坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

実社会生活で結果を出す

禅の実践と結果との問題は容易ではない。

専ら禅の実践として行われること、すなわち、座禅は余りに不自然なことであって、それは明らかに狙いを持って行われるはずのことだ。
同時にそれは、結果を求めないものとして、行わざるを得ない。

この矛盾こそが教外別伝の理由の一つだと思う。

禅の実践において、結果を出そうとすること、結果を出したと思ってしまうことに対する警戒心は強い。
それは自己顕示欲の抑制を含めた「求めない」ことの豊かさに関わるものだからだ。

坐禅の修行は最高の馬になるためのトレーニングだ、と考えるのであれあば問題です。それは正しい理解ではありません。(略)
 ブッダの偉大な心とともに坐禅の修行をすると決意すると、最悪の馬こそがもっとも大事な馬だとわかります。自分が不完全であるからこそ、道を求める心のしっかりとした基礎ができるのです。”(68~69頁)
“私たちの修行は、ある考えを得ることでもなく、なんら期待も、たとえ悟りへの期待も持つことなく、行わなければなりません。それは目的なしに座ることとは違います。”(74頁)
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』

しかし、座禅のよさは伝えたい。
言ってはいけないと言われても、本当に生きることが楽になったのだから。

自己顕示欲の抑制をも考慮した上でのよさの伝え方は、ぐるっと一周まわったような話になるけれども、世間的にわかりやすい結果を出すことだと思う。
禅の目的は、実社会生活の中で利他の実現のために積極的に活動することであり、それが本当に日常化されていれば、当然、社会的に評価される結果を出せるはずであり、結果が出せないのであれば、修行の仕方が間違っていると言わざるを得ないのではないだろうか。

〝迷いが怖ろしいから、悟りの中へ逃げ込むというのではありませぬ。
 迷いの中へ飛び込んで、大自在を得る。
 地獄界へでも、畜生道へでも、ドシドシ這入って往って仕事をする。
 到る處に主人公となって働くのであります。
(釈宗演『無門関講話』39頁)

〝血の出る様な競争激烈な活社会に飛び込んで行って、逆順縦横裡に、自在の働を行じようと云うのには、(略)難有そうな殺し文句や、女々しい空涙では何の用もなさぬ。我が禅宗は生きた努力を飽くまで続けて、生きた自己の心内に向って、生き生きとした箇の無位の道人を捉え得て、之を朝から晩まで活社会の上に生涯活き活きと使って行こうと云うのである。〟(213~214頁)
〝大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。〟(221~222頁)
(釈宗活『臨済録講話』)

実社会生活で結果を出すことは、禅の修行を完成させることより、難しい。
禅の修行の結果は、所詮は自分の心の問題にすぎないし、また、修行者集団の甘ったるい等質的な価値観に沿った結果にすぎないからだ。
社会一般から広く評価されることの方がより厳しい修行になるだろう。

私たちが生きる目的を考えたとき、実社会生活の中で、ほかの人の幸福を実現するのでなければ、禅の修行などは、単なる時間の無駄だ。

実社会生活でわかりやすい結果を出す。
成功の秘訣を聞かれる。

「座禅です( ・`д・´)キリッ」

と答える。

それがほかの人を座禅に誘う菩薩の行の早道であると思う。
そして、実際、参禅している在家者に実社会生活における成功者がいないようでは、いくら禅の修行を通じて、人格の向上が図られ、実社会生活において活発に活動ができると言っても、羊頭狗肉であるようにも思うのだ。