求めることをやめる。
不幸の始まりは幸福を求めすぎることにあるのだと気づく。
ほかの人を蹴落として、その上に立とうとすることに不幸があるのだと気づく。
求めるこの心が不幸の原因であることに気づく。
幸福を実現しようとする求めるこの心が不幸の原因であることに気づく。
不幸を避けようとするこの心が不幸の原因であることに気づく。
幸福を求め、不幸を避けようとしすぎるから、却って、おどおどして、将来に対する不安を抱くことになる。
どんなときも不安のない主人公として大道を歩む。
不幸なときも主人公として大道を歩む。
負けても主人公として大道を歩む。
飢えていても主人公として大道を歩む。
無視されても主人公として大道を歩む。
蔑まれても主人公として大道を歩む。
老いても主人公として大道を歩む。
病んでも主人公として大道を歩む。
死に直面しても主人公として大道を歩む。
主人公として、大道を歩むとは、受け容れることだ。
不幸も、敗北も、餓えも、無視も、蔑みも、老いも、病も、死も……すべて受け容れる。
無常の世界で、すべては然るべきものとして現成する。
消え去る幸福にとらわれず、現れ出る不幸を嫌わない。
求めるとき、求める当のものはその手元にない。
求めようとするのは、不確実な未来に自分を委ねてしまうことだ。
だから、求めない修行をする。
何もやらない修行をする。
修行だから意識をもった上で行う。
坐禅とは、意識がありながら求めない、何もしないことをいう。
坐禅自体が、求めないことであるから、実は、為した時点で十分目的を達している。
これを称して修証一如という。
生きていることそれ自体が求めることではないか。
では、なぜ、生きるのか。
これまで生き続けて、ほかの生命や環境を破壊し続けてきた。
だから、償わなくてはならない。
人格的に優れているから、利他の行為をするのではない。
人格的に劣っているから、利他の行為をするのだ。
人格的に劣っていて、ほかの生命を傷つけずにはおかないから。
生きるとは、傷つけ、奪うことであるから、償わなくてはならない。
日々償い続けなくてはならない。
生きるとは、他の生命を奪うことだ。
生きるとは、こんな原罪を背負うことであり、私たちはは、日々積み重ねる罪を愛する言葉ことで償わなくてはならない。
生きる理由は、償い、愛するためである。
愛するために、働き。
愛するために、学び。
愛するために、成長し。
愛するために、食べ。
愛するために、眠る。
愛するために、笑い。
愛するために、悲しみ
愛するために、怒る。
愛するためにも、坐禅をする。
心が落着いていないと、愛する余裕を持つことができない。
でも、どうやったらきちんと愛せる?
もしかしたら、ただのお節介かも知れない。
坐禅が一番間違いがない。
ほかの存在を自由にいさせてやる。
何も与えることができないのなら、少なくとも、自由だけは与えてやる。
何も手を付けず、見守るだけにしている。
そうすれば、少なくとも自由を与えることだけはできる。
求めず、償い、愛することは、不幸なことか?
違う。
それはとても素晴らしいもの。
求めず、償い、愛していると、豊かな世界にまみえることができる。
他者を貶め、競争しているときには、持ち得なかった心の余裕を取り戻す。
求めることをやめ、すべてを受け容れて、許してやる。
落着いて、慈しみの心で、見てみれば、この世界はとても豊かで素晴らしい。
そう見る心のある自分も世界を構成するものとして、素晴らしい。
求めない豊かな世界に出会うために、今日も坐る。
……言葉の問題としては、きっと、それも求めることなのだろう。
けれども、何か、違う。
同じだけれど、違うのだ。
こういうことを不立文字というのだろう。
(参考文献)
1 鈴木大拙『鈴木大拙『鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』107~108頁
「われわれの社会生活において、いずれもが困ることは、われわれが常に報酬を求めていることである。それもよほどしばしば、行為そのものの価値にふさわぬ法外な報酬を求めていることである。この報酬が手に入る見込みがつかぬと不満を観ずる、不満を感ずれば、これがわれわれの日常生活におけるあらゆる面倒をひき起こすことになる。」
2 忽滑谷快天『正信問答』172~173頁
「御佛に帰依するのは(略)信仰の代償として御利益を祈るのではない。佛心(みこころ)に随順し、佛恩に感謝するのですから、故(ことさ)らに病気の平癒も祈らず、海路の平安も祈らず幸福快楽をも祈り求めない。けれども浄信の在る所には安心があり、歓喜があり、平和があり、疑わず、懼れず、惑わず、驚かず、事に当って其正鵠を失わぬ。そこで病気も早く全快し、航海にも危険を免れ、富貴をも得、幸福を得らるる。真の信仰は求めず祈らずして、祈る所求むる所が得らるるのです。」
3 原田祖岳『延命十句観音経講話』98~99頁
「観音の精神とは、つまり無我の大慈悲心であります。大慈悲心というのは、一切衆生のために楽を与えてやりたい、苦しみを抜いてやりたい、といういわば限りなき情けの精神であります。が、その根拠は大解脱すなわち無我です。
われわれが日常仕事をする時にも、無我になってこれがどうかして世の中のためになるようにと念じつつ仕事をする。人と交際をするにも、大無我の立場からどうかしてその人が立派な人格の人となるようにと念じて交際をする。飯を食うにも、お茶を喫するにも、これをもってどうかして人格を完成するよすがとなるようにと念じつつ、飯を食い、お茶を飲む。」
4 澤木興道『禅談』
(1)268頁
「弁道法に「群を抜けて益なし」ということがある。道元禅師の御宗旨を参究しようとすれば、この弁道法を中心として考えねばならん。が我々平常(へいぜい)学問をする亡者というものは、群を抜けよう抜けようとしているのである。私も長い間の修行というものが、これで無駄だったことに気づいた。いつも相手を置いて努力している。世間でいえば商売敵である。商売敵というやつは随分悲惨なものである。」
(2)313頁
「社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。道のために尽さねばならん身体だから、お互い不養生するわけに行かぬのである。自分のだけのためならどうでもよい。」
5 藤田一照『現代坐禅講義』55頁
「坐禅をどんなことであれ何かご利益を得るための手段におとしめないということ、これはやはりとても大事なことです。そうでなければ坐禅が本来持っている無限の価値が、その素晴らしさが、台無しになってしまうからです。求めて得たものは必ずいつか失われます。求めないという豊かな世界をわれわれに開いてくれるのが坐禅なのです。」
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