坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

統合失調症と悟り体験

【要旨】

この記事は、要旨

坐禅によるうつ傾向の解消等の主要な効果は、呼吸回数の減少を緒とする扁桃体の活動の低下によりもたらされると考えられるが、扁桃体の活動の過剰な低下は、統合失調症における自我意識障害及び誇大妄想に類いする症状をもたらし、これが「自他不二の体認」などと呼ばれる白隠禅的な意味での悟りの体験であると解釈されていると思われる

ことを記述したものです。

【構成】

1 臨済禅(白隠禅)等における「悟り」体験

(1)臨済禅=白隠禅=「悟り」体験を求める禅

(2)白隠禅における「悟り」の内実

(3)白隠禅以外における「悟り」体験

2 扁桃体の活動の過剰な低下と悟り体験との関係性

(1)坐禅のプラス面における生理学的効果

(2)扁桃体の活動の過剰な低下と統合失調症との関係

(3)統合失調症と「悟り体験」

ア 扁桃体の活動の低下と自我意識障害

イ 統合失調症における誇大妄想の特色と悟り体験との整合性

3 悟り体験における前頭葉活性化仮説との整合性

4 白隠禅の禅修行と扁桃体の活動の過剰な低下との整合性

5 白隠禅的な悟り体験を求めることの問題性



以前から、白隠禅的な「悟り」の体験は、統合失調症の自我意識障害が急性的に生じるものなのではないかと考え、少しずつ調べ、ブログにもいくつか記事を掲載してきました。

【参考】

魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10)(補訂板) - 坐禅普及

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及



最近、アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマン(エリコ・ロウ訳)『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか? 脳科学で「悟り」を解明する!』、岡田尊司統合失調症』、小林和彦『ボクには世界はこう見えていた 統合失調症闘病記』を読了したのですが、これらの文献の内容を踏まえると、先のような捉え方の正当性がより強く感じられたことから、これまでの記述を整理し、前記各文献の内容等を付け加えることにしました。



1 臨済禅(白隠禅)等における「悟り」体験



(1)臨済禅=白隠禅=「悟り」体験を求める禅



「現在の日本の臨済禅は主として白隠禅である」

(鎌田茂雄「禅思想の形成と展開」『禅研究所紀要第2号』72頁)



とされます。

江戸時代に白隠慧鶴禅師が確立した修行の方法論が、現在の臨済宗全体の方法論になっています。

白隠禅の特徴は何かといえば



「見性体験の一事に尽きる」

(柳田聖山『禅と日本文化』153頁)



とされます。

禅宗では、「悟り」のことを、伝統的に「見性」といいます。

白隠禅においては、見性の体験をすることを重視します。

ちなみに、日本の禅宗のもう一方の雄である曹洞宗では、特に近代以降、悟りや見性の体験を求めることを否定する立場が主流です。(注1)



「禅は人間としての生活を出ない。禅の目標は人間完成にある。悟りを強要するような禅は、見性流の禅であつて、超人生活をあこがれる人々の迷妄である。」

(岡田宜法。大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』258頁)



(2)白隠禅における「悟り」の内実



白隠禅における「悟り」とは、一般的に次のようなものであるとされます。



「『悟り』とは、今まで『差別』の世界しか知らなかった自我が、自我を空じて無我に徹したところで、“自他不二・物我一如”という『平等』の世界が根底にあったということに目覚めることである。」

(秋月龍珉『日常の禅語』27頁)

「自己の本性を悟るといっても、べつに今までになかった新しい知識を得ることではなく、いままで後生大事に背負い込んでその重さに耐えかねていた自己という妄想の固まりを放り出して、天地宇宙と一つに融け合った瞬間の体験が悟りだ」

(大森曹玄『参禅入門』241頁)



また、具体的な実例としては、手元にある文献の中に、次のようなものもありました。なお、大竹晋『「悟り体験」を読む』には、ほかの例の引用も豊富にされており、参考になろうかと思います。


 
ア 朝比奈宗源

「長香一炷(一本)がすみ、独参の喚鍾がでるのをまちかねて、まっさきに入室し、湘山老師にいきなり、『できました』と申し上げました。それまではいつも『できません』としかいったことのない私が、勢いこんでこういいましたので、老師も、『ふうん、どう見たか』と。私が見処を申し上げると、『そう見まいものでもない』と。その場でいくつかの拶処(問題)を透りました。ここにくわしくは申し上げられませんが、ここで私は佛心の一端を見たのであります。佛心は生を超え死を超えた、無始無終のもの、

《佛心は天地をつつみ、山も川も草も木も、すべての人も自分と一体であること》

、しかも、それが自己の上にぴちぴちと生きてはたらいて、見たり聞いたり、言ったり動いたりしているのだという。祖師方の言葉が、そのとおりであるということを知ったのであります。」

(朝比奈宗源『佛心』35~36頁)

イ 鈴木大拙

「鈴木(大拙)先生の場合、『アメリカに行けばもう参禅はできぬ。渡米前に片付けなくては』というせっぱつまったとき、いわゆる『窮すれば変ず、変ずれば通』じたのである。すなわち臘八摂心中のある晩、参禅を終わって山門を降ってくるとき、月明りの中の松の巨木との区別をまったく忘じ尽した、『自他不二』の、

《天地と一体の自己を体得》

したのである。」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』149頁)

ウ 関大徹 

「見性が、いかなる内容であったかという点については、誰でもそうだと思うが、筆舌にあらわし難い。(略)

一種の宗教的恍惚かも知れず、恍惚といってしまったのでは、身も蓋もないが、やはり恍惚としかいいようのない世界であった。

とにかく、私は一つの世界を得た。それは、解放感といってもよかった。伸びやかな気分だった。自由とは、これかと思った。」

(関大徹『食えなんだら食うな』27~28頁)

*せきだいてつ。曹洞宗の僧侶。引用に係る部分は発心寺の原田祖岳老師に見性を認められた場面のもの。その後、伊深にある臨済宗正眼寺僧堂においても参禅。



以上の「悟り」体験の記述からすると、白隠禅における「悟り」において体認されるものの要点として

① 心身が他の存在との関係性においてあることの体認(自他不二・物我一如)

② ①に対する肯定的評価(恍惚感、自由、佛心等)

の二つが挙げられることができるように思います。

このような関係性(①)の肯定的評価(②)の体認が「慈悲」を基礎づけるものとされ、「大智と大悲の調和」などといわれたりします。



「禅は、徹底的に否定道を行くので、自己の煩悩を断じ、大智と大悲にめざめんとする。徹底した大悟の人においては、この大智と大悲が完全に調和して、人間の真のあり方を自ら示してくれる」

(藤吉慈海『禅と浄土教』101頁)

「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらるる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州の石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて、大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了すると考えられる」

鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』157頁)



(3)白隠禅以外における「悟り」体験



アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマンほか『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか? 脳科学で「悟り」を解明する!』によれば、白隠禅的な「悟り」体験は、キリスト教イスラム教などでも認められるとされます。

同書では、約2000の悟り体験の記録を集めたとされますが(59頁)、それらから抽出した要素は次のとおりとされます。



1 一体感やつながりの感覚
2 信じがたいほど強烈な体験であること
3 明瞭な感覚と根本的に新たな認識
4 明け渡しの感覚、自発的コントロールの喪失
5 自分の信条や人生観、目的意識などが突然、恒久的に変わってしまった感覚

(同書63頁)



もちろん、何を「悟り」と捉えるかについて、本質的な答えはありませんが、一般的に「悟り」の体験というものをイメージしたものを抽象化したものがこれらの要素といえるかと思います。

こうしてみると、1と4が白隠禅の要素の①に、2、3、5が②に当てはまるように思います。

ちなみに、上座仏教(テーラワーダ)における「悟り」は「貪瞋癡」の滅尽ですから、そこでの「悟り」の概念は、以上のような一体感とは異なるものとされます。



「最近日本でも不二一元論(advaita vedanta)系統の精神世界の教えが、欧米経由で入ってきています。『仏教は本来不二一元論だ』と主張している人もいます。ヒンドゥー教でありながら大乗仏教の空や如来蔵思想などの影響がみられ、『仮面の仏教徒』といわれたシャンカラの教えですから、似ているのは当たり前だと思います。本来の仏教をどう解釈するかにもよりますが、そのような意見に対して疑問を感じずに受けてしまう理由は、無我と真我の違いの理解の不足と、大乗仏教における空や如来蔵思想とアドヴァイタ哲学の真我との違いを分別できないことだと思います。単純に『全ての真理は同じだ』などと言うことは安易です。きちんとテーラワーダ仏教側からの意見を言うべきだと思っています。」

(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』51頁)



2 扁桃体の活動の過剰な低下と悟り体験との関係性



(1)坐禅の生理学的なプラスの効果



「悟り」体験が統合失調症の症状として理解できるのではないかということは、坐禅のプラス面の生理学的な効果について自分なりに勉強する中で着想を得ました。

坐禅のプラス面の生理学的な効果については、既に、別の記事で触れましたが、改めてのその想定される機序について記述します。

【参考】
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1) - 坐禅普及



坐禅のときには、呼吸回数を低下させること(ゆっくりと呼吸すること)が勧められますが、呼吸回数が低下すれば、血中二酸化炭素濃度が上昇し、セロトニンが分泌され、脳の扁桃体という部位の活動が低下する結果、うつや不安感が解消、軽減することが判明しているとされています。

扁桃体については、近時、その過剰な活動が、うつ病の発生原因である、あるいは、マインドフルネスによる効果が期待できるとされる慢性疼痛をもたらすと言われています。ネット上に無料で読める専門的研究者による文献が多数ありますが、これに関するドキュメンタリーを担当したNHKのディレクター氏の講演の発言が非常によくまとまっています。


 
「脳の中心部に位置する大脳辺縁系には『扁桃体』と呼ばれる小さな器官が存在し、不安、恐怖、悲しみといったうつ病の症状に関連する感情をつかさどっています。最近のヒトを対象とした脳活動の画像研究により、

うつ病の患者さんは健康な人に比べて扁桃体の活動が上昇しており、不安や恐怖の感情を強く受け止めてしまう》

ことが明らかになりました。このことから、うつ病の発症には扁桃体が深く関与している可能性が示唆され、扁桃体を中心としたうつ病発症の仕組みを解明する研究が進められるようになりました。」(2頁)

(山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」『第11回 日本うつ病学会市民公開講座・脳プロ公開シンポジウム in HIROSHIMA 報告書』)
http://www.nips.ac.jp/srpbs/media/publication/140719_report.pd



また、扁桃体と慢性疼痛との関係については次のようなことが言われています。



「身体からの痛覚情報が長期に繰り返されたり、陰性情動(恐怖、不安、怒り、悲嘆感)という付帯情報が繰り返される場合は、疼痛体験の記憶(短期記憶)が海馬から繰り返し引き出され、疼痛体験の記憶が定着化するようになる。扁桃体は常に過敏となり、僅かな情動刺激にも反応するようになる。つまり身体脳からの痛覚情報がなくとも、陰性情動のみで疼痛体験の記憶が容易に身体化し、『痛み』として体験されることになる。これが慢性疼痛の脳内での中心的維持機構であると考えられる。」

(北見公一「プライマリ・ケアとメンタルヘルス:慢性疼痛と心因性疼痛」『北海道医報』1029号9頁)



このような扁桃体の活動を低下させる機序は次のようなものであるといわれています。



「現在うつ病の薬として脳内のセロトニンを増やすという薬を使います。セロトニンは脳幹にある縫線核(ほうせんかく)というところの細胞が長い突起を伸ばし、その突起の先から出されます。とくに、感情の場である大脳辺縁系扁桃、海馬、帯状回)にセロトニンを出します。そうすると精神が安定するとされるのです。 

呼吸を止めると苦しくなります。それは血中の二酸化炭素が脳の呼吸中枢を刺激するあからです。そこで苦しくなり、息を吐き出し、早く呼吸をします。それは早く二酸化炭素を体の外に出そうとする反応です。またゆっくり呼吸すると血中の二酸化炭素の量がある程度増えます。だから少し苦しくなり、早く息をしたくなるのです。このような二酸化炭素は脳内でセロトニンを増やす効果をもつのです。つまり脳内の二酸化炭素が増えると脳内に多くのセロトニンが放出されるのです。」

高田明和『一日10分の坐禅入門――医者がすすめる禅のこころ』142~143頁)

「ネガティブな情動は扁桃体が中心で、障害され機能がしなくなると、恐怖などあらゆる感情が起らなくなります。ここに絡む呼吸を情動呼吸と呼んでいます。(略)

扁桃体でも呼吸のリズムが生まれていて、このリズムは情動と共に変化しています。不安になった時、呼吸数は増大し、呼吸は速くなります。(略・107頁)

不安と呼吸は一体となって動くので、その人の呼吸数を少しでも下げれば不安も和らぎます。世の中に出ている呼吸法はすべて、呼吸をゆっくりにする方法です。

(本間生夫「呼吸と健康」『大法輪』(2020年3月号)106~107頁)



以上の記述からすると、通例、心が落ち着く、あるいは、不安が和らぐなどとされる坐禅の生理学的な効果の機序は

「呼吸回数の減少→血中二酸化炭素濃度の上昇→セロトニンの分泌→扁桃体の活動の低下」

というものであると考えられます。



(2)扁桃体の活動の過剰な低下と統合失調症との関係



扁桃体の活動の低下は、うつ病等の発生を防ぎますが、扁桃体の活動が低下すれば低下するほどよいわけではありません。

扁桃体は、自己防衛機能ですから、これを除去した場合、危険の判断ができなくなることが知られており、扁桃体の活動が過剰に低下した場合には、日常生活に支障が生じることが懸念されます。



「左側の扁桃体を除去した結果、リンダは恐怖の回路の核を失うことになった。(略)リンダは危険を示す一般的なサインを広範囲にわたって認識できなかった。たとえば彼女は、うなり声をあげている犬を平気でなでようとした。走っている車の目の前を歩き出そうとした。熱い炭を素手でそのままつまみ上げようとした。リンダの夫の話によれば、手術を受けてから最初の二年間、妻はしじゅう怪我をしていたという。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』154~156頁)



また、扁桃体の活動の低下は、統合失調症にも認められることであり、表題に記載したとおり、統合失調症と同様の症状が生じる可能性があることも懸念されます。



統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連していることも知られています。」

独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター 菅野 巖 センター長ほか「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」)

https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html

「情動における脳機能では,扁桃体が情動記憶の形成と価値判断においてシステムの中心といわれている(略)。扁桃体の機能障害があることが(略)残存している認知症高齢者の情動に何らかの影響を及ぼしていると考える。」

(占部美恵「認知症の看護~脳の残存機能を活かしたBPSDへ対応を目指して~」『京府医大誌』121号)

http://www.f.kpu-m.ac.jp/k/jkpum/pdf/121/121-12/urabe12112.pdf



これらの文献で指摘されている情動反応の低下は、禅の修行者について、人格的に問題があると言われることが少なくないこととも整合します。



「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき、これは並以上に悪い人間じゃないか、と思うことが多かったです。」

司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』65頁)

【参考】
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/04/16/180740
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/13/120953



なお、血中二酸化炭素濃度の上昇に伴う扁桃体の活動の低下は、上座仏教の瞑想でも認められることから、「貪瞋痴の滅尽」とされる上座仏教の「悟り」の状態とは、扁桃体の活動の過剰な低下により、情動反応が極端に低下した状態といえるかと思います。



(3)統合失調症と「悟り体験」

ア 扁桃体の活動の低下と自我意識障害

扁桃体の活動が過剰に低下すると、統合失調症と同様の症状が現われうると考えた場合に、「悟り」体験との関係で興味深い統合失調症の症状として、「自我意識障害」が挙げられます。



「(統合失調症の症状としては)自分と外界の境界が曖昧になるために自我意識障害もみられる。これは、思考が他人に抜き取られる(思考奪取)、または吹き込まれる(思考注入)と観じたり、自分が誰かに操られている(作為体験)と確信したりする状況である。」

(原和明監修 渡邉映子 藤倉孝治編集『はじめて学ぶ人の臨床心理学』221頁)



自我意識障害における「自分と外界の境界が曖昧になる」感覚は、白隠禅等の「悟り」体験における「自他不二」の体感と類似するように思われます。

思考注入や作為体験は、自己という存在が他力的存在であるという仏教の教義と整合するようにも思われます。

とはいえ、このような自我意識障害は、少なくない文献で、通常、不安感を伴うものとされており、白隠禅等の「悟り」体験においては、体験に対する肯定的評価が伴うこととの整合性が問題となるのではないかと考えていました。

この問題について、私は、従前、血中二酸化炭素濃度の低下が多幸感を伴うことから、これにより自我意識障害に伴う不安感が解消されると考えれば、整合性があるのではないかと考えていました。



「死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、空気中の酸素をとり入れて、体内にできた炭酸ガスを放出することです。これが充分にできなくなるということは、一つには酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に留まることを意味します。

酸欠状態では、前述のように脳内にモルヒネ様物質が分泌されるといわれています。柔道に絞め技というのがありますが、あれで落とされた人は、異口同音に気持ちよかったといっています。酸欠状態でモルヒネ様物質が出ている証拠だと思います。

一方炭酸ガスには麻酔作用があり、これも死の苦しみを防いでくれます。」

(中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死のすすめ」』64頁)



今回、岡田尊司統合失調症』を読み、妄想の内容が、誇大妄想であれば、肯定的な評価を伴うことが分かり、この観点であれば、整合的な説明は容易であるように思われました。



イ 統合失調症における誇大妄想の特色と悟り体験との整合性

文献上、統合失調症における誇大妄想の特色としては、次のようなものがあり、「悟り体験」や、俗にいう「聖者」とされる人のイメージと整合するように思われます。

① 肯定的な体験であること
② 慈悲の感情を生み出すこと
③ 妄想知覚=それまでなかった考えが想起され確信されること
④ 無欲
⑤ 清明な感覚=朦朧状態ではない
⑥ 知性の維持



「誇大妄想自体は、その人にとって心地よいものであるため、一旦誇大妄想がはじまると完全にはなくなりにくく、慢性的に続きやすい。」

岡田尊司統合失調症』95~96頁)



肯定的な誇大妄想が、自我障害と並立することは、統合失調症の体験記である小林和彦『ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記』からも窺い知ることができます。



「僕はまるでワーズワースの詩の世界のような幸福感に包まれ、木陰に腰を下ろした。(略)

蚊が腕にとまり、僕の血を吸っていた。僕はそれを払いのけようともせず、蚊をじっと眺め、僕の血を求めているその蚊に対して、何か愛おしさのようなものを感じてしまった。とにかく幸せな気分に満ちていたのである。(略)

何者かが、『この世界は僕のためにある』というシグナルを絶えず送り続けている感じなのだ。『世界は僕のためにある』とは、二~三日前から考えていたことだが、それがこんなにも違和感を与えるものだとは思っていなかった。」

(小林和彦『ボクには世界がこう見えていた』112~113)



この誇大妄想の肯定的感覚の強さは、小林氏の次のような記述からも認められます。



「できれば入院は避けたい。(略)それは毎日薬を飲むことに限る。しかしそれを実行すると僕は想像力を失われ、ロボットのように生きていかねばならないことを意味するような気がしてならない。だから、今は薬は飲みたくない。いかに気分がハイになろうとも、入院せずに済む方法を模索したい。毎日創造的に生きていきたいのだ。」

(小林前掲書209~210頁)



小林氏は、妄想を苦痛ではなく、創造的なものとして肯定的に捉えていることがわかります。

また、誇大妄想が、慈悲の感情を生み出すことも、小林氏の体験からもうかがえます。



「現実的な考え方をしていくべきだ、とは思っているが、僕はどうしても統合失調症患者の切なる願いが世界を動かしている、という妄想的世界観に頭が支配されてしまう。最初に発狂した時の気持ちを忘れたくないからだ。僕は以来ずっと、『世界を救いたい』という誇大妄想的使命感(メシアコンプレックスと言う人もいる)を持ち続けている。」

(小林前掲書350頁)



ここでも、「最初に発狂した時の気持ちを忘れたくない」という言葉の中に、誇大妄想に対する強い肯定感が顕われています。



自他不二の体感が慈悲の感情を生むわかりやすい例としては、岡田尊司先生のクライアントに関するお話が具体的です。



「彼は『声』が聞こえてくるのだと言った。その声は宇宙の星から届くのだという。彼は、その星で自分は生まれ、その星に還らなければならないのだとも言った。(略)
 
自分が泣いているのは、

《すべての人間の悲しみが、彼に押し寄せてくる》

からだというのだ。苦しめないでほしいと、彼は誰にともなく懇願した。自分には、どうすることもできないのに……。

《彼は全人類の苦しみを一人で背負っている》

ようだった。(略)

彼の熱っぽく、一途なまなざしは、歪んだ顔に流れ落ちる涙とともに、高貴で崇高な何かを湛えていた。私は彼の苦悩の純粋さに心を打たれていた。」

岡田尊司統合失調症』25~26頁)



「すべての人間の悲しみが、彼に押し寄せてくる」というところは、思考注入の一種かと思われますが、「一切衆生病めるを以てこのゆえに我れ病む」(維摩経。鎌田茂雄『維摩経講話』124頁)の観があります。



このような慈悲の使命感を表わすような「妄想知覚」は、ほかの例でも認められるようです。



「精神医学には『妄想知覚』というタームがある。これは通常の外界からの刺激に対して、特別の意味づけを行うものであり、患者本人はその内容を強く確信している場合が多い。(略)

また現実にそぐわない考えが突然浮び、それを直観的に確信してしまうことも生じる。たとえば『自分は社会を変革する使命を与えられた特別な人間だと急にわかった』などといったものであるが、これを『妄想着想』と呼んでいる。妄想知覚や妄想着想は、初期の統合失調症でよくみられる症状である。」

岩波明「解説」『ボクには世界がこう見えていた』373頁)



この中で、興味深いものは、「現実にそぐわない考えが突然浮び、それを直観的に確信してしまう」という点です。

臨済禅の禅堂の場の実際を考えると、このように思い浮かんだものを師家に示したときに、それが教義に適うものとして師家が認めれば、更にその妄想が強化されるということになりそうです。

先の岡田尊司先生のクライアントの方に対する記述の中の「高貴で崇高な何かを湛えていた。私は彼の苦悩の純粋さに心を打たれていた。」との記述も興味深いものがあります。

このクライアントの方について、岡田先生は、次のようなことも仰います。



「三ヶ月ばかり入院して、彼はよくなって退院した。ごく普通の若者に戻っていた。どちらかといえば、純粋すぎるくらい純粋で、優しくて、誰にでも親切な若者だった。気になるといえば、あまりにも無私無欲すぎることであった。我欲というものを、ほんとうにわずかしかもたないように思えた。」

岡田尊司統合失調症』26頁)



「無私無欲すぎる」、あるいは、「我欲というものを、ほんとうにわずかしかもたない」という点は、禅等の大乗仏教に近しいものを感じます。

岡田先生は、ほかの統合失調症の患者さんについても次のようなことを仰います。



「二十八歳のときに精神科医となって以来、私は、統合失調症の患者さんの純粋さに、心が洗われるような思いを味わってきた。私は、彼らと向かい合うことに、

《何ともいえない心地よさや安らぎを覚えた。》

健康とされる人のほうが、当時の私には、鈍感で、がさつで、無神経な存在にさえ思えた。世間で偉いといわれている人と接するとき、私は醜い欲望と自己顕示欲しか感じなかった。だが、統合失調症の患者さんと相対するとき、猥雑なものを捨て去った、

《清らかな精神を感じた。》

ぎりぎりのところで、危ういバランスを取りながら、辛うじて命を保っているというのに、何も自分からは求めようとしない、その無抵抗さや儚さに、私は心を打たれたのである。」

(岡田前掲書28頁)



このような記述を見ると、統合失調症の方には、俗なイメージでの聖者的な方も存在するように思われます。

そして、実際に、中世では、統合失調症の方を聖なる存在としてみることもあったようです。



統合失調症は、創造性や予知能力と関係した聖なるインスピレーションをもたらすものとして、社会の中で崇められ、高い地位を占めることも珍しくなかった。

実際、近代的な制度が、精神病の患者を社会から排除して、分厚い壁や鉄格子の中に閉じ込めるようになるまでは、精神病を患っていても、社会の中でほかの住民とともに暮らすことが当たり前であった。彼らは社会に居場所を認められていたのである。キリスト教文化圏に限らず、神聖なものとして大切に扱われることも多かったのだ。(略)

十七世紀の初めまで、精神病者たちはどこにでも自由に行くことができ、むしろ神聖な存在として、大切に扱われる慈しみの対象であった。」

(岡田前掲書54~55頁)



このように考えると、坐禅等の扁桃体の活動を低下させる実践等は、聖者的な人物を人為的に生み出す方法として、ある程度の合目的性があるようにも思われます。

特に、統合失調症の症状のうち、誇大妄想の場合には、クライアントの知性が維持され、妄想内容も論理的整合性のある場合も多いとされることから、宗教上の指導者としての活動も可能であるように思われます。



「妄想型は、妄想や幻覚を主な症状とするタイプで、もっとも遅く発症して、もっとも予後のよいタイプとされる。生活能力や平均的なIQも、ほかのタイプより高く、認知機能の障害も小さいことが多い。」

岡田尊司統合失調症』47頁)



また、アンドリュ-・ニューバーグらは、「明瞭な感覚」が悟り体験にあるところ、統合失調症の妄想では、そのような「明瞭な感覚」はないのではないかと考える人もいるかも知れません。

しかし、誇大妄想における妄想は、明瞭なものでもあり得ます。この点は、先に引用した小林和彦氏の闘病記からもわかるところです。



「市立釧路総合病院の森田先生から、会社に提出する診断書が送られてきた。以下はその全文。

『傷病名 幻覚妄想状態。(略)』

僕はこれを読んでショックを受けた。分裂病か躁病、あるいは従来症例のない新しい病気ではないかと思っていたからである。それが幻覚妄想状態という病名の病気であることを初めて知らされた。(略)

手紙を受け取った当初は、あれだけ頭脳明晰で、直観力鋭敏で、洞察力深遠だった精神状態が『幻覚妄想』の一言で片付けられるとは……。」

(小林和彦『ボクには世界がこう見えていた』195~196頁)



三者的にはわかりませんが、小林氏自身の中では、「頭脳明晰で、直観力鋭敏で、洞察力深遠だった精神状態」であったものとされています。



以上の考察からすると、悟り体験は、坐禅に伴う扁桃体の活動の低下から整合的に説明ができるようにも思います。



3 悟り体験における前頭葉活性化仮説との整合性



悟り体験の要因については、前頭葉が活性化することなどを挙げる考え方もあります。



チベット仏教の修業僧が深い瞑想に入った時の脳の働きを調べた報告で、額の奥の脳である前頭野が活動し、いっぽう頭のてっぺんの部分である脳の頭頂野が沈黙しているということであった。(略)

坐禅で強力な瞑想へのトリガーがかかると前頭葉が活動するが、それに反比例して頭頂野の活動が抑えられてゆく。(略)

その結果、自己と外界との境界の消失ないしは融合、さらには自己と宇宙との一体感をもたらす。これによって大日如来との一体化や、キリストとの合体感も起きるようである。

また深い瞑想の境地では脳内の神経物質であるセロトニンドーパミンが分泌される。

菩提樹の下での最後の悟りに入られた釈尊は「虚空を太陽が照らすがごとき」境地であったと述べられている。このような劇的な境涯は神経伝達物質ドーパミンが放出された結果と思われる。

脳内で起こる特殊な状態は、伝教大師弘法大師法然上人や親鸞聖人、そして道元禅師などの宗教家、また荒野をさまよい悪魔と戦いながら修業をしたキリストも体験されたものと思われる。

深い瞑想状態によってもたらされる宗教家の脳内変化は、洋の東西を問わずほぼ等しかったと考えられる。」

(本庄巌「お釈迦様の脳」『仏教クラブ』)
http://www.bukkyoclub.com/colum/buddha



耳鼻科が専門の本庄先生は、「前頭葉の活動の活性化→頭頂葉の活動の低下」という機序を考えられているようですが、アンドリュー・ニューバーグ他『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか? 脳科学で「悟り」を解明する!』によると、前頭葉頭頂葉の活動が共に活性化した後、急激にその活動が低下するという機序を辿るものとされます。



「人が悟りを求めて特別な修行をする場合、西洋でも東洋でも、宗教上の修行で当ってもそうでなくても、黙想的な省察に集中したり瞑想を始めると、まずは前頭葉の活動が活溌になる。増加が大きいほど、明瞭さを増し、自分の行動や振る舞いを意識的に行え、コントロールしやすく感じるようになる。

われわれの脳のスキャンの研究では。最初に頭頂葉の活動も活溌になっていた。瞑想の対象や世界との関わりを感じる自意識が増加するので、自分のゴールを定めてそれに向かいやすくなる。

こうして前頭葉頭頂葉の活動が増加することで感情を感じる激しさも減らすことができる。そのため私たちはより落ち着き、ぐらつかず、自分をコントロールしやすくなる。そうしたことで悟りに導かれるわけではないが、突然に前頭葉頭頂葉の活動が大幅に減少すれば、私たちは制御不能(明け渡し)を感じ、自意識は弱まるか、またはなくなり、感情的にも劇的に高揚するため、その体験が尋常でないほどリアルに感じる。」

(アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマン(エリコ・ロウ訳)『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか? 脳科学で「悟り」を解明する!』101~102頁)



以上の文献に出てくる前頭葉の活動の活性化に始まる「悟り」体験に至る一連の機序と、2項で述べた扁桃体の活動の過剰な低下に伴う自我意識障害等の発生=「悟り」体験に至る一連の機序とは整合性についてですが、次に挙げる文献のとおり、前頭葉の活性化が扁桃体の活動の低下をもたらすとされることからすると、整合的に説明できるように思われます。



前頭前野の特定の部分が活性化すると、扁桃体の反応を抑制できる」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』152頁)

「マインドフルネスによる前頭前皮質の賦活は,(略)感情の増幅を行う扁桃体への抑制を生じさせ,興奮状態となる感情を抑制する」

(織田 靖史,京極 真,平尾 一樹,宮崎 洋一「近赤外分光法を用いた前頭前野の酸化ヘモグロビン量の比較によるマインドフルネス作業療法の効果─マインドフルネス作業療法とマインドフルネス・スキルトレーニング,精神科作業療法の比較─」(日本臨床作業療法研究No.3)26頁)

https://kenkyuukai.m3.com/journal/FilePreview_Journal.asp?path=sys%5Cjournal%5C20161011065157%2D2C9400914A1F1C9DB6DCCC836FEDA10757527F004CAC8EAA120244C8E634E76C%2Epdf&sid=848&id=2253&sub_id=39719&cid=471



前頭前野前頭前皮質は、同義であり、前頭葉の一部になります。

坐禅等の瞑想によって、前頭葉が活性化すると、扁桃体の活動が低下しますから、統合失調症様の症状が出てくることと整合性を保つことができます。



4 白隠禅の禅修行と扁桃体の活動の過剰な低下との整合性



「悟り」体験に匹敵する統合失調様の自我意識障害及び誇大妄想が生じるほど扁桃体の活動が低下することは、稀な事態であると思われますが、白隠禅の禅修行は、このような事態を相対的に生じさせやすくするものといえるかと思われます。

たとえば、このような効果をもたらす「修行」の内容のメニューとして、次のようなものが考えられます。

① 長時間の坐禅

② 睡眠時間の減少

③ 公案参究

④ 受動性の強調

(1)長時間の坐禅

白隠禅においては、夜坐を含め長時間の坐禅が強調されますが、坐禅扁桃体の活動を低下させる効果があると考えられることからすると、長時間の坐禅扁桃体の活動を極端に低下させる上で有効であることは明らかであるように思われます。

(2)睡眠時間の減少

前項の夜坐に挙げたとおり、白隠禅の禅修行においては、睡眠不足の事態が生じやすいものと考えられますが、睡眠不足が統合失調症の症状を活発化させることからすると、これも、白隠禅的な悟り体験を得やすくする要素であると思われます。



統合失調症患者における陽性症状は主に急性期にみられ,陽性症状が活発で不眠が続く患者にとって薬物療法は効果を得やすく,睡眠導入剤による睡眠時間の確保によって症状安定を図れると考えられる」

(武内玲、川田美和、柴田真志「統合失調症入院患者の身体活動と睡眠指標の関連」『日本看護科学会誌』39号69頁)



(3)公案参究

白隠禅においては、禅の語録から抽出された日常的な感覚では意味不明の文章を「公案」と称して検討させる修行がなされますが、これも統合失調様の症状を生じさせる上では有効と思われます。


 
「近年、統合失調症の機能低下は、前頭前野の過剰な活動亢進によってもたらされていると考えられるようになっている。つまり、頭が働きすすぎることが、機能低下を引き起こしてしまうのだ。考えすぎて、結局何も考えられないというのが、統合失調症の思考回路が陥った状態なのでる。」

岡田尊司統合失調症』180~181頁)



意味不明の文章を苦しみながら考えさせることが、前頭前野の過剰な活動亢進をもたらすことによって、統合失調症様の症状を生じさせ易くなることが考えられます。

(4)受動性

禅や仏教の世界では、「受動性」が強調されます。

次に挙げるような鈴木大拙先生の著書に出てくる考え方は、その典型かと思います。



「他力、受ける、向こうから授けるのを受ける、すなわち受動性というものが宗教にはあるのです。(略)『本性清浄』ということにもなります。この清浄とは、ただ綺麗であるとか、大空の雲のない姿で、からりとして何もないという、ただそれだけを意味するのではなくて、そういう姿でないと、そこへはものが這入ってこないのです。これは受動性をたとえたのであります。受動性は、つまり絶対的包摂性と云ってもよいものです。」

鈴木大拙『無心ということ』9頁)



そして、「受動性」は、統合失調症病前性格として重要視されています。



「近年行われたある研究によると、統合失調症病前性格の最大の特徴は、受動性だという。自分から主張したり、かかわりをもったり、不満を訴えたりすることが少なく相手から望まれれば応じるという受け身的な行動様式は、統合失調症に特徴的な『させられ体験』や悪口や命令が聞こえる幻聴などの症状にみられる受動性に通じている。『大人しくて手のかからない子』『自分からはあまり言わない、優しい子』というのが、子ども時代の典型的な印象であることが多い。」

岡田尊司統合失調症』86頁)



禅の修行の場では、単に理念的なものとして「受動性」が説かれるだけではなく禅堂における生活の中で、「忍辱」という観点が重視されたり、指導者である師家等の命令に従うことが強調されますが、「相手から望まれれば応じるという受け身的な行動様式」を繰り返すことが、統合失調症病前性格と同様のものを作り上げ、統合失調症様の精神症状を出やすくさせるように思われます。



5 白隠禅的な悟り体験を求めることの問題性



以上のことからすれば、白隠禅の「修行」に基づいて、「自他不二」の体認などと呼ばれる「悟り」の体験ができる可能性は非現実的なものともいえないようにも思われます。

しかし、扁桃体の活動の過剰な低下によって、統合失調症における自我意識障害と誇大妄想が起こり、これが悟り体験として体認される可能性があるとしても、統合失調症の症状は多様であり、都合よく、悟り体験に相当する症状が現われるとは限らない点は問題となるかと思います。

坐禅の実践を中心とした禅の修行では、「魔境」と呼ばれる幻覚の生じる場合のあることが知られています。



「(専門僧堂での修行の)過程のなかで、色んな幻想が湧き起ってくるわけで、これは古来『魔境』とか『現境』とかいって白隠禅では特に喧しく注意されているところですが、少なくとも、いい気分になる場合であれ、あるいは鐘の音が全身に突きささってくるような苦しい幻覚であれ、凡そ日常生活では味わうことのできぬ体験が臨済の修行にはあるというのは事実です。」

(西村恵信「済家の風」『禅研究所紀要第18・19号』78頁)



統合失調症が種々の幻覚や妄想をもたらすことからすると、このような魔境の発生は、扁桃体の活動の過度な低下の観点から、白隠禅的な悟り体験を捉えることの合理性を裏づけるものといえます。

そして、禅の修行で体験されるものとされる特異な体験の多くは、魔境のような異常心理にすぎないものといわれます。



「今日あちこちの禅会でいわれる見性など、大半は異常心理で、断じて見性などとはいえない。」

(秋月龍珉『公案』72頁)



古来、白隠的な意味での悟り、すなわち、「見性」が認められる例が少ないとされるのも頷けるところです。



「むかしから禅では、その修行の純粋さをたもつために、真実に修行するものはそう多くあるものではないから、一人でも半人でも真実の修行をするものを目当てにして、決して多くの弟子を得ようとするなと、きびしく戒めております。」

(朝比奈宗源『佛心』1頁)

臨済禅のほう、特に私のほうなんかでは、見性者というようなことはなかなか言わないことであり、口にすることさえ慎しむというくらいの気持を持っているのに、東京のほうの老師方はじきに見性々々ということを単純にいわれる。私どもどうもその点がわからぬ。見性というようなことは大体いうたら大悟に等しいものでなければならんので、その単純に三日でちょっと見性したとか、あれは見性したとか、私は見性しましたとかいうようなことは、少しくらい禅の匂いやら方向がわかったようなことでは、そういうことをいわない、むしろ隠しておくということがわれわれの世界です。それをだれでもかれでもみな見性者というということは、何だかこのごろの百円札を見るような気がしまして、いかにもインフレがきつ過ぎるような気がします。そんなことでは真剣な修行の態度だとか法を尊ぶ態度というものが出てこない。ある禅の雑誌に、今度の接心にはだれとだれが見性したから小豆飯を炊いて祝ったとある。私どもは見性者なんということをみずからいうということは、祖師に等しい境地になりましたということを宣言するような気がしておりますから諒解できません。」

(柴山全慶発言。大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』292~293頁)



私がかつて所属していた禅の団体には、「見性」した「とされる」人が多数いました(私を含めて!)。

もっとも、ほかの会員と話をした限りでも、魔境に入った人も稀でしたので、当然ながら、その実態は疑問であると思われます。

柴山老師の発言は、このような団体を指して言ったものであったのかも知れないなとも思います。

魔境の問題点は、単に異常な体験をするだけではなく、それが精神疾患をももたらし得るところにもあります。



「魔境は,心理学的にいうと坐禅の修行中に遭遇する一種の幻覚体験であるといえよう。幻覚は,精神病の典型的な徴候の一つであるために正に病理的な現象である。(略)人格発達の面で自我形成が未分化な場合,防衛機制によって処理できない内容に唐突に遭遇することで,不安や恐怖で一時的に錯乱したり,一種のノイローゼ症状を呈する場合もある。これは専門の禅の修行者にも見られることが知られている。(略)

魔境の問題だけでなく坐禅の不適切な修行法のために,古来禅病に罹患する禅僧が少なからずいたことはよく知られている。」

(斎藤稔正「変性意識状態と禅的体験の心理過程」『立命館人間科学研究 第5号』52頁)



魔境の危険性は、マインドフルネスの専門家の方からも、指摘されています。



「(マインドフルネス訓練にあたり)自分を信じすぎるのは困りものです。瞑想中に光が見えたとか、神様が現われたといったような特殊な体験から自分は偉い人になったように誤解してしまうのは一番危険なことです。特殊な体験は魔境と言っています。このような状態は重要視しないほうが良いでしょう。

≪とりわけ人格変容状態には気をつける≫

必要があります。

≪精神医学で診る人格変容状態は殆どが病的なもの≫

です。それにおぼれたり、こだわったりすることは強く避けるべきです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号80頁)

「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして

≪権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性≫

をはらんでいます。」

(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)88頁)



白隠禅の「修行」は、慈悲の行為を行うような人格の形成を目指す「人格変容状態」を目指すものであり、それ自体が危険な側面もあります。

また、「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」があるとの指摘も無視できません。

実際、禅の修行のプロセスは、洗脳を成功させる条件にも合致し得るものです。

【参考】
摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(1) - 坐禅普及



成功が保証されておらず、却って精神を病む可能性があるような「修行」をする必要がある否かは、よく検討する必要があるように思われます。



6 まとめ



言うまでもなく、「悟り」体験に関する科学的な研究は非常に限られていますし、また、統合失調症の機序についても、未解明な点が多いとされます。もちろん、書いている私自身が、一読書人にすぎません。

とはいえ、白隠禅的な「悟り」体験については、扁桃体の活動の過剰な低下により、統合失調症と同様の自我障害及び誇大妄想が生じるのだと考えると、関連する現象について整合的に説明ができるように思われます。

白隠禅において「悟り」を体験できるまでの修行を完了できる方が少ない理由も、脳が異常な状態になることから、肉体の正常な機能として、ブレーキをきちんと掛けてくれていると理解することが適当であるのかなと思います。

また、体験的に坐禅をしても、再びやる人がすくない理由についても、扁桃体が平均よりも活発に活動しておりうつ傾向があるなどの場合を除いては、日常生活を送るに当たっては、扁桃体がきちんと機能している必要があるので、坐禅に対して自然な拒否反応が倦まれるためではないかという気もします。

仏教の教義は「応病与薬の方便」と言われますが、坐禅も病んでなければいらないものといえるのではないかなと思っています。

今後も、自分なりに勉強をしていき、内容をより充実させたいと思います。



(注1)近現代曹洞禅における悟り体験批判

曹洞宗では伝統的に悟り体験を否定してきたわけではないとされます。

「悟り体験批判に対しては、曹洞宗内部からの逆批判も提起されている。すでに戦前から原田祖岳(略)、渡辺玄宗のような僧堂師家から逆批判めいた声が上げられていたのであるが、本格的な逆批判が提起されるようになったのは、戦後、悟り体験批判の急先鋒であった駒澤大学宗学者たちが引退し始めてからである。沢木興道、岡田宜法に対しては、前述の佐橋法龍が問題視している(略)。衛藤即応、榑林哠堂、酒井得元らに対しては、柏田大禅、板橋興宗らが反論している(略)。近年においても、角田泰隆が次のように述べている。

道元禅師の修証観において、無所得無所悟の強調が、いかにも証悟の否定であるかのように理解されてきた面もあるが、けっしてそうではないことは明白である。(略)

駒澤大学における道元研究の第一人者、角田がこのように発言したことの意味は重い。あるいは、曹洞宗においても、いずれ、悟り体験批判は鎮静化していくかもしれない。少なくとも、道元の名を借りての悟り体験批判は、もはや、通用しなくなる可能性が高い。

曹洞宗における悟り体験批判は、近現代から始まったものにすぎず、もともと歴史的に道元に結びつけることが難しい。」

(大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』268~269頁)





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