「私」とは「何」か?
禅では「直指人心」とよく言われます。
罪作りな言葉であると思います。
それは価値ある作業になり得るのだけれども、おそらく不毛な作業になるものと思われるからです。
よく禅の実践をすると「本当の自分を知ることができる」などと言われます。
公案でも「父母未生以前における本来の面目如何」というものがあります。
さらに、
「禅宗系の諸派に(は)次のような基礎概念を有しています。(略)自分の本性(本質)は、本来的に清らかなものである(自性清浄)」
(石井清純『禅問答入門』22頁)
などと言われます。
そのためか、「本当の自分を知りたい」とか、「自分に対して疑問を抱いた」などということを理由として禅に興味を持つ人もいるようです。
禅が何か「実体的な自己」を説明してくれると思ってしまう。
罪作りなのは、この筋が明後日の方向だからです。
特に、臨済禅の公案の実践の場合には、入室の秘密かかわるので、勘違いをしている人が多いように思います。
悉有仏性というものを、「自分が何かすばらしい実体的な属性を備えている」ことだと思ってしまう。
実際、中国の禅宗ではこのような捉え方をするものもあります。
けれども、仏教は、本来的に、永続的に存在する実体を否定します。
「古代を通じ、仏教が知られていた諸文化において、仏教に顕著な教義であり、その最も特徴的な指標と考えられていたのは、「無我」(No SelfないしNo Soul)の教えであった。
(略)
問題の核心に直接迫ることにすれば、論点をたやすく掴めるはずだ。先の二語からなるフレーズの間に、「不変の」という語を挿入すると、「不変の我は無い」、および「不変の魂は無い」となり、これまでの空騒ぎと誤解を一掃できるとあえて言おう。」
(リチャード・ゴンブリッチ(浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』34頁)
したがって、本来、「仏性概念」は否定されるべきものです。
「悉有は仏性なり。……衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。
これは、「衆生の中に仏性が内在する」という如来蔵思想の一般的な考え方を否定したものである。仏性は衆生の内だけではなく外にもある。そればかりか、一切の存在(悉有)はそのまま仏性なのだというのである。つまり、仏性は衆生の身中に常住なる純粋精神としてあるというのではなくて、精神にも肉体にも一切の存在に仏性が顕れているのだというのである。私はこの道元の立場を、「仏性が衆生の中に内在する」という「仏性内在論」と区別して、「仏性顕在論」と呼びたい。
すでに述べたようにインドの如来蔵思想、および中国禅宗(達摩・道信・弘忍・神秀・慧能・神会等)の基本的立場は、この「仏性内在論」であるが、この「仏性内在論」を道元は、仏法ではないとして、次のように批判するのである。」
(松本史朗『仏教への道』240頁)
仏性概念を無我説と整合的に理解するためには、このように考えるしかありません。
そして、このような考え方は、臨済宗でも、同じです。
「法は始めなく終わりなく、今も目前にあり又後にもあるもので、よく過去、現在、未来の三際を貫き、大は日月星辰より、小は針の目までも行き亘って居るのだ、一切の事実は悉く是れ法の顕現である。一切の因縁には法が交って織られ、因の中にも法あれば縁の中にも法がある。然し法は決して因縁に束縛されるものでない、大自在である大自由である。円転滑脱の作用がある。この法が即ち仏性とも称せられるのぢゃ、されば仏性は生きとし生ける人、鳥、獣、草、木などの有機物のみならず、金石国土の如き無機物にも猶お宿って居る。萬有の本体は、帰するところ一の仏性である。即ち法が是れ事物の本然という事になる。この法は万古不易の人力を以て如何ともする能わざるもので、人間は総て皆這箇の法の支配を受けねばならぬのである。」 (釈宗演『最後の一喝』226~227頁)
悉有仏性論がここまで徹底されると、仏性は、法と同義になります。
いずれにしろ、自分というものが実体のないものであるということが、仏教の前提ということになります。
このことは、常識的に考えても納得のいくものです。
「私」とは何かと問う場合、「私」とは精神的存在としての自分を指して使うものでしょう。
しかし、「私」というのは、脳の神経系に起きる電気信号に過ぎず、実体などありません。
そうすると、「私とは何か?」などという問い自体、無意味なものなのです。
とはいえ、そのことは、「私」というものを否定することを意味しません。
「私」は、脳の神経系に起きる電気信号の作り上げたフィクションですが、フィクションだから、否定すべきということにはなりません。
以前、テーラワーダの勉強会で、知り合った精神科医をなさっている方が、仏教では「無我」を説くのに、精神科の世界では、「自我の確立が必要である」などと説くことの整合性について悩んでいると吐露されるのを聴いたことがあります。
しかし、それは、フィクションだから、「否定しなければならない」という錯誤を起してしまっているから生じる悩みにすぎません。
世の中には、フィクションではあるけれども、有用なものが多数あります。
言語は、フィクションですが、私たちのコミュニケーションの上では有用です。
貨幣は、フィクションですが、濃厚な人間関係のない人から、財貨やサービスを受けとることを可能にし、私たちが社会の中で協力し合うために有用です。
「私」というものも、この肉体を守り、この肉体をより役に立つように機能させてくれる有用なものです。
ただ、言語や貨幣の過剰が却って生きづらさを作り出すように、「私」というものの過剰が却って生きづらさを作り出すことから、その過剰の抑制が課題となるにすぎないのです。
そもそも釈尊は、本質論的なことを思惟する形而上学を否定していました。
「ブッダは、当時存在していた宗教を受け入れることはできませんでした。多くの宗教を勉強されましたが、その修行には満足できませんでした。哲学や苦行では、答えを見つけることができなかったのです。またブッダは、形而上学的な存在には興味がなかったのです。」 (中村元『原始仏典』44頁)
知性によって解決のつかない問題について考えることをやめ、プラクティカルな問題の解決に傾注する。
釈尊が、形而上学的な問題について無機としたのはそのためでしょう。
知性を適切な範囲に限定することが仏教の中核的な考え方です。
「人生はこの生きているままで満ち足りている。そこに人騒がせな知性が入ってきて、人生を破壊しようとする。その時はじめて、われわれは生きることをやめて、何か欠けている、何か足りない、と思いはじめる。知性はそのままにしておくがよい。それはそのしかるべき領域においては、それなりに有用である。だが、生の小川の流れを邪魔させてはならない。」 (鈴木大拙『禅』51頁)
私とは何かなどという不毛な形而上学を考えるのをやめ、現実の世界の中で、どうやったら愛し合いながら充実した人生を送っていくことができるかという方法を考えていくものが仏教です。
それを考えると「直指人心」という言葉は罪作りに思えるのです。