(坐)禅の効果の測定方法
(坐)禅の効果については語ろうとしない人が多い。
不遜はよくないであろし、また、どうも語ることができるような効果は本当の効果ではないと思っている人も多いようだ。
効果に本当も嘘もないと思うし、仮に、プラシーボ効果であるとしても、効果は効果であろうと思う。
短者は短法身で、仮に、プラシーボ効果であっても、それを楽しむべきだと思う
命はいつつきるかわからない。
明日死ぬかもしれない。
今日死ぬかもしれない。
次の瞬間には死んでいるかもしれない。
楽しめるときに楽しまなくてはもったいない。
”今の世の中は生存競争が激しい。(略)奮闘するも宜い、努力するも結構である。然し眼は天を望んでも足は地を離れることが出来ぬ如く、限りある人間の力を以て限りなき欲望を満足せしむることは出来ぬから、人々は自分の到達した境界に於いて其の時其の時の楽(たのしみ)を味わわねばならぬ。山の麓に居るときは先ず山麓の風光を十分に味い山の中腹まで登ったものは中腹の眺望を楽しむというように、其の境界其の境界に応じて楽しむということは、処世の上にも必要な心懸けである。”
(日置黙仙『現代生活と禅』243頁)
”自分の人生が短いと知ること、一日一日、一瞬一瞬を楽しむこと、これが「色は色であり、空は空である。」という人生です。”
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』78頁)
また、苦しみばかりでは、衆生済度に力を向けられない。
坐禅は楽しいからこそ、なんらかの救いとなり、広める価値があるのだと思う。
とはいえ、心の中のことはわからない。
だから、その判定のため、「伝法の師家」というような人がいるのだろう。
どはいえ、そう考えても、「見性」やら「転迷開悟」などといった精神現象のお墨付きがほしいのでなければ関係ないとは思うのだけれど。
ところで、(坐)禅の成果が精神現象にとどまるのであれば、その効果は、特に、外部的、客観的には判然としないということになるだろう。
しかし、(坐)禅の目的が「衆生済度」ということになればどうだろうか。
「どれくらいの数の人をどれくらい幸せにすることができたのか」ということであれば、かなり外部的、客観的に(坐)禅修行の成果の測定ができるように思う。
このような基準であれば、ある団体の禅や仏道修行の方法論の正しさや有用性の判定も容易だろう。
どの程度社会に有用な人物を排出したのか、実際に、その実践をしている人が、どの程度社会に福利をもたらしたのかの判断は、実践をしている人間の主観的世界がどうなっているのかを判断するよりも用意である。
そして、そのような人物を輩出することができないような場合には、その方法論がどこかおかしいのではないかと反省する必要があるのだと思う。
”基本的なこととして、成果すなわち仕事からのアウトプットを中心に考えなければならない。技能や知識など仕事へのインプットからスタートしてはならない。それらは道具にすぎない。いかなる道具を、いつ何のために使うかは、アウトプットによって規定される。作業の組み立て、管理手段の設計、道具の仕様など必要な作業を決めるのは成果である。”
(P.F.ドラッカー(上村惇夫訳)『【エッセンシャル版】マネジメント 基礎と原則』68頁)