坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

見性体験などの特殊な体験を求めない(その2)

 私が見性体験等の特殊な体験を求めるべきではないと考える主だった理由は次の3つです。

 第1に、坐禅などの瞑想は、脳の特に前頭葉の機能を低下させるものであり、見性体験などの「特殊な体験」は、この機能を著しく低下させるものであって、そのようなことが本当に脳によいといえるのか、疑問です。
 坐禅が脳に与える効果の機序として重要なものは、呼吸回数が減ることにより、血中二酸化炭素濃度が上昇することです。
 血中二酸化炭素濃度が低下すると、それ自体が多幸感を生じさせるほか、セロトニンが分泌されることにより、うつ症状が改善されることがわかっています。
 俗にいう特殊な体験をした場合には、頭頂葉のほか前頭葉の活動の減少が認められることが多く、この減少幅の大きい人ほど、このような特殊な体験を生じるとされるようです
(amazonのウェブページに出ていた『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか ― 脳科学で「悟り」を解明する!』の紹介文)。
 おそらく、血中二酸化炭素濃度が高まるとともに必然的に血中酸素濃度が低下し、そのために、脳の前頭葉の活動が低下する。
 前頭葉は、実行機能 (executive function) と呼ばれる能力を持ち、これは、現在の行動によって生じる未来における結果の認知や、より良い行動の選択、許容され難い社会的応答の無効化と抑圧、物事の類似点や相違点の判断に関する能力です
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E8%91%89)。
 「未来における結果」「良い行動の選択」「物事の類似点や相違点の判断」などといった点は、いかにも「分別心」を思わせるものがあります。
 このように判断能力が低下することによって幻覚が生じる。
 この幻覚の典型的なものが禅の世界で、「見性体験」と呼ばれる「自己と世界とが一体化」した体験です。

 このことは、統合失調症を考えると更にわかりやすくなります。 
 統合失調症の典型的な障害としては「自我同一性障害」、すなわち、自己と客観的世界との区分がわからなくなる体験があります。
 そして、統合失調症に関し、「多くの研究者のあいだで支持されている所見は、統合失調症では前頭葉の機能が低下しているのではないかというものです。 とくに前頭葉を働かせるようなテストをしてもらうと、機能の低下がはっきりしてきます。 それ以外にも、左側の側頭葉(言語に関連する領域です)の機能が低下しているという研究者も少なくありません。」(「脳科学から見た統合失調症https://www.smilenavigator.jp/tougou/about/science
と言われています。

 坐禅等の瞑想を強力に行うことは、人為的に統合失調症の状態を作り出すものであるととらえることができるのではと考えています。
 おそらく、通常は、このようなことは問題とはならない。
 というのは、私もその一人なのですが、周りにいる坐禅等の瞑想をする人を見てみると、うつ傾向のある人が多い。
 うつは、自我が強すぎる状態であり、坐禅等の仏教の瞑想により自我を弱くして、統合失調症の方向に引き付けるとバランスがよくなると考えられ、このため、精神面での健康の増進に資する。
 また、自我の確立の弱い人がリトリートに参加すると精神以上を来す例が生じるのは、自我の弱い状態で、瞑想をすることにより更に自我が弱くなり、実際に統合失調症の症状を呈するからであると思われます。
 このようなことを考えると、「見性体験」などのような強烈な感覚が生じる程度まで、坐禅等の瞑想をすることには、精神的な異常を来す危険があると思われます。

 第2の理由は、そのような特殊な体験の内容は必ずしも良いものではないことです。
 坐禅等の瞑想による前頭葉の活動の低下によってもたらされる幻覚の基礎となるものは不定形のものと思われますから、脳でどのような意味付けがされるかが問題となります。
 この点、禅の修業をしている人から聞かれることは全くなく、テーラワーダの実践をしている人の相当多くの人が語る体験として、「リトリートが終わったあと、世界が汚く見える」というものがあります。
 テーラワーダでは、「一切皆苦」が殊更強調されます。
 なにかよい体験があっても、それが過ぎ去った後で、またそれを体験したいという欲望(喝愛)が生じることから、どんなよい体験も「苦」であることが強調されます。
 本当に、このように思っている人は、うつ症状なのだと思いますが、このような事前情報が入っているため、幻覚の内容についても、この事前情報に沿った、世界を否定するものになり易いものと思われます。
 逆に、禅の場合ですと、「悉有仏性」という世界を肯定する考え方が強調されますから、テーラワーダの実践をされている人によく見られる「世界が汚く見える」という体験が生じにくいと思われます。
 このように特殊な体験の内容は、よいものではなく、悪いものであることもあることから、殊更求めるものではないと思います。

  第3の理由として、正直、このような体験をした人がよい人生を歩んでいるかというとどうもそうでもない。
 自己と世界の一体性、すなわち、相互依存関係を体感しているのですから、利他行為の実践に邁進しやすくなるのではないかと思うのですが、そうではなく、圧倒的多数の人は、あまりそのような行為をしているというわけではない。
 そうなると、幻覚は所詮幻覚にすぎず、個人の内面の問題なので、世界のなかで、愛し、働くことには結び付かない。

 そう考えると、多大な時間を費やし、脳への悪影響のリスクを犯しながら、見性体験などの特殊な体験を求めるのは無価値であると思います。
 坐禅をしてある程度心の波立ちを押さえた後は、悩み、苦しみ、迷いながら無償の利他行為に没頭する方が、有意義ですし、満足のいく生活を送ることができるように思います。 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村