見性体験などの特殊な体験を求めない(その1)
坐禅等の仏教の瞑想に興味を持つようになってから、特異な体験を持つ人と接することが少なからずある。
たとえば、自己と世界とが一体となる感覚、光に包まれる感覚、自分の中に何かすごいものが「ドーン」とある感覚など様々だ。
一番多いのが、自己と世界とが一体となる感覚で、禅では、特にこのような体験を見性体験と呼んでいる。
残念ながら、私には、このような体験はない。
2回ほど、「微細な身体感覚を感受する瞑想」をやったときに、周囲のものがくっきりクリアに見えるという体験をしたくらいだ。
もっとやろうかとも思ったが、瞑想指導者の方のする話に納得が行かず、やり続けていると、洗脳されて、その話が頭にこびりつく、恐怖感が生じたのでやめました。
(坐禅のよさは、感受性の高まり方が緩やかなので、何か方向がおかしくなった時の軌道修正がしやすいということもあると思う)
私がお世話になっている老師には、やはり、このような見性体験があり、私も、老師から「あなたは頭ではわかっていのだから、後は体験するだけです。」と言われている。
世界に存在する、存在してしまっているあらゆるものは相互依存して支え合っている。
この事実こそが、愛することの大切さ、償うことの大切さを裏付けている。
しかし、この事実は、想定することができるだけで、目の前にあるものではない。
確実なことは、現在、目の前にあることだけで、実感はもちにくい。
坐禅などの瞑想は、自我の発動を限定することを通し、感受性を高めることにより、特定の考え方を脳に刻み込ませやすくする。
言葉でわかっていることを行動に反映させやすくする。
頭でわかっていても、きちんと行動に移せないということはよくある。
感受性を高めることによって、理想とする観念を自分の行動に反映させやすくする。
だから、さらに強烈な体験をすれば、脳の活動に与える変化は大きくなるものと思う。
それが見性体験などの特殊な体験が重視される理由であるのだと思う。
しかし、本当にそのような特殊な体験が必要なのかは疑問です。
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