『いつかは成果が……』と自己を叱咤しながらやり続ける。そのうちに種々の精神障害を発症。心がさまざまな不調のシグナルを発していたにもかかわらず、無理してやり続けることで症状を悪化させてしまうのである。」(70~71頁)

「細かい身体感覚への集中を取り澄ます瞑想に取り組むようになってから、そうした症状(服を身につけるなどしたときに身体に痛みが生じるようになること等)に見舞われるようになったという。」(71頁)

「また、以前気にならなかった周囲の音がすごく気になるようになって、日常生活のなかでイライラや恐怖感を感じることが多くなるといったケースもよく聞く。

その他に、ラベリング系の瞑想で、心に対してラベリングしていくうちに、いつの間にか自分が発した言葉の威力に圧倒されてしまう、あるいは虜になるといった人も少なくない。」(71~72頁)



(6)横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』

「(横田)サマタ瞑想、集中瞑想をしておりますと、先ほど来、説明がありましたように、外の世界を断ち切る修行ですから、逆にこれを妨げるもの、外で物音がしたり、邪魔をするようなものに対して非常に不愉快な感情が起きます。排他的な感情が起きます。下手をすると攻撃的になったりするのであります。

よく笑い話で言うのですが、居士林という坐禅道場がありまして、集中瞑想ばっかりやっているんです。すると、どういうことがあるかと言うと、たとえば、外で観光客がうるさかったりすると、外に『坐禅中につき静かにしろ』と貼り紙を出して注意する。しかしそれでも静かにならないと、外へ出て「おまえたち、今、俺たちは坐禅してるんだ、静かにしろ」と叫ぶ。『おまえが一番うるさいんだ!』と言いたくなるんですけれども、そういう愚かなことをやっているんです。皆さん笑いますけどね、本当にそういうことをやっている。」(80頁)

「(横田)外の情報を断ち切って一点に集中するということは、大きな力を得るという利点はあります。様々な欲望を克服していったり、自分の弱さを乗り越えていく大きな力になるのは感じます。でも、先ほど居士林の笑い話をしたように下手をすると排他的になり、攻撃的になってしまう、諸刃の剣のような一面も持っているのではないかという懸念を抱いております。」(84頁)

「(熊野)先ほどサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が、それぞれ医療とか心理臨床の世界に取り込まれてきた過程をお話ししましたが、リラクセーション法は実は、統合失調症の人はやらないほうがいいということがわかったんですね。やはり、統合失調症の方だと、中にあるものが溢れ出してくるということがあるのだと思います。だから、集中していくということの結果、起ってくるそういう反応みたいなものに、やっぱり充分気をつけていなくてはいけなくて、そこのところが充分にケアできないような状況でやると、過集中のような状態になって、さらにその反応がワッと出てきて悪化するというようなことがあったり、あるいいは怒りなんかがまたコントロールできないような状態になったりというようなことも起こるのだろうと思います。」(85頁)



(7)井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)

「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性をはらんでいます。」(88頁)



(8)貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号

「(マインドフルネス訓練にあたり)自分を信じすぎるのは困りものです。瞑想中に光が見えたとか、神様が現われたといったような特殊な体験から自分は偉い人になったように誤解してしまうのは一番危険なことです。特殊な体験は魔境と言っています。このような状態は重要視しないほうが良いでしょう。とりわけ人格変容状態には気をつける必要があります。精神医学で診る人格変容状態は殆どが病的なものです。それにおぼれたり、こだわったりすることは強く避けるべきです。」(81頁)

「マインドフルネス訓練を行ってはいけない人は、真正の統合失調症急性期の患者さんです。自我が分裂する病気の人に自分を見つめさせると、病状が悪化する危険があるからです。ただし、慢性期の統合失調症の患者さんには適用することはできます。マインドフルネス訓練により陰性症状が軽快することが期待されます。

もう一方の禁忌の患者さんは心的外傷ストレス障害の患者さんです。この障害の患者さんに慈愛の瞑想をする場合です。幸福になって下さいと祈る相手が心的外傷に関連する人であると病状を悪化させる懸念があります。慈愛の瞑想では、祈ることが困難な対象は避けるように注意しなければなりません。」(83頁)



【参考】
統合失調症と悟り体験 - 坐禅普及
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及
「調心」その問題性(2)――坐禅の生理学的効果(7) - 坐禅普及
「調心」その問題性(3)――坐禅の生理学的効果(8) - 坐禅普及
魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10)(補訂板) - 坐禅普及





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