座禅普及

主旨は慈悲。行は座禅。

本当の利他行為

 禅の講演会での講師の方のお話。

大乗仏教は究極的には利他を説くものです。
 どういう人なら本当に人のためになれるか?
 そのためには、「空」を体得すること。
 自我を空じていなければ、他人のことをあるがままに写し取ることができない。
 『空』を体得するためには、禅の修行が必要です。」

 禅では、悟ったり、見性して、自他一体の境地に至らなければ、本当の利他行為はできないなどと言ったりもします。   
 利他行為といっても、行為の相手の本当のニーズに合致していなければ、独りよがりのものにすぎず、無価値です。

 人が本当に何を欲しているを把握する=正受する必要があるということになるのでしょう。
 だから、講師の方のお話も尤もといえば尤も。

 しかし、このような考え方の実際上の効果は、人を、実際に利他行為をすることから遠ざけてしまうことになると思う。

 利他行為は、“本当の”利他行為でなければならず、“本当の”利他行為をするためには、禅の修行により、「見性する」=「悟る」ことが必要だ。
 したがって、このような考え方だと、結局は、利他行為よりも、「禅の修行」が優先される。

 公案をどの程度透過するかというくだらない次元の問題ではなく、「禅の修行」で実際に、“本当の意味で”悟ったり、見性したりする人がどの程度いるのか?

 

「今日、臨済宗黄檗宗を含めて)には三千四百カ寺の寺院があります。(略)そのうちのわずかに八十数名だけが、白隠下の公案修行を終えた「大事了畢」(だいじりょうひつ)の「印可」もちと言われる「師家分上」です。まして、僧籍を持たない居士身の大事了畢底ということになれば、それはもう本当に寥々たるものです。」

(秋月龍珉『無門関を読む』253~254頁)

 

 公案過程の透過ですら、このようなものなのに、本当の意味で”悟る”などとはとてもとてもということだろう。
 これまで、独参のある坐禅会にも複数お邪魔させていただいたことがあるけれども、ほとんどの人は、“本当の意味で”見性してはいないし、坐禅会ごとに設定された公案課程を完了しないまま、諦めてやめてしまったり、あるいは、お亡くなりになる。

 熱心な人であればあるほど、禅堂の中で、クッククックと坐り込み、飛び込んで入室を続けることに血道をあげる。
 大乗仏教は利他を説くものであるはずなのに、こんなボランティア活動をしたとか、こんな社会貢献をしたとかいった話をする人はほとんどいない。

 初心者向きの別の禅の講演会で、講師が「禅の修行を通して、自他一如の境涯に達すれば、自利の行為として利他の行為をすることができる。」という同じような話をした。
 それを聞いた坐禅を始めてから比較的間もない人が、「私も、利他の行為をしていけるようになりたい。」という話をした。
 それに対して、久参の方が「自他一体の境涯になるのは大変だよ。」と返した。

 私も同じだけれど、仏教の魅力を利他の精神に置く人は少なくないだろう。
 その初心の人も、利他の行為をしたいという気持ちがある。
 それが初発の発心というものだろう。
 しかし、多くの人が、「本当の利他行為」を目指して、「禅の修行」という明後日の方向を目指す矛盾に陥る。

 しばらく前の記事でも取り上げたけれど、エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』によると

「基本レベルの豊かさ(住む家があり、十分食べ物があること)がひとたび得られれば、それ以上どれだけカネがあっても人が感じる幸福度にほとんど差は生じない。(略)
 それよりも人を幸福にするのは、自分にとって大きな意味のある何かに積極的にとりくむことだ。」(342頁)

とされます。
 けれども、「何か大きな意味のある何か」といっても、なかなかすぐには思い付くものではないでしょう。
 私自身は、「利他行為」をすることが、誰にとっても、卑近な「何か大きな意味のある何か」に当たるのではないか、と考えています。
 どんなことであれ、「ほかのだれかの役に立つこと」は、私利私欲で行うことよりも、価値ある尊いものに感じられるのではないでしょうか。
 先程取り上げた講演を一緒に聞いた初心の人が、利他行為をしたいというのも、利他行為にそのような尊さがあるのを感じていたからなのではないかと思います。

 それなら端的に利他行為を行えば良い。

 坐禅をすると、不安感を生じさせる偏桃体の機能が低下して、気持ちが落ち着いてきて、ほかの人に配慮がしやすくなります。

 「誰かにやさしくしたい」

 こんな素直な気持ちを実現しやすくするのが坐禅です。

 私たちは独りよがりになりがちで、よいことをしても却ってありがた迷惑ということもあるでしょう。
 だから、人のためと思ってやっている行為が本当にそのひとのためになっているのかどうかということについては、つねに反省を迫る必要があります。
 本当に、それがその人のためによいことなのか?その人が望んでいることなのか?
 悩み、迷い、苦しむ。
 うまい正解は出ないかもしれない。
 しかし、諸行無常の世界、未来に何が待っているのか分からない世界においては、「何もしない」ことも含めて、暫定的な結論を出して、具体の行動を起こすしかない。

「未来は、望むだけでは起こらない。そのためには、いま意思決定をしなければならない。いま行動し、リスクを冒さなければならない。」

(P.F.ドラッカー(上村惇夫訳)『【エッセンシャル版】マネジメント 基礎と原則』37頁)

 このように、暫定的な結論を出してしか行動ができない以上、私たちは、その行動の責任を負わなければならない。
 そして、その行動の対価を求めてはならない。
 利他行為は、「ただ」行われなければならない。
 対価を求めた時点で、利他行為は、利他行為ではなくなる。

 

「右の手のなすことを左の手にしらすな(マタイ伝六ノ三)――これは禅堂生活にあっては『陰徳』を積むことである。それはまた奉仕の精神である。陰徳はそれ自体のために為される行為であって、天にも地にもどこにおいても、何らの報酬を求めない。われわれの社会生活において、いずれもが困ることは、われわれが常に報酬を求めていることである。それもよほどしばしば、行為そのものの価値にふさわぬ法外な報酬を求めていることである。この報酬が手に入る見込みがつかぬと不満を観ずる、不満を感ずれば、これがわれわれの日常生活におけるあらゆる面倒をひき起こすことになる。」

鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』107~108頁)


 坐禅と同様、利他行為も、対価なしに「ただ」行われなくてはならない。

 

 そして、先にも述べたように、自分のしたことが、本当にその人の幸福に合致するものであったか否かはわからないのだから、やったことを振り返って、本当にその人の幸福に結びつくものであったのかを振り返って反省し、悩み、苦しみ、迷わなくてはならない。

 坐禅を始めてしばらくの間は、このように振り返って、反省したり、悩むべきではないのではないかと思っていた。 

「わしは勉強はじめてから以後は、勉強に夢中になっていて、嫁をもらおうなどと考える暇はなかった。だから、わしの場合では、一生辛抱して独身を通してきたわけではない。ただまっすぐに向こう向いてゆくばかりで、きょうまで来てしまったのである。」

(酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』155~156頁)

 

 悩み、苦しみ、迷うというのは、現在から心を離れさせ、将来の損得勘定という結果に目が行っているから生じるのだと考えていた。

 

 しかし、そのうち、自分のことを振り返って、悩み、苦しみ、迷う方が正しいのだと感じるようになった。

 そう感じるようになってから、次のような言葉に得心がいくようになった。

 ブログによく引用するものだけれども、次のような言葉が好きだ。

 

「迷いが怖ろしいから、悟りの中へ逃げ込むというのではありませぬ。迷いの中へ飛び込んで、大自在を得る」

(釈宗演「無門関講話」『釈宗演全集第五巻』39頁)

 

「大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。」

(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)

 

 迷いを振り切って何かするというよりは、ほかの人の幸福を実現するために、ああだこうだと迷い、ドタバタ、ジタバタ生きて行くことこそが、人間としての活溌溌地とした生き方ではないかと考えるようになった。

 坐禅を継続したおかげで扁桃体の活動が適正な範囲に収まるようになった未来のことを考えても、うまく行かないのではないかとかいった不安を考えることが少なくなった。

 どちらかというと、未来によいことをしようと考えて実際の行動を起こしている現在の自分というものにフォーカスして肯定できるようになった。

 利他行為をする上で、重要なことは、本当に相手の幸福を実現できるのか、悩み、苦しみ、迷うこと、そして、対価を期待せず、ただ行うことなのだと思う。

 愛することに邁進することの中にこそ、私の人生の充実があるのだと確信している。

 

 坐禅などの禅の実践を真剣に続けながら、何か満たされないものを感じるひとは、禅の修行の進展に目を向けすぎるあまり、肝心の愛することがおろそかになっているのではないかと思う。

 

 坐禅扁桃体の活動を低下させて、不幸の芽を摘んでくれる。

 しかし、それなら私たちの人生は不幸の芽を摘むためにあるのだろうか?

 私たちの人生は苦から逃れるためのものなのだろうか?

 

「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働くためであって、苦から逃れるためではない。」

(松本史朗『仏教への道』146頁)

 

 私たちの人生には、積極的な価値がある。

 いや、価値がありたいと私たちは望んでいる。

 それではだめなのか?

 

「不幸の芽を摘むことばかりに気をとられてはいけない。それよりもたいせつなのは、幸福を増すような要素を積極的に見つけることだ。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』341~342頁)

 

 このような脳科学に基づく知見は、常識を説明するものにすぎないものであるともいえるけれども、とても大切なことだと思う。

 

「瞑想センターは、あなたがみずからに帰り、現実についてのいっそうはっきりした理解を得、理解し愛する力を強め、社会に復帰する準備をするところです。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』79頁)

 

 禅堂や座禅の実践は、現実社会の中で、傷ついた人の愛する力を取り戻すためにあるのだ。

 活動しすぎている扁桃体の活動を適正な範囲に限定し、「不幸の芽を摘む」、そして、心の余裕を作って、愛し合う人生をおくるためにあるのだ。

 

 禅の修行は、所詮は、「修行」。

 私たちが、愛し合うための練習に過ぎない。

 修行にかまけて、肝心の愛し合うことをしなければ、人生はまったく無価値だ。

 

 名のある禅匠も、禅の修行にのめり込みすぎることに警鐘を鳴らしていることに留意すべきだと思う。

 

公案の修行にやたらと時間をかけるのが、はたして、それほど必須のことかどうか。(略)上(かみ)に向上の菩提を求むるは、下に一切の衆生を度せんがためにほかならない。いたずらに花道の長いのを誇るのは愚の骨頂である。」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』90~91頁)

 

「禅堂には、素敵なものはなにもありません。ただ、ここへ来て、座るだけです。お互いに意思を通じ合わせたあとは、家に帰り、また毎日の暮らしを純粋な禅の修行の続きとして行います。そして、人生の真の生き方を楽しむのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』258頁)

 

 私たちにとって大切なものは、仕事や家庭、地域などの日常の生活です。

 その中で、きちんと愛し合うこと。

 

「本当の利他行為」

 

 本当に何が愛することになるのかを反省することは、とても大切だけれど、余りそのことを気にしすぎると、肝心の愛することをしないままに終わってしまう危険があるのではないかと思います。

 そして、私たちは、「空」の体得などしなくても、多くの場合、きちんと愛し合うことが出来るのです。

 私についていえば

 

 ・献血をしに行く

 ・ボランティアで自死した方のご遺族の傾聴をする

 ・JRの駅で品川に行きたいと英語で言っていたイスラム系の女性を身振りで品川駅まで行く電車まで案内し、電車が品川駅に着いたところで到着を知らせる

 ・妻が「庭の雑草が伸び過ぎて困る」と言うので、庭の刈込をする

 

……どれも、「空」の体得などしなくても、「本当の利他行為」であることに間違いない。

 真剣に悩むことも大切なのだと思うけれど、問題を難しくしすぎてはならない

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