坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

安心は主観的世界に耽溺することではなく、客観的世界に生きることにある

仏教の目的は、安心立命にあると言われる。

安心とは、「心の安まる」ことだから、自分の主観的世界に変化をもたらすことが重視されるようなところがある。

 

坐禅等の瞑想を深める中で、外界からの影響に揺るがない精神を作り出す。

そこでは、外界から自己の精神を遮断し、精神を深めることが正解であるように思える。

仏教は元々出家主義であり、現在でも、出家の方がありがたいように思える。

出家して俗世間から隔離された世界の中で、自己を深めていく。



しかし、そうだとすると、私たちの人生は、坐禅や瞑想をして坐死するために存在するのだろうか。



冷静になって考えてみると、私たちが、向上心をもって豊かに愛し合いながら生きていくのにあたって、延々と坐禅や瞑想などをする必要があるのだろうか。

そもそも、そんなことでは、肝心の人生を味わうことができないではないか。
 


最近、エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』を読了したが、参考になる記述が多かった。

著者は、オックスフォード大学教授で、心理学、神経科学を専門としている。



今回のテーマに沿う話題としては



「不幸の芽を摘むことばかりに気をとられてはいけない。それよりもたいせつなのは、幸福を増すような要素を積極的に見つけること」

「重要な発見が、科学的研究からもたらされている。それは、人がほんとうの意味で幸福になれるのは次に述べる三つの要素があわさったときだけだということだ。

一つ目は、ポジティブな感情や笑いを数多く経験すること。

二つ目は、生きるのに積極的にとりくむこと。

三つ目は、今日明日ではなくもっと長期的な視野で人生に意義を見出すこと。」

「基本レベルの豊かさ(住む家があり、十分食べ物があること)がひとたび得られれば、それ以上どれだけカネがあっても人が感じる幸福度にほとんど差は生じない。」

「それよりも人を幸福にするのは、自分にとって大きな意味のある何かに積極的にとりくむことだ。」



という記述。

日常的な直観が科学的に裏づけられたということにすぎないのだけれど、見落とされがちな視点だと思う。

翻って考えると、仏伝によれば、釈尊は、王子として満たされた生活を送りながら、人間は、いずれ老い、病み、死ぬという事実に悩み、修行を始めたとされる。

彼が問題と感じたことは、老い、病み、死ぬことそれ自体ではなく、結局、いずれにしても死ぬのであるから、どんなに現在豊かであるのだとしても、「人生はむなしい」という虚無感だろう。

衣食が足りた上で生じるむなしさの問題。
 


「余剰の富がなる場所でなければ仏教は絶対に生きていけないんですね。」

佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』80頁、佐々木発言)



仏教は、都市部で広まっていったというけれど、「衣食が足りた上でのむなしさ」の問題を扱うからだろう。

その意味で、仏教は、先進国生活者の問題を扱うものであるといってよいと思う。


 
このことは、仏教における「苦」の次のような捉え方からもうなずけるように思う。



「仏教における『苦』の意味とは『不満足』であり、より根源的に言えば『不満足に終わりがないこと』である」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』52頁)

「四聖諦の最初の苦諦はしばしば『この世のっさいは苦しみである』というふうに理解されていますが、わたしはむしろ『この世では最終的に物足りるということはあり得ない』と解した方が真理に近いのではないかと思っています。」

(藤田一照『現代坐禅講義』49頁)



しかし、坐禅等の瞑想によって、このような「むなしさ」を解消することは、かなり困難だと思う。

そのことは、テーラワーダの実践を相当進めていると思われる魚川祐司先生の発言からも明らかだと思う。



ミャンマーでは瞑想の実践を中心として多くのことを学ぶことができ、おかげさまで、私自身の実存的な関心として生死の問題に悩むことは、もうありません。

ただ、自分にとっての生死の問題(己の中の有限と無限の問題)に、いちおうのけりがついたとしても、その上でこの

《有限の生をどのように生きるべきか》

という問題は残ります。」

(藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』4~5頁)



「瞑想の実践」で「多くを学」んでも、人生のむなしさの問題が解決していないというのは、おそろしい……。



……でも、あまり難しく考えなくてもよいような気がする。 



瞑想でできることは、「不幸の芽を摘む」ことだけだ。

人生の充実感を味わうためには、更なる工夫が必要なのである。 

そして、人生の充実感を味わえば、「不幸の芽を摘む」ことには、神経質になる必要はないのだ。



人生に意義を見い出して、そのむなしさを解消する方法について、仏教は、少なくとも、大乗仏教はきちんと答えを出しているように思う。



衆生済度」



すなわち、ほかの人を幸せにすること。



坐禅会や瞑想会に参加するようになってから、そのような会を離れた実社会生活で、人間関係がうまくいっていないのではないか、という人が相当数いることを知った。

思えば、私たちの悩みというのは、職場や家庭などの人間関係から生じる。


 
出家は、労働を否定し、生殖を否定するけれども、それは、職場や家庭から離れることを意味する。

それは、職場や家庭の人間関係で傷ついて、あるいは、傷つきやすい人が、その心の問題を解消するため、心を傷つける要素からいったん隔離することを意味するのだと思う。

出家は孤独になることではない。

サンガの中で、同じ目標に向かって頑張る仲間と共同生活を送る。

人間は群生動物であり、他者の存在が必要。 

他者との関係性の中で傷ついた心を回復させるためにも、やはり、他者が必要なのだ。

そのために、傷つける可能性の低い同じ目標をもつ仲間とともに共同生活を送るというが、サンガの本質なのだと思う。

そして、その傷が癒えると社会の中に戻っていくべきものなのだ。



私たちの悩みが人間関係から生じるのなら、その関係性に直接アプローチする方がよいだろう。

その手段が「利他行為」と言えるのだと思う。

純粋無雑に多くの人の幸福を実現するように日々具体的な行為をする。

そのような人生は、それ自体意義深く、そして、求めずとも、人間関係も良好なものとなっていくことは確実だろう。



自利と利他の一致とはまさしくこのようなものを言うのだろう。

自利の修行の果てに利他があるのではない。

端的に、利他に直入すべきなのだ。


 
重要なことは、坐禅や瞑想に耽溺し、主観的世界に引きこもることではない。

私たちの幸福は、そのようなところにはない。

心を満たすいうことになると、主観的世界の問題であるかのように思われる。

しかし、利他行為という客観世界における具体的な行為にこそ、私たちの安心立命がある。

それは、坐禅という静止の姿勢を保つ客観的な行為が心を落ち着かせるのと同様だ。



私たちは、客観的世界に生きるべきなのだと思う。





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