坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】不安なままでいいじゃないか

禅の目的の一つは、安心立命であるとされます。



「古来の常套の語(ことば)を以っていえば、安心を得るのが仏教の目的である。(略)安心とは、心を一定不動の處に安住せしむるの意で、謂ゆる宗教の力に依って、不動の信念を確立するということである。古来禅門で悟ったと云い、又本来面目に相見したなどというは、要するに皆な安心を得たと云うことである。」

(秋野孝道『此処に道あり』15頁)
 


しかし、ここでいう「安心」が、静的状況であると捉えると間違えます。

諸行無常であり、あらゆるものが変化するのですから、静的状況はあり得ません。

不安定な状況なのですから、静的な安心を求めるということ自体が間違っているのです。

禅では、不安から抜け出そうとすることが、却って不安を増すことになり、不安の中に、そのままでいることこそが、安心なのであるという観点があります。

安心が禅の目的、すなわち、「悟り」であるとするのなら、不安なままで、安心、すなわち、「悟り」の状態にあることなのですから、特に、不安を解消するための特別な修行は不要であるということになります(※1)。



よく思い出してみましょう。

私たちは、これまでの人生で、不安な中にいながらも、きちんと対応して生きてきたのです。

だからこそ、私は、この文章を打てるのですし、あなたも、この文章を読めるのです。

人生は不安だらけかも知れない。

しかし、どんな不安があろうとも、私たちが、今、生きているということが、確かな現実なのです。

不安は、想像の中の非現実的な妄想にすぎません。



そのことを忘れてしまうと、不安に駆られて自分を見失ってしまいます。

頼るものなど全くなくても、問題がなかったのに、ほかの誰かや、薬物や、宗教団体や、思想団体に依存することになり、あなたは、自由を失うのです。

自分らしく、自由に生きることができないということは、私たち一人一人が、この世界に異なるものとしてある価値を毀損させるものです。



不安の中にあっても、きちんと独自なものとして生きている現実の自分を見失ってはいけません。



このような観点でいうと、坐禅は二つの機能を果たすと言えます。

一つ目は、不安の中にあって、意識的に何も抵抗せずにいることです。私たちは、不安に耐えきれず、何をか行為をしがちです。坐禅を通して不安な中にあって何もせずとも問題がない自分を再確認するのです。

二つ目は、純粋な対処療法です。不安なままで安心するようにといっても、難しいので、坐禅によって気持ちを落ち着かせる。脳生理学的には、扁桃体の活動を低下させることになります。



(1)秋月龍珉『無門関を読む』

「『心を安らかにしよう』とすること自体が『心を不安にする』ことにほかなりません。『心を動かすまい』という努力自体が『心をうごかしている』当の原因なのです。血を血で洗うようなものです。先の血は清まっても後の血で汚れます。

ともかく何かを目ざして、理念(イデー)を立てて、その理想の実現を目ざして努力する『理想主義』的はからいは『仏道の修行』とは逆の道なのです。

《『安心』を目ざし、『不動心』を目ざし、『無心』を目ざすこと自体が誤り》

なのです。『心を求めましたが、まったく得ることができませんでした』と言ったとき、二祖は真に『無心』の境地に立って、いわゆる『不擬の道』(目ざすことのない道)に達したのです。」(203~204頁)



(2)上田閑照『禅仏教』

「平常心において多難に心労する」(55頁)

「心の動揺中こそが、本来の自己への実践的真剣の道場になるのである。(略)いらいらしながらもいらいらしないものが、

《不安であって不安でない》

ものが、困りながらも困らないものが、病んでも病まないものが、寂しくて寂しくないものが、自己の自由なリアリティになる端緒が開かれ、そしてそのようなリアリティに触れたあり方で事に当ってゆくのである。」(257頁)



(3)柳田聖山『禅思想』

「煩悩を断じてネハンを得るのではない。煩悩を断ぜず、ネハンを得る必要のない本来の心にかえるのが、ほんとうの安心である。

要は、各自の心のありようにある。

《不安な心のほかに安心する心はない》

のだ。」



(4)酒井得元『永平広録について』

「私は若い時に徹底的に坐禅修行をしようと思っていましたので、臨済の道場へ行っておりました。あそこでは全員が、なんとかして見性しようという一つの雰囲気に、ひたりこんでしまっていました。そして見性するためには、自分の身体なんかはどうなってもいいというような熱気に燃えていました。つまり見性のためには手段を選ばぬといった調子でした。後から考えてみますと、これは別に考えなくともわかることですが、本人は真剣な求道人としてどうしても自分は悟りたい、そのためには自分はどうなってもよいと、本当にそのように思ってしまうものです。然し、結局は、それはただ自分のものが欲しいということだったのです。つまり満足感の追求ということだったのです。それでどうしても安心決定したいというのでした。

《安心決定が欲しいというのは、実は自己満足の追求》

に外なりません。」(7~8頁)



(5)飯田欓隠『通俗禅学読本』

「病の時は病ばかり、只管病苦じゃ。病者衆生の良薬なりと仏も云うた。病によりて永久の生命が得らるるからじゃ。(略)死の時は死ぬるばかりよ。死也全機現(しやぜんきげん)じゃ。只管死苦じゃ。この期に及んで安心を求むるとは何事ぞ。只

《死苦ばかりの所に大安心》

の分がある。全機現とは宇宙一枚の死じゃ。死者の世界邪。死によりて宇宙を占領するともいえうる。元古仏は生死は仏の御命なりともいわれた。死を厭うは仏を殺すなりともある。」(24~25頁)



(6)沢木興道発言。酒井得元『沢木興道聞き書き

「その二人の尼僧は一人は叔母、一人はその姪であるが、(略)せっかく仏道に入ったのだから、何とか仏法の安心(あんじん)だけは得ておきたいというので、三井(みい)の法輪寺真言宗)の七十歳の老僧のところへ、

『どうしても私は安心が得られませんので……なんとか安心の得られますようにしてください』

と頼みに行った。その老僧はなかなか面白い人だった。

『ナニッ、安心が得たいって、お前らのような若い者が、いまから安心して、一生楽をしようと思うのか。せんど心配したらええわ、わしは七十にもなって、まだ心配しているじゃないか。このなまくらめ』

と怒鳴られて、この二人はびっくりして、ほうほうのていで引き退った。」(132頁)



(7)鈴木大拙『百醜千拙』
 
「趙州の語録に左の問答がある。一人の婆子が問うた、婆は是れ五障の身で地獄は決定と思いますが、どうしてこれを免れ得ましょうかと。それで趙州の答に曰はく、『願わくば一切の人は悉く天に生まれてくれ。願わくば婆々だけは永く苦海に沈むであろう』と。」(153頁)



(8)中野駿太郎発言。秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』

「現在の凡夫の迷っている心を、それが直らないものと見られたから、仏はそのまま救うてくださるという、〈そこ一つ〉を知らせていただいたとき、そこに永遠の生命を認めて、信仰の境地に入るのです。」(133頁)



※番外編 

本論から外れますが、捨てがたい「安心」の例



(1)西田幾多郎の日記。秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』159頁

「明治三四年二月一四日 大拙居士より手紙来たる。衆生無辺誓願度をもって安心となるとの語、胸裡の高潔偉大可羨(うらやむべし)。(略)

余のごときは日々に私欲のため、この心身を労す。慚愧々々。」



(2)釈宗演『心の眼を開け』

「吾々は腹の中(うち)に種々様々な煩悩妄想を詰め込んで居るから、忙しい此の世の中に在って、人生五十だとか六十だとか、甚だしきは夜半(よは)に嵐の吹かぬものかはなど取越苦労をして居る。力の続かん限り働いてそうして死ねばそれで本望である。何も考える必要はない。如何に病気に苦しみながらも、如何に自由を奪われて居ても、ただ

《自己の活動を続けてさえ居ればそれは大自由であり、大安心》

である。元来生とか死とか考うべき理由も考えうべき事も存しないのである。」(76頁)



(3)山田邦男編『森本省念老師 下〈回想篇〉』

「森本老師は長い間寝たきりの母堂に何とかして安心の境地を手に入れてほしいと思い、暁烏敏(あけがらすはや)全集を何回も読んできかされ、その結果母堂はとうとう。『孝治さん、仏法というのはこれというものがあったらあかんのやなあ』と領解して安心を得て、それにより老師自身も肩の荷をおろして安心されたのである。」(44頁)



(※1)「禅」とは何か特別な修行をして、「悟り」などの特別な心理状態になるものだと考える人もいるかも知れませんが、禅の歴史を振り返ると、特に、理想的な状態とされる唐代の南宗禅、特に、禅の語録いもよく出てくる馬祖~臨済等の系譜では、坐禅等の特別な修行を否定していました。

仏教は応病与薬の方便ですから、病んでいなければいらない。そこで行われる実践は病んでいるからこそ必要であるという観点が入っているのではないかと思われます。



「馬祖によれば、人間はみな覚醒した世界に生きているのであるから、日常の生活の裡に自足しておればよいのであって、このうえ更に『佛法』を学び、『修行』をし、『坐禅』をして『悟り』を求める必要はまったくない、外にそれを求めることはむしろ清浄心を汚すものである、とした。」

(衣川賢次「臨済義玄禅師の禅思想」『禅研究所紀要第34号』109頁)

【参考】
唐代南宗禅 - 坐禅普及






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