坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

生きることは不幸を引き受けること

 自動車は運転を開始しなければ、事故を起こさない。
 パソコンは起動させなければ、クラッシュしないし、ウィルスに犯されることもない。
 だから、問題を避けるためには、自動車もパソコンも使わないのが正しい使い方だということになるはずだ。

 人生もなにもせず、どこかに引きこもってじっとしていれば、問題は何も起きない。
 人生の悩みというものは、ほかの人とのコミュニケーションの中で生じる。
 だから、人付き合いもしないのが正解のはずだ。

 けれども、それが人生だろうか。

 私たちの能力には限界がある。
 私たちは、ほかの人を愛したいが、ほかの人が本当のところ何を欲しているのかはわからない。
 だから、何をかをすることは、常に失敗の危険がある。
 失敗による不幸を避けるためには、何もしないのが一番だ。

 けれども、「何もしない」人生が本当に良い人生なのか。
 死灰のように生きて行くのがよい人生なのか。

 そもそも、人生とは、不幸のリスクを引き受けながら、限られた能力の中で、暫定的な答えを出して、それを実行することのなかにしかない。
 その意味で、人生は「苦」の塊だ。
 しかし、その「苦」を引き受けることこそが、生きるということであり、その中にこそ、人生の充実はあるのだ。

 「苦」から逃げるのではなく、「苦」を引き受ける生き方をしていくこと。
 ほかの人の幸福の実現を第一として前向きに進みながら、自己保存の欲求などとの軋轢に苦慮して、悩み、苦しみ、迷うことこそが真の生き方なのだと思う。
(私の感じることは、そのような生き方を可能にしてくれる有効なツールの一つが只管打坐であり、だからこそ、一生懸命になりすぎてもいけない。禅が修行であるとするのなら、それは訓練にすぎない。苦を引き受けて生きることそれ自体ではない。訓練のない実践は不安定だが存在し得る。しかし、実践のない訓練は無価値だ。そして、実際に、訓練などせずとも、本来愛する生き方はできるのだ。)

 その点こそが、上座仏教と相違する大乗仏教の聖者が伝えたいこと、「煩悩即菩提」ということなのだろうと思う。
 
 たとえば、こんな言葉。

1 釈宗演『無門関講話』
 39頁
 迷いが怖ろしいから、悟りの中へ逃げ込むというのではありませぬ。
 迷いの中へ飛び込んで、大自在を得る。
 地獄界へでも、畜生道へでも、ドシドシ這入って往って仕事をする。
 到る處に主人公となって働くのであります。
2 釈宗活『臨済録講話』
 171頁
 佛性を心内に向って求めねばならぬと云うて、別段奥深くにかくれて居る譯ではない。
 其人々の、惜いとか、欲しいとか、憎いとか、可愛とか、活動しつつある其一念上を離れて、別にあるのではない。
 233頁
 力がないと、この聖を愛し、凡を憎むと云うことになり易い。【略】とかく人間と云うものは、腹のなかに意必固我の執情を持って居て、多少修行をしたものでも、やはり意必固我の執情や悟を愛して、迷いを憎むと云う、凡情が失せない。それはつまり、修行の上の骨折りが足らんからである。それ故、境に対する、こちらの力が甲斐ない。其様な境界では、死に際に阿弥陀佛が手を引こうが、尻から舎利をひろうが、坐脱立亡しようが、生死海裏に浮沈して、相変わず迷界の衆生じゃ、長く解脱のときはないと云われるのである。


 私自身は、坐禅をするようになってから、このような考え方を強く感じるようになりましたが、このような考え方自体は、仏教だけのものではなく、普遍性があるように思っています。
 たとえばこんな言葉。

1 P.F.ドラッカー(上村惇夫訳)『【エッセンシャル版】マネジメント 基礎と原則』
37頁 未来は、望むだけでは起こらない。そのためには、いま意思決定をしなければならない。いま行動し、リスクを冒さなければならない。(略)
 戦略計画は予測ではない。未来の主人になろうとすることではない。そのようなことは、ばかげている。未来は予見できない。
2 東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』
137~138頁 正しいことを言うのは評論家か傍観者になるのです。
 正しいことばかりを言う人はどこか信用できないのはこのためです。なぜなら正しいことを言いつづけようとすると、自分は何もできないからです。自ら何かをしますと、先に(略)述べましたように、正しいことをしても失敗するのです。失敗するとそれは間違っていたと非難されるからです。何もしないことが失敗を避ける最良の手段です。だから、評論家の域を脱せないのです。

 ……そして、うまく表現できないのですが、このように不幸を引き受けて生きる、特に、ほか人の幸福を実現するために、不幸を引き受けて生きることこそに、私たちの人生の幸福があるのです。

 これを生真面目に語ると、こんな感じ。

 松本史朗『仏教への道』
149頁 われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働くためであって、苦から逃れるためではない。われわれにとっては、日々の愛や悲しみや労働の生活以外に、釈尊の悟ったさとりを現成せしめる道はないのである。
258~259頁 われわれはその苦しみが大きければ大きいほど、そのあとで得る実りもまた大きいのである。それゆえに、かつてこの地上でどれほどの悪がなされようとも、われわれはなお、世界を愛することができるし、また愛さなければならないのである。(略)
 人生が辛い、苦しいと思っている人は多いであろう。また生きることに興味を失っている人も多いであろう。しかし人が生きる歓びを知らないのは、自分というものにとらわれ、それを捨てきっていないからである。
 
 癒やし系で語るとこんな感じでしょうか。

 ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』
8頁 人生は苦しみに満ちています。しかし、人生にはまた、青い空、太陽の光、赤ん坊の目といった、素晴らしいことがいっぱいあります。苦しむだけでは十分ではありません。
(略)
 青い空の美しさを楽しむために、特別の努力をする必要があるでしょうか。楽しむ練習を」する必要があるでしょうか。いいえ。ただそれを楽しむだけです。