坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

在家禅を辞めた理由とその周辺

本稿の構成



1 はじめに
2 入会まで
3 退会の直接のきっかけ
4 勧誘活動
5 会員の実際
6 公案
7 最後に



1 はじめに



一時期、伊吹敦先生の『禅の歴史』にも出て来る在家禅の団体に入っていました。

組織のあり方に対する疑問や私自身の禅に対する捉え方の変化などから、辞めました。

これまでも、時々、ブログの中で触れることもありましたが、この種の団体の実態を知ることも、何らかの参考になるかと思い、これまで触れた内容とも重複するところもあり、思いつくまま、書いてみました。

ちなみに、このブログのことや、書いている人間が誰かということは、元々所属していた団体の関係者にも知られているものと思われ、後々、名誉毀損等を理由とする訴訟などを提起されても面倒なので、どこの団体であるかは匿名にしておきます。



2 入会まで



元々趣味と交友関係を広げることを兼ねて坐禅会巡りをしていたところ、たまたまその団体の坐禅会に出会い通うようになったことが入会する最初のきっかけでした。



その団体は公案の実践が出来ることがウリでした(公案についての詳細は後記6)。

坐禅に取り組み始めてから数か月が過ぎた頃で、多少は本を読んで、臨済宗と一部の曹洞宗で、坐禅以外にも、公案(主に中国の禅者の発言を元にした問題集)を使って、師家や老師などと呼ばれる指導者との対話(問答)をする実践方法があることは知っていました。

当時、『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』(柱1)や曹洞宗関係の本も読んでいたことから、公案に対する疑問もありましたが、同時に、興味もありました。

また、個人的な経験から、職場以外での人間関係の大切さを感じており、その団体を通して、職場以外での新しい人間関係を作ることができると思いました。

さらに、ある程度、その団体の活動に参加した後で、その団体に職場の先輩がおり、その人が職場では、それなりに出世した人であったことから、問題のない団体であろうと考えて、正式にその団体の会員になりました。



(柱1)秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』

臨済宗の師家であった秋月龍珉老師に対し)「もう公案を使うのはやめたらどうか。公案ではどうしても頭で考えることになる。あんたは禅の学者だから言うておくのだ。これからの禅は本当にどうすればよいか研究してもらいたい」(16頁)

「『碧巌録』のできた時代は、ますます文字を弄するふうが盛んになっていて、あアなってしまったのじゃ。達磨大師の面壁九年の姿が、何よりこれを照破しておるじゃろう。道元禅師も『正法眼蔵』などという難解な書物を遺されたために、どれほどの人がそのための研究で一生を潰してしまったから分からん。村上専精なども『眼蔵』だけは解らんと言いおった。道元さまも「只管打坐」だけでよかった、とわたしは思う。(略)

唐の時代はまだ達磨からそう遠くないからな「只管打坐」でやってきた。宋になると公案禅となって圜悟(えんご)の評とか雪竇(せっちょう)の頌(じゅ)とか、詩的な評語ができよって、あんなふうになった。(略)今、禅界で偉い人はみな学者として偉いのじゃが、それでは禅は生きてこん。」(101頁)



3 退会の直接のきっかけ



退会の直接のきっかけは、団体でよく行われる内輪の行事への協力を半ば強制されそうになったことです。

その団体では、勧誘活動や、おそらく構成員の団結力を高めることを目的として、内輪の行事が頻繁にあり、その行事の運営も、行であるとして、無償で協力を求められました。

はまり込まないとわからないので、1年間ほどは内輪の行事にも積極的に関わりました。

結局、時間の無駄とわかり、それがわかった頃、傾聴を中心としたグリーフケアのボランティア活動に対する興味がわき、行事に関わる「仕事」から距離を置くようにしました。



ある時、私を団体に誘った職場の先輩が担当する行事の企画が持ち上がり、私も駆り出されそうになりました。

団体のトップが出す本の編集をやるように言われ、本業やグリーフケアの活動があるのに、余裕はないことから、断ったところ、それから後が面倒でした。

先輩からは「老師から与えられた使命だ。命がけの修行なのだから、スポーツクラブのように考えられたら困る」と説教され、そのすぐ下の方から「老師から与えられた試練だから頑張って乗り越えよう」と説得され、ある人からは「有給休暇を取ってイベントの仕事をしろ」と言われるようなことがありました。

内輪の行事なのに、「使命」とか、「命がけ」とか、「試練」とか一々大げさで、ついていけませんでした。

今、振り返ると、基本的に、日常生活に不満があり、自分の人生に自信がない人が多いことから、大したことがないことでも「何かすごいことをやっている」という印象を持たせる一種の親切かとは思いますが、理屈がわかっても、ついて行くことが難しい発想であることには変わりありません。



一番印象に残っていることは、先輩から「イベントの仕事をしないなら10万円を払ってもらうことになる」と現金を要求されたこと。

本格的なカルト教団に比べれば可愛らしいものですが、この団体に対し、強い問題性を感じた一番大きなきっかけは、この出来事でした。



このようなやりとりの中で、団体のトップの指導者からも説得をされたのですが、その際に言われた言葉は、「君も長い物に巻かれるようにしなければ、職場でも困るだろう」ということでした。

実際、私を団体に誘った先輩は、既に私のいた職場を辞めましたが、それなりに出世した人であり、職場内で私の上位にいる人と深い関係がありましたから、「職場でも困る」というのは、一般論を超える意味のある可能性もありました。

禅は、多様な運動ですが、このトップの指導者からの言葉を聞いて、組織に服従する規格化された人間を生み出そうとする、かつての皇道禅や企業禅をイメージしました。

実際、企業研修に食い込むことも、会議での重要な議題になっていました。



私の職場は、体育会系的なところがあり、自分自身でも、組織への帰属意識が強い方では無いかと思ったのですが、在家禅の活動を通じて、自分自身が、自分の意志に従い、自由に生きていくことを欲する存在であることを痛感できたことは、よかったといえばよかったのかも知れません(注2)。



しかし、辞める考えが頭に出てきてから実際に辞めるまでは半年近くかかりました。

先にも話しましたが、この団体は、公案の修行をすることを売り物にしており、当時、本則にして数十則の公案を透過していたこと、公案の中には、透過までに三十数回入室したものもあったこと、さらに、どのような公案を課すかや、真正の見解(しんしょうのけんげ)と呼ばれる公案の解答は、指導者や団体によって異なること(後記6)、つまり、その団体を辞めるということはそれまでに費やした時間を全部無駄にすることでもあり、その時間を惜しむ気持ちに抗うことは大変でした。



それでも、辞めたことは、やはり、指導者のあり方や組織のあり方に対する疑問や、私自身の禅に対する見方について、馬祖、臨済などの唐代の洪州宗の無修行主義、無教義主義に親和性を感じるようになり、現代の臨済禅の実践に対する疑問が生じたことが大きかった。

逡巡しながら、費やした時間が無駄かどうかなどと考える自分がいることを半ば面白く感じもしました。

辞めた時、すっきり晴れやかな気持ちになりました。



(注2)仏教では「無我」などという言葉が出てきたり、自我を消極的に評価することも多いので、意志を否定的に捉えるイメージを持つ人が少なくないかと思いますが、次のような話があります。

「われわれは知性に生きるのではなく、意志に生きるからである。「われわれは、理解の行為と意志の行為とを歴然と区別すべきである。前者は比較的価値の低いものだが、後者は一切である」というブラザー・ローレンスの言葉(「神のみ前の行い」)は真理である。」

鈴木大拙『禅』68頁)



4 勧誘活動



3にも少し書きましたが、実際に、この団体の活動の中で、特に印象に残ったことは、勧誘活動です。

この団体には、大手仏教系新宗教団体のSを目の敵にしている感じの人が、少なからずいましたが、自分たちのやっていることがSとさして変わりがないことを疑問に思っている人はいませんでした。

ちなみに、Sで熱心に活動していた知人は、この団体のイベントに2回来たことがあるのですが、この団体について、その方から言われたことは、「Sと雰囲気が似ている」ということでした。



勧誘活動を活発に行っていた大きな理由は、団体で使っている施設の維持費の捻出が大きかったのではないかと思われました。

その団体には、いくつかの施設がありました。

以前は相当熱心な会員の方がいて、古くからいらっしゃる方の話によると、当時は、生命保険などを解約して、その施設の購入資金を捻出したということもあったようです。

考えてみると、そのときからおそらく無理があったのかなと思います。



会員が職場での現役世代で、数が増えていくときであったなら無理が通じたのでしょうが、私が入会したときには、会員自体が全体として高齢化し現役を離れ、少子化などの影響もあるのでしょうが、現役世代の会員が減ってきたことから、かつての無理がたたってきたような感じでした。

施設自体の維持費もかかりますし、自前の施設とはいっても、敷地自体が借地であって、借地料がかかるなどのお金の問題がどうしてもでてきます。

ですから、団体の会議の際のテーマの多くは、お金の問題であり、その前提としてのお金を払ってくれる会員の確保でした。

団体の上の人から、親族や職場の人に会員になることを働きかけるように号令がかかったり、人が呼べるようなイベントを考えるような指示があったりして、皆慌ただしく活動していました。



殊に、大学生の会員を勧誘するように強く言われていました。

大学によっては、坐禅のサークルがありますが、その多くは、禅宗に関する何らかの宗教団体との関連があります。

所属している学生の方々は、純朴に坐禅などに取り組んでいるのでしょうけれども、宗教団体の側からみれば、布教の拠点です。

私のいた在家禅にも、系列の大学の坐禅サークルがあり、団体の幹部の人が、そのサークルの方に対して、団体の坐禅会に来るように働きかけることもあったようです。

もっとも、学生の方も、賢いですから、私が、この団体にいた期間中に、大学生の方で、団体の会員になった方はいませんでした。



年間の新入会員の獲得目標もありました。

その獲得目標をどの程度達成できるかで、幹部の人たちを競争させてもいるとも言われていました。



お金の問題があるといっても、マスコミで取り上げられるような団体とはちがって、会費はおおむね月に数千円でしたから、その点では、良心的ではありました。

けれども、入会してしばらくしてから、貧すれば鈍する状況になっていることがわかりました。
 
会員の方の中には、先ほど話したように、仏教系の新宗教団体を揶揄するような人もいましたが、自分達の指導をする人が、「会員を増やすのも利他行だ」などと臆面もなく述べることが、揶揄する対象の宗教団体と大して変わらないことに気づいていないような感じでした。

 

仏教と一口にいっても、日本では、南都六宗から始まって、天台宗真言宗日蓮宗臨済宗曹洞宗、浄土宗、浄土真宗等々があり、その中で更に細分化されていきます。

それぞれに多様な実践方法があります。

実践方法が多様であること、それ自体が、どれかが絶対に正しい実践方法だとはいえないことを示しています。



ブッダ、お釈迦様の教えの根本は、病に応じて薬を与えるということであり、それは皆さんもご承知のことだと思います。しかし私たちが犯しやすい誤りというのは、自分に合っている教えが万人に共通する、通用すると思いがちなところです。自分に偶さかその教えが合っていれば、相手もそれでいける、通じるはずだと思ってしまう。そうなると、その相手を見ておらず、押しつけになってしまいます。人それぞれの特性と言いましょうか、生まれてこのかた体、体質、考え方、環境、人間は千差万別です。「これですべてが通用する」というようなものは、私はないと思うのです。ですから、様々な教えや修行方法をたくさん学んで、そして自分に一番ふさわしいもの、あるいは今の自分にふさわしいものを自分で見つけて実践していく、これに尽きるといのが、私の今のところの結論であります。」

横田南嶺「インタビュー 身体を整えることへの目覚め」『サンガジャパンvol.32』51~52頁)

 

けれども、自分たちの組織の維持ということを念頭においてしまうと、本来多様なあり方であるはずなのに、自分たちの組織が一番よいという「ウソ」の話をせざるを得なくなってきます。
 
また、坐禅等の仏教系の瞑想には、精神に与えるよい効果もありますが、実際に、効果のある以上は当然副作用もあります。

 

「マインドフルネス実践中にトラウマの自然除反応が発生することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネスが禁忌となりやすい条件が推察できます。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』195~196頁)

 

このような副作用に関する事実も、目の前の人のためを考えれば、きちんと伝える必要があるはずですが、自分たちの組織の維持が第一ということになれば、自分たちの不利になりそうなことはいわないということになっていきます。

イベントについても、社会に貢献するというよりも、会員の獲得が目的ですから、組織の宣伝という内向きのものになっていく。

雰囲気でそんなものだとわかりますから、だんだん一般の参加者の方が減っていく。

そんな中で、指導者の人から、努力が足りないという趣旨の檄が飛ぶ。

不幸なことは、指導者の人自身も、先人から引き継いだ組織を維持しようと必死なだけで、善意でやっているということです。

それがわかっているからこそ、下の人たちも一生懸命にやる。

社会に役立つわけでもない内向きの非生産的な活動にすぎない行事をすることを称して、先ほども書いたとおり、「使命だ」などと事大主義的な発言をする人もいるなど善意による不幸の連鎖を感じました。



「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。(略)実はこれが、仏教という宗教が無理な布教をしない一つの理由でもあるのです。」

佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』29頁)



多分、誰もがこのようなことはわかっている。

わかってはいるけれども、組織の維持という「大義」の前にかすんでしまう。

善意で自分の不幸を積み増していってしまう。

竹中労先生は「人は群れると弱くなる」とおっしゃったそうですが、一人一人は、良い人なのに、組織の論理の中で、その良さを毀損させているような人が少なくないように感じました。



5 会員の実際



(1)禅の実践は、何らかの人格的成長を狙っている面がありますが、裏を返せば、禅の実践をする人は、現在は、人格的な問題があることを意味する面もあります。



「瞑想センターに入るまえ、瞑想の内に平和を見いだすことを、彼らは望んでいました。ところが、道を求めつつ、以前とは違った社会をつくり、この社会が、大社会よりも、もっとむずかしいものであることに気づきます。それが、社会から疎外されたひとたちの集まりだからです。数年の後、瞑想センターにやってくるまえよりも、もっとひどい欲求不満を起します。(略)

これはなぜかというと、瞑想とは何かを誤解しているからです。瞑想の目的を誤解しているからです。瞑想は皆のためにするのであって、瞑想する当人だけのためにするのではありません」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』72頁)



(2)4で述べたとおり、私のいた団体のトップの指導者は、職場や家族にも勧誘をするように言っていました。

当時、私が、お世話になった先輩に、家族を団体に勧誘しようと頑張っているのですが、うまくいかないことを悩んでいる方がいました。

その方の奥さんは、アルコール依存症で、彼の家庭内勧誘活動がこれを助長していることは容易にうかがえました。

常識論ですが、やはり、家庭内に宗教を持ち込むべきではないでしょう。



「親が特定の宗教にのめり込むことが健康な日常生活とのバランスを欠いてしまうと、「毒親」が作り出されてしまいます。この場合、その宗教コミュニティも含めた話になりますから、話はさらに難しくなります。(略)

親が子どもよりも宗教を優先してしまう場合には、やはり「毒親」化してしまいます。

本来宗教とは幸せのため、心の平和のために求められるものだと思いますし、その中にはよりよい親になるため、ということも含まれるはずです。しかし、子どもを犠牲にしてでも宗教にのめり込んでしまう人は、もともと「不安型」の愛着スタイルを持っていたり、トラウマがあったりして、何かしら「拠り所」となるものを求めている場合が多いのです。特に「複雑系PTSD」の人には、「救済者願望」が強いと言われています」

水島広子『「毒親」の正体』101~102頁)



(3)この種の実践をしている人は、そもそも問題を抱えている可能性が高いというのは重要な視点で、私のいた団体でも、自分よりも問題を抱えている人に対する適切な配慮ができない人がいました。

私がいたときに、MtoFの方で、手術をして見た目を女性にしている方が入会したことがありました。

この方に対して、20~30年ほどこの団体で修行をしている先輩が、「最初から男だと思っていた。」と性別に関するセンシティブな発言をしたことから、その方が先輩を非難したのですが、先輩は謝りません。

その後、二人は、たびたび怒鳴り合いの口論をするようになり、結局、MtoFの方が辞めたことがありました。

精神的な問題の解決のために、坐禅や瞑想の団体に加入することを考える人もいるかもしれませんが、そもそも入っている人が問題を抱えていることも多く、本当に深刻な状態にある人に対し、適切な配慮ができない場合もあるので、本当に深刻な人は、きちんと精神科を受診したり、信用のおけるカウンセラーに相談するのがよいかと思います。



(4)私にも、そういうところがありますが、在家禅にいた人は、どこかしらうまく行っていないところがありました。

そのうまくいっていないことの埋め合わせのために、特殊な修行をして、特殊な体験をして自尊心を満足させたいという人が多いように思われました。



仏教の実践の世界では、よく「手放すこと」が強調されます。

この観点からすれば、伝統的な意味での出家が、財産や家族関係の放棄を求めることは重要であり、何とはなくですが、この入り口のところができれば、実践はほとんど完了しているのではという気もします。

これに対し、在家で、仏教の実践をするということは、財産、そして、家族を含めた人間関係をしっかりと握っていながら、さらに、何らかの精神的な満足を得たいというところのもの。

そもそものスタート地点が、仏道というよりも餓鬼道で、それならば、平凡な日常の不満の中に自足する方がよいとも言えそうです。

少し横道にそれますが、実際、禅の大きな潮流の目指すものは、そのような日常社会への再編成です。



「仏法には、何等、不思議も奇特事もあるのではない。若し、悟ったが為めに変った人間となったと云う者があるならば、それは悟りの病いに犯されたものである。謂ゆる「悟り了れば未悟に同じ」で、政治家は政治家、軍人は軍人、商人は商人、農夫は農夫、其の職分を守り、業務に勉励して行くほかに、別段、変ったことの有るべき筈はない。」(釈宗演『禅』122頁)

禅的生活は、雲水たちの精神的発達を成就せしめるばかりでなく、社会の成員として、なおまた個人として善良なる市民をつくりだそうとするものである。」(鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』63頁)

「瞑想は社会から離れ、社会から逃げ出すことではなく、社会への復帰の準備をすることです。」(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』68頁)



本論に戻ると、私の入っていた在家禅にいる人たちを見てみると、これまでのありのままの日常的な人生にどこか不満があるから、その埋め合わせを求めたいという人たちが、少なからずおり、そうであるからこそ、指導者の言うなりになり、組織への依存を強めているようにも感じました。

この辺りの心理は、岡田尊司先生のマインドコントロールに関する説明がわかりやすく、応用が利きそうです。



「社会において自分の価値を認められず、アイデンティティを見出せないものは、社会の一般的な価値観に刃向かうことで、自己の価値を保とうとする。こうしたカウンター・アイデンティティは、社会から見捨てられたものにとって、自分の人生を逆転させ、自分の価値を取り戻すような歓喜と救いの源泉ともなるのである。誰からもまともに扱われなかった存在が、受け入れられ、認められたと感じるとき、そここそが生き場所となる。」

岡田尊司『マインドコントロール 増補改訂版』16頁)

「自分もまた特別でありたいと願いながら、しかし、何の確信も自信ももてない存在にとって、「真実」を手に入れたと語る存在に追従し、その弟子となることは、自分もまた特別な出来事に立ち会う特別な存在だという錯覚を生む。(略)

グルが、聖者などではなく、聖者のふりをしたペテン師だということになってしまうことは、グルが特別でなくなるだけでなく、自分もまた、ペテンにかかったただの愚か者だということになってしまうことを意味する。

つまり自分が特別な存在でありたいという願望が、グルを信じ続けるしかないという状況に、その人を追いこんでいく。それを疑うことは、自分が生きてきた人生の意味を否定するようなものだからだ。」

(岡田前掲書58~59頁)



私自身、在家禅に入会したときは、職業人として過ごす中で、自分の能力の限界を感じていた頃だったので、そんなところもあったのではないかと思います。

実際、在家禅の団体に入ったときには、暖かく迎えられ、居心地のよさを感じました。

団体にとっては、会費を払ってくれる会員が増えることはいいことなので、暖かく接したのだといううがった見方をした部分はあったけれども、実際、居心地のよさを感じたことは否定できなかった。

けれども、結局、辞めた理由は、私自身が、元々さして不幸でもなかったということだからだろうと思います。

子供4人を含めた家族や、子供達を大学に送るまでを考えても不安を抱かないだけの給与の見込める職業。いくらでも上がいるのだろうけれど、正直、在家禅にいる人や、そこを限らず、瞑想会や坐禅会で出会った人は、日常に問題を抱える人が少なからずおり、自分自身の相対的な生活水準の高さをよく感じました。

在家禅にいて、修行や組織のための無償労働に時間を使うなら、家族や本業のために時間を使う方がよいように感じました。



(4)特に、在家禅で出会った人には、先に述べた奥さんがアルコール依存症の先輩の例の」ように、その活動のため、家族関係が悪化する人が少なくありませんでした。

たとえば、私がお世話になっていた先輩に、高齢で認知症の認められる親御さんがある方がいたけれど、その介護を奥さんに任せてよく摂心(合宿形式の坐禅会)に来る人がいて、よく奥さんとの関係が悪いという話をしていましたが、理由ははっきりしていて、私には、とてもよくしてくれるのに不思議でした。



一時期、色々な瞑想会や坐禅会に参加し、時折、突っ込んだ話ができる人たちから話を聞くと、幼少期から思春期にかけて、両親の離婚や、何らかのネグレクト等の家族関係の不幸のあった人が少なくありませんでした。

在家禅にいたときに、トップの指導者の人の家族と話をしたことがありましたが、その話から、やはり、家族関係に問題のあったことがわかったり、また、私を在家禅に誘ってくれた先輩も、相応に出世したのに何が不満で在家禅に入ったのだろうと不思議でしたが、その親御さんと出会う機会があったのですが、その言動からADHDの方ではないかと思われ、この親御さんであれば、やはり、苦労したであろうなということがわかりました。



精神医療関係の本を見ると、未成年期の家族関係の問題が精神障害の要因になるという話がよく出きますが、色々な坐禅会や瞑想会に通い、そこにいる参加者の方と接する中で、本の中の話を繰り返し実感しました。

仏教は、特に原始仏教は家族関係を否定的に捉えますが、私は、坐禅等に取り組む中で、逆に、家族の大切さに気づき、家族に回帰したところがあります。



(5)一部で、マインドフルネスが流行っていますが、私のいた団体のトップの指導者の方は、マインドフルネスに対する誤った理解もしており、以前、一般の方も参加していた講演会で、「数息観は数で頭をいっぱいにするから、マインドフルネスだ」との発言をしていました。

マインド=頭、フル=一杯、という連想かと思うのですが、この程度の人たちが指導をしているのですから、余り期待しない方が無難かと思います。

実際、マインドフルネスの世界でも、十分な知識のない指導者による指導が問題にもされています。



重篤な精神医学的な副作用・有害事象(幻覚妄想状態,躁状態抑うつ状態,解離状態など)が報告されていることに鑑み,瞑想・マインドフルネスの副作用を軽視すべきではないと考える.現状では,MBIは必ずしも精神医学・精神保健的な専門的な知識・経験を十分に持つ指導者が行っておらず,MBIの各種の適応症の根拠はいまだ不十分であり,副作用の生じる可能性があることを含め,MBIを受けようとする人々に,その有効性・安全性について十分な情報を提供しないままにMBIを指導することは非倫理的であると考える」

(齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」『臨床評価』46巻1号63頁)



大森曹玄老師は在家禅の指導者を酷評しますが(注3)、先に述べたマインドフルネスに関する発言を含め、私のいた団体の指導者の人のことを考えるとそう外れたものではないようにも思えます。

この指導者の人も、世間的に知られた大手の会社で相応の地位に上り詰めた人であり、世間的には大した人だということにはなろうかと思います。

しかし、先に述べた元Sの知人は、この指導者と話をしたときのことについて、「○○をしていたという話をしていたけれども、仕事で上場企業の社長などとも会うので、あの程度の人はよくいる。俗な感じの人で感銘を受けなかった」と話していました。



私のいた在家禅団体では、見性を強調し、その指導者の人は、見性して空を体認すれば、人は本当に理解し合うことができると言っていたけれども、本当に理解し合うことができるのであれば、私を含めて、辞める人はでないであろうし、勧誘に苦労するということもないでしょう。

人は、心に余裕が無ければ、他の人に対して配慮をする余裕がない。坐禅を通して、扁桃体の活動を下げることなどにより、不安感を和らげ余裕を作ることで、他の人に対する配慮がしやすくなる、ということはあるかと思います。

しかし、そのような現実的な程度を超えて、人格が飛び抜けてよくなるようなことは、私の経験した限りではありません。



「いまの日本はちょっとした瞑想ブームで、それに関する言説の中には、瞑想があたかも「万能の処方箋」であって、それを実践すれば「仕事も人間関係も上手くいくし、病気も治るし、人格もよくなって、何もかもが成功します」といったような「誇大広告」をするものもある。しかし、瞑想というのは、もちろんそんなものではありません。

実際、「私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ」といったことを、瞑想指導者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想が言葉のとおりにまるで実現できていない、といった事例を、私はたくさん見てきました。「瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください」と私が強調するのには、そういった背景もあるわけです。」

(魚川祐司発言『悟らなくたっていいじゃないか』215頁)



指導者の方をよく観察せよという魚川先生のお話しは尤もだと思います。

坐禅や瞑想の指導者も玉石混淆であり、真剣に指導者を選ばなければならないという問題意識のある方は、何らかの深刻な心の問題を抱えているように思われるので、坐禅や瞑想をするのではなく、精神科や信用のおけるカウンセラーの元へ行くのが適切かと思いますが、それでもなお、坐禅や瞑想の指導者を探すのであれば、伝統等のはっきりとわからない曖昧な基準ではなく、目の前にいる指導者の人自身になりたいと思えるか否かを基準とするのが無難かと思います。

どんな人間が出来上がるかの具体例は、目の前の指導者の方自身にほかならないからです。

他の人をトレースする発想が本当によいかの問題はありますが、予期に反する事態は避けやすいかと思います。



(注3)大森曹玄『驢鞍橋講話』

「居士で道場を開いている者は、どうしても力が弱いように見える。現実の場面で見る限り、在家出身の禅マスターは本当に禅を得ているかどうか疑わしい面がある。理論は達者である。物を書かせればうまい。講演も上手だ。しかしそれだけでは禅ではない。そんなことは誰でもやれることだ。本当に定力を持ち、自分自らその道そのものになり切っているという在家出身の禅マスターは至って少ない。この傾向はますます増えていくだろう。」(321頁)



6 公案



最後に、公案について若干触れたいと思います。

その団体では、寺院などでは、公案の修行は出来ないか、出来たとしても、出家しなければ

途中までしか出来ないことを強調していました。

そのことに魅力を感じて入会した人も少なくないようでした。

公案の実践に取り組むことを考える上では、次のようなことを考えたり、知っておく参考になろうかと思います。



① 自分にとって公案の実践が本当に必要か(後記(1))

② 公案の実践の価値は、団体、あるいは、指導者限りのものであること(後記(2))

③ 公案の実践ができる場は意外にあること(後記(3))

④ 「公案解答集」「現代相似禅評論」(後記(4))



(1)自分にとって公案の実践が本当に必要か



そもそもそのような実践を本当にする必要があるかは最初に考える必要があるかと思います。

看話禅という意味での公案禅は、中国から始まる禅という動きの中でも、あくまで日本の臨済宗という、日本では、もう一つの曹洞宗がある中で行われている実践にすぎません。

禅についていえば、日本の臨済宗は遡れば、馬祖や臨済らの洪州宗に至りますが、洪州宗においては、そもそも坐禅のような修行を否定していました(注4)。

そのため、現代の臨済宗は、そもそもの臨済の立場とは違うという評価もあります(注5)。

禅宗を仏教の一派としてみれば、臨済宗以外の仏教の宗派では、公案の修行などはしません。

そもそも臨済宗でも、現在のように公案を体系的に用いる修行方法が出来たのは、その歴史から見れば最近のことであり、絶対の方法論というわけではありません(注6)。



私のいた団体では、公案の実践を通して、「釈尊の悟りを追体験できる」などと言っていましたが、禅宗を含む大乗仏教が、釈尊の直説ではないことは、常識で、禅の実践を通して、「釈尊の悟りを追体験できる」などというのは誤りです(注7)。



このような観点も含めて、自分自身に、なぜ、公案の実践が必要なのかはきちんと考えて答えを出した上で、始めるのがよいかと思います。

私も痛感しましたが、ある程度、公案の実践が進んだ後で、組織のあり方や実践方法がだめだとわかったり、疑問を持ったときには辞めることが心理的に困難になるので、この点は、よく気をつけるのがよいのではと思います。



(注4)

[1]柳田聖山『禅宗語録の形成』

「馬祖にはじまる洪州宗の立場は、起心動念、弾指動目、所作所為がすべて仏性全体の用であり、よく言語し動作するものが、すべて仏性に外ならなかった。じじつ、馬祖は「汝若し心を識らんと欲せば、ただ今の語言するものが即ち汝の心である、此の心を喚んで仏となすのであり、亦た実相法身仏と言い、また道とよぶ」 (『宗鏡録』第十四)と言っている。道は遙か彼方にある理想ではなくて、即今の言語がその作用動作である。かれは、道は修を用いず、但だ汚染する莫きものとする。この言葉は、大珠慧海の『頓悟要門』にも、百丈懐海の『広語』にも引きつがれている。

こうして、平常心を道とする立場は、もはや従来のような看心修行や、経典の訓詰学を以てその方法とすることができない」(40頁)



[2]柳田聖山『禅と日本文化』

臨済は、修証を生死の業(ごう)とする。六度万行(ろくどまんぎょう)を退け、看経看教(かんぎんかんぎょう)を拒否する。飽くまで飯を喫して、念漏を把捉して放起せじめず、喧を厭い静を求めるのは、外道の法にほかならぬ。かつて、荷沢神会は北宗禅を批判し、「心を注して静を看じ、心を挙して外を照し、心を摂して内に澄ませ、心を凝らして定に入る」ものとし、これは外道の法であると断じた。臨済も、この句を引く。」(162頁)



[3]鎌田茂雄「禅思想の形成と展開」『禅研究所紀要第2号』

「中国仏教の中でも中国禅は大変とらえにくい。現在の日本の臨済禅は主として白隠禅である。白隠禅によって中国の禅を理解しようとしたり、『臨済録』を読もうとするならば、臨済の精神の把握はおろか、見当違いの理解の仕方をしてしまうのではなかろうか。或は道元禅師の考え方で、中国の曹洞禅を考えていくと、そこいやはり可成り間違った理解が生じてくるのではないかと思われる。そういうものをできるだけ排除して、中国人の創造した禅に迫っていったらよいか、ということは、かなり問題があろうかと思う。『臨済録』を読んでみると、坐禅については一言も言っていないし、公案についても言ってはおらない。そこでは人間の実存の根拠というか、人間の真の自由とは何か、ということを追究しているのである」(72頁)



[4]小川隆『中国禅宗史』

「修行を不要とし、あたりまえの日常をありのままに肯定する、そうした考えを馬祖系の禅者たちは「平常(びょうじょう)」「無事」などの語で表現した。「平常心」とは何かと問われた長沙景岺(ちょうけいしん)(生没不明)は「眠ければ眠り、坐りたければ坐る」と答え、それでは解らぬとの問い返しに、なお平然と「暑ければ涼み、寒ければ火にあたる」と答えている(略)。さらに臨済義玄の「無事これ貴人、ただ造作するなかれ、ただこれ平常なれ」の語や、次に引く「随処に主と作(な)る」の一段などは、いっそうよく知られたものであろう。(略)

外に求めることなく、ただあたりまえにクソをし、小便をたれ、服を着、飯を食い、眠くなったら横になるだけ。そのように「平常」「無事」であれ、と臨済は言う。すでに(略)ふれたように、「随処に主と作る」という有名な一句も、もとはこのような文脈で説かれたものだったのであった」(212頁)



(注5)柳田聖山・梅原猛『仏教の思想7 無の探求〈中国禅〉』

「馬祖以後の禅は、もはやかつてのような山林の瞑想でもなければ、修行や証悟としての生活でもない。むしろ、形式的な瞑想や行道(ぎょうどう)は、ことさらに業をつくり、あたりまえの人間の真実を傷(そこな)うものとして退けられる」(184頁)

「いま普通に言われている禅は、臨済の主張と反対のことばかりやっています。あれで臨済禅かと思うくらいです。公案というのが出てくるには出てきたけれども、どうも『臨済録』を公案で切ってしまうのはまちがっています」(245頁)



(注6)秋月龍珉『鈴木大拙』188頁

「今日の公案禅はひっきょう中国宋代の禅の亜流であります。東山下の暗号密令といわれた五祖法演―大慧宗絋杲下の禅を取ってもって、これを独自の教育体系に組織化したことは、白隠の偉大なる功績でありました。しかし、一度伝統ができあがってしまいますと、すぐにこれに固執してしまって形式化の結果生命を失います。そしてたかだが過去二百年の伝統が、禅のすべてであるかのように思い誤ってしまうのです。いわゆる白隠下の公案体系を透過した『大事了畢底』ないし『師家分上』でなければ、禅者でないかのような誤った優越感もそこから生じます。はては公案もひっきょう『人間を作る一つの手段』であるという「いろは」さえ忘れてしまうに至ってはもはや論の外でしょう。」(188頁)



(注7)大乗非仏説

[1]島田裕巳ブッダは実在しない』

「大乗仏典に記されていたことは、ブッダが亡くなって相当な年月から経ってから後世の編者によって編纂されたことで、ブッダの直接の教えではないとする考え方は「大乗非仏説」と呼ばれる。近代仏教学では、この大乗非仏説が前提になっている」(72~73頁)



[2]佐々木閑大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向うのか』

「動かぬ証拠が次々に提示される中、歴史的事実が宗教的情熱を押しやるかたちで「大乗非仏説論」が学界の主流となり、それにともなって仏教界全体も、それを一応は受け入れることとなったのです。」(268頁)



(2) 公案修行の価値は、団体、あるいは、指導者限りのものであること



白隠禅(臨済禅)の公案に興味を持たれている方に対する念のための注意ですが、師家 (指導者)により課される公案や真正の見解(公案に対する解答)は違います。(注8)

したがって、在家禅団体でどんなに公案を透過しても、その団体以外で評価されるわけではありません。

私の所属していた在家禅では、ほかの出家者が行う公案の実践では、途中までしか出来ず、最後まで完了することはできないことを強調していましたが、そもそも比較ができるようなものではなく、このような説明はミスリーディングです。



(注8)

[1]鈴木省訓「『教乗公案集』について」」『印度學佛教學研究第四十一巻第一號』

臨済禅は、公案禅であるが、現在の公案禅は、江戸期に出世した白隠慧鶴及びその門下によって整理され、体系化されたものである。この公案修行で用いられる公案の則数は、一口に千七百則と言うが、実際には、それぞれの修行道場の指導者である師家によって異なる」(268頁)



[2]山田邦男編『森本省念老師 下〈回想篇〉』

(森本省念年老師が伊深の正眼寺疎開した際のエピソード。無論、当時公案体系の修行は完了し印可を受けていた)

「老師は正眼寺の逸外老師の室内に通参された。最初の日は袈裟文庫をかけて雲水姿で庭詰されて掛塔されたが、既に六十歳近い老雲水であった。正眼寺は棠林(とうりん)下(隠山―棠林―雪澤―泰龍の系統)であり、備前下(備前曹源寺の太元―儀山の系統)の相国寺(しょうこくじ)とは法系が異なるために、室内の調べは最初からであった」(38頁)



(3)公案の実践ができる場は意外にあること



私のいた在家全団体では、その団体以外で公案の実践ができる場がほとんどないということを強調していました。

在家禅を辞めた今となっては、公案の実践そのものに興味があるのでなければ、わざわざやる必要はないかと思いますが、本気で探して、独参することを求めれば、案外、できる場はあるかと思います。

実際、私も、在家禅と並行して、現在もお世話になっている臨済宗の出家者の老師にも独参(公案の修行をすること。参禅とも言います。)していました。

在家禅の団体は、いくつかありますが、どこも元々は出家者の老師に弟子入りして「修行」した在家の人が、印可(ほかの人に公案の修行の指導ができる資格)を受けて始めたものばかりです。

私の所属していた在家禅も、「○○寺系」などと元々印可を受けた老師の所属していた宗派の寺院の系列であることを謳っていましたが、私が所属していたときには既に大本のその寺院とは没交渉でした。

私は、その信用性に疑問を持っていました。

ちょうど、在家禅の会員になる直前頃、坐禅会巡りをしている最中に出会った複数の方から、とある寺院の坐禅会の坐禅指導が素晴らしいという話を聞いて、その坐禅会に行ったところ、独参を行っていたことから、すぐその出家者の老師に入門して、独参をするようになりました。

その出家者の老師の独参の結果や、後述する「公案解答集」「現代相似禅評論」等の内容を合わせ考えて、在家全団体における公案の真正の見解(解答)もそんなに悪いものではないと感じ、在家禅での独参を続けていました。
 


(4)「公案解答集」「現代相似禅評論」



公案の実践に関しては、「入室(にっしつ)の秘密」と言って、師家(指導者。老師ともいう)とどのようなやりとりをしたかは口外できないことになっています。

そのため、公案の実践の実際については、具体的にはわからないことが多いのですが、太平洋戦争前に、公案の実践における実際のやりとりを暴露したものとして、「公案解答集」と「現代相似禅評論」という二つの本が出版されています。

現在、絶版なのですが、著作権が切れていることから、国立国会図書館のホームページを通して、その全文を無料で閲読することが出来ます。



国立国会図書館デジタルコレクション

https://www.dl.ndl.go.jp/

公案解答集」

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983358

「現代相似禅評論」

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943597



公案解答集も、現代相似禅評論も、その記述から同じ著者なのではないかと思うのですが、とりあえず、公案の修行の実際を知りたいというのであれば、参考になるかと思います。

公案解答集の方が読みやすい、現代相似禅評論の方が扱われている公案が多く、著語が充実しているという違いがあります。

公案の実践における指導者とのやりとりの多くは、これらの書籍に書いてあるものと遜色はなく、一般の人が、公案の実践についてのイメージを持つ上では、参考になる資料かと思います。



7 最後に



禅画に描かれる達磨大師白隠禅師はしっかり目を見開いています。

周りを見渡せば坐禅など仏教の実践をする人はまずいません。

仏教の「苦」は、本来「不満足」を意味しますが、多くの人は、仏教の実践をすることなく、日常に自足しています。

衆生本来仏也(本当は「仏」も余計だ)

本来、特別な教義や実践は不要です。



「縁法師がいった、「一切の経論はみなこころを起す教えにすぎぬ。道という心を起すと、たちまち巧偽が生れて、有事のなかにおちこむ。心が起らなければ、なんで坐禅する要があろう。巧偽が生れなければ、念を正すには及ばぬ。菩提心を発さず、知恵にとらわれなければ、事も理も共に消え尽きる」(略)

道心を起すことが、巧偽をひき起す。道心を起すことが、じつはすでに道に背くわざなのだ。」

(柳田聖山『禅思想』36~37頁)



以上





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