坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

「哲学的な問題」について考えていたことと「禅思想」

私が「禅思想」に興味を持ち、色々な本を読み囓っている理由には、私が、十代から二十代に入る頃までに考えていたことに沿う面が多いこともあります。

やはり、自分を支持してくれるものは好ましいという自己愛から逃れることは難しいのでしょう。

書いているうちに、私の思想遍歴の告白というかなり私的なものになってしまいましたが、同じようなことを考えている人、あるいは、考えていた人がいれば、お互い勇気づけられることになるかも知れないので、公開することとしました。



1 誰しも十代くらいの頃、「哲学的な問題」を考えることがあると思います。

私も同じでした。

おそらく本職の哲学者の方から見れば、稚拙なもので、哲学未満のものでしょう。

だから、哲学そのものではなく、「哲学的な問題」。

今でも考えることがありますが、趣味的、あるいは、実用的なもので、十代の頃のような必死さはありません。

その頃には、その問題について解決できなければ、人生の価値がない、人生を生きていくことができないのではないかと思う必死さがありました。

私の場合は、その期間が少し長くて、20歳になるかどうかというところまで続きました。



2 私が当時気にしていた「哲学的な問題」は、「どうしたら正しいことはわかるのか」ということでした。

正しい判断をしたいという単純な理由のほかに、当時、カルト宗教の問題がマスコミでよく取り上げられており、私の身近にも、勧誘活動を行う団体があり、理論武装の必要性を感じたことがありました。

カルト宗教団体の一つであるNの施設が通学先の高校の近くにあり、最寄り駅の公衆電話のコーナー(その頃携帯電話はありませんでした)には、Nの会員が群れをなして、おそらく勧誘の電話をかけ続けるという異様な光景があったほか、複数の同級生がその会員となり、勧誘活動を行うことが身近な問題となっていました。

Nのよくやる手口の一つは、中学校の同窓生に対し、「同窓会をやろう」などといって誘い込み、勧誘活動を行うものでした。

高校を卒業をした後も、同様の手口の勧誘が続けられたため、誰かからの「同窓会をやろう」という声かけは、その団体の勧誘である可能性があることから、おそらく、Nとは関係のない人も、Nだと思われるおそれがあるという警戒心があるからだとも思いますが、結局、私の期の高校の同窓会は行われないままです。

そこで、このようなカルト宗教団体に対する理論武装の必要を感じたこともあって、「どうしたら正しいことはわかるのか」という課題に取り組むようになりました。



3 最初の頃は、単純で、科学はきっと正しい、それに対して、カルト宗教団体の考え方はきっと非科学的なもので、どのような根拠で科学的な判断が成り立つかが分かれば、「どうしたら正しいことはわかるのか」がわかると考えました。

丁度その頃、池田清彦先生の『構造主義科学論の冒険』を偶然書店で目にして、科学哲学なるものがあることを知りました。

この本の中で、帰納法というそれまでの私の常識の中では正しいと思っていた科学的な方法論が厳密には正当化できないということを知り、ベタな表現ですが、目から鱗の落ちる思いをしました。

それと同時に、自分がそれまで正しいことに間違いないだろうと思っていた科学の方法論の基礎づけに困難があることを知りました。



4 私が自分の哲学的な問題に解答が得られるのではないかと期待したもう一つのルートは、自分の意識から出発するやり方でした。

外界の存在は夢からも知れないけれど、その外界に対する自分の意識は確実だから、そこから出発すれば、確実に正しいものがわかる、というデカルトの発想はもっともであるように思えました。

そこからフッサール現象学の入門書を読み囓ったりしました。
 


5 色々な本を読んだものの、正直、 字面を追うだけで、十分理解することまではできないことがほとんどでしたが、一つはっきりしたことは、人間の認識能力には限界があり、そもそも何が正しいのかは窮極的にはわからないという、考えてみれば、当然のことでした。

意識は、何らかの「機構」を通して、何かを正しいと判断する。

問題は、その「機構」が正しく働いているかを判断する方法です。

しかし、意識は、意識から離れて、その機構を観察したりすることはできません。

したがって、「機構」が正しく働いているかどうかはわからないし、どうやったら正しいことを知ることができるのかもわからないということになります。

どうもこのような結論になるしかないのではないかと思われました。
 
その頃は、ピークは過ぎたとはいえ、「構造主義」や「ポスト構造主義」が思想の世界で力を持っていましたが、そこでは「相対主義」が強調されていました。

人間の価値観が相対的ということは、当時の常識的な感覚で理解できました。

では、事実はどうでしょうか?

事実は1個しかないように思われます。科学は事実を踏まえたものだから、正しい理論も1個のはずだと思われます。

しかし、その1個の理論の正しさの保証はどこにあるのでしょうか。

そもそも、事実は、本当に1個なのしょうか。

判断の機構の正しさはわかりません。

だから、複数の人間の事実に関する判断が異なるときには、そのどれが優先するのかは判断できないのではないでしょうか。

そうすると、窮極的なところでは、事実関係も相対的であるとしか言いようがないのではないでしょうか。

私の目の前に展開する世界。

これは私には圧倒的な現実感を持って迫ってきて、疑う余地もなく確かにあるとしか言いようがないにもかかわらず、私には、それがなぜ確かに存在すると言えるのかについて何ら合理的な根拠がありません。

私を含めた誰も、「事実」についてすら、何が正しいのかの判断ができないし、しがたがって、あらゆる判断について、ほかの人を服従させるだけの特別な権威を持ち得ない。



6 そのことは、当初、おそろしいことのように思えました。
 
元々批判しようと思っていたNなどのカルト宗教団体を批判することのできる特別な権威を私は持たない。

どんな非常識な教義に対する信仰も窮極的には批判できない。

なぜなら、私自身が、この目の前に展開する世界を現実にあると判断しているのだけれども、その判断には何ら正当な根拠が見出せないからです。
 


7 しかし、ほどなく私は、その帰結を受け入れました。

受け入れるよりほかないと思われましたし、考えてみれば、裏返しの意味ではあるけれども、私は、とても自由な状態にあるということに気づいたからです。

何が正しいことかはわからない。

誰も正しさについて窮極的な権威を持ちません。

そのことは、私に対する誰のどんな要求も正当性を持ち得ないことを意味します。

私は、あらゆる要求に対し、それが一見正しいように見えても、それを要求した当人の認識自体誤りである可能性があるのだから、最後は私の意志だけで決めればよいことが反射的に許容されます。
 
ですから、後に、鈴木大拙先生の次の言葉を目にした時、強く勇気づけられました。



「われわれは知性に生きるのではなく、意志に生きる……。『われわれは、理解の行為と意志の行為とを歴然と区別すべきである。前者は比較的価値の低いものだが、後者は一切である』というブラザー・ローレンスの言葉(「神のみ前の行い」)は真理である。」

鈴木大拙『禅』68頁)



8 このような考えに立つと、ほかの人との間に考え方の相違が生じたときの対応は、二つ考えられました。

一つは、交渉であり、この観点からハーバーマスのコミュニケーション行為の理論に興味をもって入門書を読んでみたりもしました。

もっとも、現在、頭に残っている内容はほとんどありません。

しかし、交渉が上手くいかなかったらどうするか。

また、直観的には、相手の言うことが間違っていると思うのだが、相手に言い負かされてしまったときにはどうするか、というような場合の対処が問題となります。

実際、頭の良し悪しは、脳の生物学的な要素も大きいし、中には私利私欲のために優れた脳の機能を使う利己主義者もいるでしょう。

したがって、理性的な交渉で相手に言い負かされた場合でも、それに従う必要はないといえます。

考え方の異なる他者との対立は、窮極的には、何らかの物理的な闘争によって決着をつけるしかありません。

次の釈宗活老師の言葉にも共感できました。



「大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ」

(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)



9 特別な権威の存在は否定される以上、究極的に正当化される秩序は観念できません。

とはいえ、殺人の禁止の正当化ができないことと同様に「殺人の禁止」の禁止の正当化も許されない。

窮極的に正当化される秩序は存在しないが、秩序の存在は反射的に許されるといえる。

人はどんな在り方をしてもよい。

それは、あらゆる政治的、思想的、宗教的立場を肯定する。

耳障りのよい表現で言えば、あらゆる人を応援すると言ってもよいかと思います。

私が、いわゆる「本覚思想」に共感できるのもこのような観点があるからです。



「禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を生死の羇絆から解こうとするのである。しかも、これをするために、それ自身に特有な、ある直覚的な理解方法によるのである。それゆえに、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも、応用自在の弾力性を持っていて、極めて抑揚に富んだものである。禅は無政府主義アナーキズム)やファシズムにも、共産主義や民主主義にも、無神論(アイシーズム)や唯心論(アイデアリズム)にも、またいかなる政治的、経済的な教説(ドグマ)にも結びついている」

鈴木大拙『禅と日本文化」からの引用。ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)105~106頁)



そして、あしざまにいえば、いわゆる「皇道仏教」的な在り方も肯定するということになるのです。
 


「禅とは、武士と永遠の命、正義、神の道、道徳的観念を、必ずしも論じたわけではない。ただ人が一つの結論に達したとき、合理的であろうが非合理的であろうが、直進すべしと励ますのみ。哲学は知識人に安心してまかせればよい。禅は行動をとるのみ。決心した以上、もっとも能率的な行動は、ふりむかず前進するのみ。この意味では、禅こそがまさに武士にふさわしい宗教である。」

鈴木大拙『禅と日本文化』からの引用。ブライアン・アンドリュー・ヴィクトリア『禅と戦争』114頁)
 





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