楽であることの重要さ
仏教は、世界に対する私たちの評価に正統な根拠がないことを教える。
苦楽という概念も正統な根拠はない。
だから、「楽」を目指すのはおかしいということにもなるだろう。
しかし、私たちは、苦も楽もある相対の世界に生きざるを得ない。
世界は空なのだが、色として現れてしまっている。
仏教は、苦楽の分別を捨て去ることを教える。
しかし、そのことは苦楽がなくなることではない。
苦楽に囚われなくなるということだ。
そして、苦楽に囚われない、中性的な状態は、やはり、「楽」といわざるを得ない。
「仏教哲学の解説書――アビダルマーーによると、感情には、快、不快、中立、という三つの種類があります。(略)
しかし、私はアビダルマを読み、仏教を実践してきた結果、この分析が正しくないことに気がつきました。いわゆる中立の感じが、大変快いものになることもあるからです。きちんと坐って、呼吸と微笑を行えば、あなたはとても幸せになることができます。
このように坐って、自分が安らかな感じを抱いており、歯が傷まず、目が色や形を見分けることができるという事実をはっきり知ることは、素晴らしいことではありませんか(略)。
仏教を実践することは、人生を楽しむためのうまい方法です。幸せが、手に入ります。どうか、それを手にしてください。
私たちはすべて、中立の感じを、長くつづく快い感じ、非常に狭い感じに、変える能力をもってします。坐ってする瞑想、歩きながらの瞑想の最中に実践するのは、こうしたことです。あなたが幸せであれば、私たちのすべてがその利益を受けます。社会が利益を受けます。生きとし生けるものが利益をうけます。」
(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』49~51頁)
それでよいのだと思う。
仏教は言葉には囚われてはならないことを教える。
言葉は分別に由来する。
そこで分別を捨て去るようにいうのだが、「分別を捨て去る」という言葉に囚われると、「言葉に囚われるな」という言葉に囚われると、やはり生きることは苦痛である。
なんとはなれば、私たちは、どこまでいっても分別などなくならないからだ。
また、人生の何か指標になる言葉があった方が安心できるということもやはり真実だから。
そもそもが、仏教の目的は、「安心」、すなわち、楽になることだ。
「古来の常套の語(ことば)を以っていえば、安心を得るのが仏教の目的である。(略)安心とは、心を一定不動の處に安住せしむるの意で、謂ゆる宗教の力に依って、不動の信念を確立するということである。古来禅門で悟ったと云い、又本来面目に相見したなどというは、要するに皆な安心を得たと云うことである。」
(秋野孝道『此処に道あり』15頁)
私たちが仏道に興味をもったきっかけはやはり「楽」になることなのである。
しかし、いつの間にやら、その当初の動機を忘れてしまう。
仏教の知識や禅の修行とやらの課題が増えていき、日常生活以外の苦労を増やしてしまっている人が多い。
今修行で苦労して、いつか楽になるなどという発想は間違っている。
禅は、現在、此処、自己のはずである。
目的が、楽なのであれば、楽は現在此処において、独力でただちにもたらされなくてはならない。
私たちは、いつ死ぬかわからない。
明日死ぬかも知れない、今日死ぬかも知れない、次の瞬間には死んでいるかも知れない。
だからこそ、楽は即時に達成されなくてはならない。
そして、却って、苦労を増すうような方法は、どこかおかしいといわざるを得ない。
坐禅をしていると、本当に生きるのが楽になる。
しかし、禅の修行をしている人は、どうも難しく考えすぎてしまっているのではないかと思う。
臨済義玄のいう「造地獄」とは、そういうことなのだと思う。
「我々が日々夜々其境に臨み其事に接し、其時々々、其日々々感謝の念に往して愉快に送っていくのが、それが衲の安心である。」
(釈宗演『快人快馬』181~182頁)
禅の修行を完了して到達する人のあり方とはこういうものにすぎない。
やはり、難しく考えすぎているのだと思う。
まあ、禅の修行というのは、難しく考えすぎる人のためにあるという気がしないでもないのだけれど。