坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

悩み、苦しみ、迷うことは人間の特権

 仏教では、悩み、苦しみ、迷いへの対処が課題とされます。
 ここで重要なことは、課題は、「悩み、苦しみ、迷い」に対する「対処」であって、これらを無くすことではない、ということです。
 
 私たちは、どうでもよいことに対し、「悩み、苦しみ、迷い」を抱くべきではありません。
 しかし、「悩み、苦しみ、迷い」を抱くべきときがあり、そのときには、きちんと「悩み、苦しみ、迷う」べきなのです。
 人間として生きるということ、積極的に、ほかの存在を支えて生きるということはそういうことなのです。
 私たちは、「悩み、苦しみ、迷う」ことのできる存在なのですが、時折、それを忘れます。
 何よりも、それに疲れてしまって、忘れることがあり、「悩み、苦しみ、迷う」ことから逃げようとします。
 坐禅は、逃げようとする私たちを励ますと同時に、「悩み、苦しみ、迷う」必要のないことからは、「悩み、苦しみ、迷う」ことのないようにし、「悩み、苦しみ、迷う」必要の在ることに対しては、その本性に従って、きちんと「悩み、苦しみ、迷う」ことができるようにしてくれるものです。

“問うということは、問う者が自己を実在から引き離してみた時、はじめて可能になる。かれはその外に立ち、それから自己を引き離し、それを見つめて、問うていう、「これは何か」と。これは、われわれ人間にだけ許された特権である。動物には、とうていこのようなことはあり得ない。かれらはただ実在を生きるだけである。問いなどというものは、かれらには全然ない。かれらは幸福でもなければ、不幸でもない。ただ物事を来るがままに受けるだけである。われわれは自分を現実の外に置くすべを知っており、そこから現実を考察して、現実についてさまざまな問いを呈する。そしてそのために、みずから苦しみ、また時にはみずから楽しむ。しかし、その問いがわれわれにとってきわめて重大なものである場合には、もはや楽しむどころではない。まことに、苦しむことはわれわれの特権である。だから、安らぎを得ることもまた、われわれの特権でなければならない。このことは動物にはまったくあり得ない。”
鈴木大拙『禅』22~23頁)
 
 この一文について
「問うということは、問う者が自己を実在から引き離してみた時、はじめて可能になる」
というのは、自己と問いを引き離す分別をいうものであるので
「苦しむことはわれわれの特権である。だから、安らぎを得ることもまた、われわれの特権でなければならない。」
というのは一種の皮肉なのかな、と思っていました。
 しかし、最近、この一文は、この言葉どおりの親切なものであり、字面どうり、「苦しむことは特権である」と思っています。
 きちんと、愛し、働くために、「悩み、苦しみ、迷い」続けていかなくてはならないと思います。