世界と人生に何の不満があるのか?
坐禅などの仏教の瞑想をする人は往々にして不満がある。
人生に疑問をもって始める人は、人生に不満がある。
世界は「苦」ばかりであるという人は、世界に不満がある。
しかし、なぜ、不満を抱くのか?
山川草木悉皆成仏だ。
きちんと世界を見回したらいい。
この世界はとてもすばらしい。(注1)
衆生本来佛だ。
きちんと自分の人生を振り返ったらいい。
とてもすばらしい人生を生きているじゃないか。(注2)
世界と人生の一体どこに不満があるのか?
自分で勝手に不満を作り出しているだけではないのか?
不満に思っている自分自身を反省すべきではないのか?
(注1)釈宗演『釈宗演全集第1巻 禅学大衆講話』18頁
「春に為れば、誰れがするという譯ではないが自然とうらうら春風が吹き、花が咲いて来て、鶯が嬌音を弄する。月は何時でもあるが、殊に秋の月は皓々として冴え渡る。夏は熱いが、涼風が吹いて来て、爽快感を与えてくれる。冬に為れば、雪が降って一望白皚々の銀世界である。若し閑時の心頭に掛(かか)るたくんば、便ち是れ人の好時節で、自然界は吾々に恁(こ)ういうものを与えて、慰め楽しましめてくれています。人間孜々(しし)として終日働いているから、其労に酬(むく)ゆる為めに、之れを与(や)ろうと、春は花、夏は風、秋は月、冬は雪を与えてくれるのであります。けれども人間閑事心に掛(かか)るから、恁ういう恩賞に與って居りながら、煩悶し苦しんでいます。だから花を見ても、月を見ても、楽しまずに泣いている。」
(注2)原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』108~109頁
「闘争も不幸もすべて心の持ちよう=解釈=一つ、同じ事実も見ように依って蓮華にもなれば汚物ともなる。嬉しくもなり悲しくもなる。好きにもなり嫌いにもなる。黄金にもなれば糞土にもなる。すべてこちらの業の現れによって、客観世界が如何ようにも変って来るものである。だから同じく五十年の人生も、人の心の持ちよう、即ち解釈、見方一つで地獄にもなれば極楽にもなる。
(略)
およそ誰でも自分は最も幸福だという解釈の出来ない人は、まだ正法の理解も信念もない証拠です。正法を信解した人は必ず自己の幸福に目覚めて、その境遇を真の幸福に向上させるものです。」
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