坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

参考資料:安心ではないものを安心とする

 仏教の目的の一つは、安心立命です。

“古来の常套の語(ことば)を以っていえば、安心を得るのが仏教の目的である。(略)安心とは、心を一定不動の處に安住せしむるの意で、謂ゆる宗教の力に依って、不動の信念を確立するということである。古来禅門で悟ったと云い、又本来面目に相見したなどというは、要するに皆な安心を得たと云うことである。”
(秋野孝道『此処に道あり』15頁)
 
 しかし、ここでいう「安心」が、静的状況であると捉えると間違えます。
 諸行無常であり、あらゆるものが変化するのですから、継続的な静的状況はありません。
 私たちは、安心できないような状況の中に安心を見出さざるを得ないのです。
 そこでは、「苦しみ」というものの中に「安楽」を見出す、あるいは、苦しみそのものが安楽なのである、という観点があります。

(1)鈴木大拙「禅堂の修行と生活」『禅堂の修行と生活 禅の世界』
126頁 禅坊さんの死去は、かならずしもいつも端然とか安然とかいうものでなかった。翠巌の真和尚というのは、その入滅するにあたって、病気のために、はなはだ苦しみ悩んだ。藁を地に敷いて、その上で輾転反側して少しも休めなかった。
(2)飯田欓隠『通俗禅学読本』
24~25頁 病の時は病ばかり、只管病苦じゃ。病者衆生の良薬なりと仏も云うた。病によりて永久の生命が得らるるからじゃ。(略)死の時は死ぬるばかりよ。死也全機現(しやぜんきげん)じゃ。只管死苦じゃ。この期に及んで安心を求むるとは何事ぞ。只死苦ばかりの所に大安心の分がある。全機現とは宇宙一枚の死じゃ。死者の世界邪。死によりて宇宙を占領するともいえうる。元古仏は生死は仏の御命なりともいわれた。死を厭うは仏を殺すなりともある。
(3)釈宗活『臨済録講話』
221頁 大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上(222頁)が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。
(4)鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
12頁 私が死ぬとき、死に行く瞬間、私が苦しんだとしてもOKです。それは苦しみのブッダだからです。そこになにも混乱はありません。誰もが、肉体の苦しみ、精神的な苦しみでもがいているかもしれません。それはかまわないのです