坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

肯定も否定もできない

 先日、心理学の講演会を聴いたときに、講師の先生が「脳は否定語を理解できない」というお話をなさいました。
 たとえば、「今、ここに、『手の平サイズのピンクの象』が……“いません”」と言った途端に、脳は『手の平サイズのピンクの象』を創造してしまうというお話でした。
 先生によれば、だからこそ、「言葉は肯定的に言うようにしなければなりません。マザーテレサは、『反戦運動などには参加しません。ですが、平和活動には喜んで参加します。』と言っていました。」とのことで、なるほど、と思いました。
 
 仏教のプラクティカルな目的は「執着しないこと」と言われます(注1)が、「執着しない」と言った途端に、そのことが気になってしまい、それに執着してしまうということは、誰しもあるでしょう。
 
 とはいえ、肯定的にいえばよいかというとそうでもありません。
 仏教の考え方では、肯定的な言い方では説明できないので、敢えて否定語で説明をするということがよくあります。 
 
 “(結跏趺坐)は、二つではない、一つでもないという「二元」性の「一者」性を表わしています。これはもっとも大事な教えです。二つではない、一つでもない、ということです。もし私たちの心と身体が二つである、と考えると、それは間違いです。私たちの心と身体は、二つでありながら一つ、なのです。(略)実際の人生の経験に照らしてみましょう。私たちの人生は、複数であるばかりでなく、単一です。私たちは、互いに支えあう、と同時に自立しています。”
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』38頁)

 “ブッダは、涅槃の意味するところを伝える方法は、否定的表現に徹することだと考えた。”
(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』145頁)
 
 肯定することもできない、否定することもできない。
 仏教の理屈の話としては、分別心を離れるのだから、肯定も否定も許されない、故に、不立文字なのだと、よく言われますが、こんな説明のしようなら、理解がしやすいようにも思います。

(注1)宮崎哲弥ほか『仏教教理問答』130頁・勝本華蓮発言。「学問として仏教をやっていると、いろいろ難しい教義が出てきますけど、究極的に仏教は何を説いているんだといったら「執着をとれ」ですよね。もうそれに尽きる。」
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