嫌われるのも素晴らしい生き方
「禅の修行の成果は、自分が死んだときに初めて確かめられる」と言う久参の方がいる。
おそらく、禅の修行をして人格が磨かれれば、おのずと人から死を惜しまれ、そのことから、修行の成果が分かるということだろう。
しかし、死を惜しまれるということが本当によいことかは、工夫してもよいのではなかろうか。
というのは、禅者は、他人に気を使わせてはいけないともいうからだ。
“修行の目的を一言でいえば、それは基本的に「自己を高めるため」なのですが、それは、他者と比較して「郡を抜く」ことではありません。
(略)
他から抜きんでた、何か特別なこと、すばらしいことをしている、という意識は、ほとんどの場合、自己顕示欲や特権意識を導くのみで、人格の完成には障害となるばかりです。それゆえ、禅者達は、ことさらに自らを抑え、それによって他者との関係を築いていこうとしました。
(略)南泉は、特にそれを強調した人で、その宗風は「異類中行」と呼ばれます。「異類」とは、「畜生」の類、「仏」や「菩薩」といった、すばらしい存在とはかけ離れた者たちです。そのような、人から疎んじられるような存在と、あえて生涯を共にする、南泉は、そこにこそ、自己の真のあり方が示されると考えました。
人から誉められることを期待せず、自らを誇ることもなく、ただ、周囲にある諸々の存在と調和しながら生きる、それこそが”本当の自分”のあり方だというのです。
(略)
多くの禅者が、気配りを受けることを、「修行の未熟さ」と捉えています。立派な人であればあるほど、多くの人に知られ、賛嘆されると考えるのが普通ですが、それを心底から嘆く。それは、禅の「自己完成」が、極楽や彼岸にいく特別な能力を身につけることではなく、あくまでも現実の、いまここにある自己を明確に把握することだからです。どれほどの「完成」があったとしても、そこには一切特別視されるような状況はあり得ない、それが禅の考え方なのです。“
(石井清純『禅問答入門』192~196頁)
そうすると、自らの死を迎えた時に、ほかの人から惜しまれるようなことがあっていいのだろうか。
惜しまれて、葬儀なり、お別の会を開いてもらったり、亡くなった日に思い起してもらう、そんな負担をかけることが本当に禅者として正しいあり方なのか。
禅者としての成果は、本質的には、死後においても、確かめられてはならないものではないのだろうか。
ボランティアで傾聴のグリーフケアをするようになってから、このようなことを考えるようになった。
近親者が亡くなってショックを受けている人の話をただ聞いて、その心を癒していく。
中には、非常に強いこだわりのある人もいる。
その悲嘆は、理屈では判るけれども、肚の底からわかるかというと疑問を抱いている自分がいるということが正直なところ。
正直、近親者が亡くなっても自分は悲嘆にくれることはないのではないかと思う。
妻や子供のことは愛しているけれども、グリーフケアの相手の方のように悲嘆にくれることはないように思う。
20代の時に、父が亡くなったのだけれど、私は、父とは折り合いが悪く、亡くなったときには何らの感慨もなかった。
偶然的なものであろうと思うけれども、グリーフケアの相手の方の様子を見ると、父の在り方というのは、ある種親切ともいえるのではないかとも思う。
余りによい人は、惜しまれる。
余りによい人は、周囲の人を依存させてしまう。
そして、依存していた人は、そのよい人がいなくなると、その喪失感に耐え切れなくなる。
それならば、悪辣に振舞って、嫌われながら生きる方がよいのではなかろうかとも思える。
よい師家ほど、その説得が悪辣であるとよく言われる。
悪辣さとは、そのような学人の説得の際の方便のように思っていた。
しかし、もっと広く、生き方の標準とするのも望ましいような感じがする。
陰徳を行じつつ、悪辣に振舞って、嫌われながら生きるというのも素晴らしい生き方なのではなかろうか。
……と書きつつ、やっぱり、人からはよく思われたいと思っている私は、本当に至らないなあ。
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