坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

煩悩即菩提

 社会的に相応に評価されている人の境涯には好ましいものがあります。 

 阿川佐和子さんの『聞く力』に次のような一節がありました。

 

 “私は(渡辺淳一さん)に尋ねました。一生、愛し続けられると信じていても、人はどうして気持ちが変わっちゃうんでしょうね。すると、

「その変わるところが素晴らしいんだよ。だからこそ喜びや悲しみがあり、進歩があるんだから」“(165頁)

 

 釈宗演老師の次のような法話からすると、味わい深い。

 

“仏教では常に煩悩を排斥して悟を求めるという様なことを申すが、之を現実的に言って見ると、唯々古いものを捨て新しいものを取るという程のことで、【略】新陳代謝する、即ち我々が茲に存在して生々として活動して居るのは、畢竟、新陳代謝作用の表現である。元来、此體は皆な細胞から出来て居る【略】我々人類が国家を作ったり社会を造ったりして居るものも、ちょうど、此の身體を造り上げて居る細胞みたようなものである。一匹の細胞が務めを怠り、小さな蟲一つが段々務めを離れてくると健全な身體も何時の間にか虚弱に成って役に立たなくなる。健全なる身體であるならば、無数の細胞が新陳代謝を続けて身體の中に活動して居るのである。人類社会もそうで百年も千年も新陳代謝が行われず其儘にして行った時は、宗教も道徳も悉く退歩して仕舞う、細胞が怠けると病気になり、遂に死滅に帰していくのである。”(『快人快馬』184頁)

 

このような考え方について、納得しがたいものを感じているときがありました。

 

 禅では、「現在、此処、自己」が大切であり、かつ、「衆生本来仏」なので、現在の自分に満足することが大切です。

 以前、この「現在の自分に満足する」ということについて、現在の自分に「フィックス」するという意味で満足することなのだと思っていました。

 未来の結果を気にせず、現在の幸福に自足すべきだと思っていたので、自己の発展を考えるべきではないと思っていたのです。

 私自身、理想と現実に対するギャップを苦痛に感じることもあり、将来における理想を実現しようという発想が否定されることに心の落ち着きを感じるようになっていたからです。

 

 しかし、そのうち、諸行無常なのだから、現在の自己の状態が維持されることはなく、そこに安住するという発想自体が誤りではないかと感じるようになってきました。

 私は、向上を求めて、変化する存在であり、私がかつて理想を抱いていたときに感じていた悩みや、迷いや、苦しみは、その原動力だと捉えられるようになりました。

  

 現在の自分は、理想を目指して、悩み、迷い、苦しむ存在であり、私は、そのありのままでよい。

 

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 衆生本来仏、煩悩即菩提というのは、このような意味ではないかと思っています。