坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

伝法の虚構性(その1)

 仏教では、ものごとをありのままに正確に知ることが大切であるとされます。

 禅について、正確に知るという観点から疑問を抱くことは、「伝法」についてです。
 禅の世界では、よく釈尊から現在に至るまで、その法を嗣いだ伝法の師家に参ずることが大切だなどと言われます。
 しかし、この伝法が、フィクションであるということを、禅の実践をされている人であっても十分に知らないことがあるようです。
 正直、坐禅指導に関わる人の中には、「公案修行により、釈尊と同様の悟りを体験できる。」などという人もいるのですが、伝法自体がフィクションであれば、本当にそのようなことがいえるのかをきちんと考える必要があると思うのです。
 本当に、正しいのなら、歴史的な事実――伝説――を抜きにしても、現在において正しさが立証されていることを理由として説明できるはずだと思います。
 正しい事実に基づいて自分の立場を説明できないのなら、ある程度ものを知った人からは相手にはされませんし、布教ができる類のものではないでしょう。
 
1 釈尊の「悟り」の内容
 禅を含めた大乗仏教では、釈尊の悟った内容は、「悉有仏性」論であるとされます。
 たとえば

釈尊菩提樹下に於て大悟徹底され、宇宙の真相、吾人の本質を見破られた時に、お悦びの余り思わず口を突いて出た大獅子吼の「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生は皆如来智慧徳相を具有す」というお言葉も、要するにこれであります。”
(原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』17頁)

などと言われます。
 そうすると、禅における「悟り」の内容も、このことになるはずですが、そもそもこのようなものが釈尊の本来の「悟り」の内容ではないことは、仏教学上の定説になっています。
 
“仏教の全体のすべてが本当に釈尊に発しているのかというと、これは厳密に考えていくとき、どうも問題も出てくる(略)浄土宗・浄土真宗等の浄土教は、阿弥陀仏を報じている。(略)いずれかの釈尊阿弥陀仏を賛嘆する内容になっているが、果して、実際に釈尊がそのようなことを説いたのであったろうか。少なくとも、歴史上の釈尊が、そのすべてを説いたとは、ふつう、とうてい考えられないであろう。
 この問題は、大乗非仏説の問題として、浄土教だけの問題ではなく、大乗仏教全体の問題でもある。“

“動かぬ証拠が次々に提示される中、歴史的事実が宗教的情熱を押しやるかたちで「大乗非仏説論」が学界の主流となり、それにともなって仏教界全体も、それを一応は受け入れることとなったのです。”
佐々木閑大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向うのか』268頁)

“大乗仏典に記されていたことは、ブッダが亡くなって相当な年月から経ってから後世の編者によって編纂されたことで、ブッダの直接の教えではないとする考え方は「大乗非仏説」と呼ばれる。近代仏教学では、この大乗非仏説が前提になっている”
島田裕巳ブッダは実在しない』72~73頁)

2 釈尊から迦葉尊者への伝法
 わかりやすく説得的なものは、河口慧海『在家仏教』の次のような記述。

禅宗に言う所の確実なる傳燈の証は、何に依って知られるかと云うに、それは附法偈に依って、佛々祖々の相傳が知られるのである。
 然るにこの附法偈ぐらい根本的に怪しいものはないのである。支那に達磨が来たと云われてから稍(やや)確実なものとなってけれども、過去七佛の附法偈と、西天の二十七祖までの附法偈とは、同一の支那人の手に依って造られたものである事は、同調同義の単純なる空義の七言或は五言の四句一偈で何れも同じようなことを繰返していることに依っても知られる。“(86頁)

“靈山會上に於ける拈華微笑の如き劇的筋書は、嘗て世に顕われた事のない怪経、梵天王問佛決疑経中に誌れてあるのを、王荊公が宮中の秘書藏内で見たと云う話に基づいたものである。権証となり得べき経律論の何れにも、また歴史にも出ていない一種の作話である。”(87頁)

(注1)挙げ出すときりがありませんが、たとえば……
(1)間宮英宗『興禅護国論大意』12頁
「自分が本然の姿に立帰って一切のものを眺むれば、一切のものが本然の姿において見える。それだからこそ初めてのものの凡てをありのままに知る事が出来る。このものをありのままに知る力を般若という。」
(2)柳田聖山『禅思想』34頁
「道の仲間よ、君たちが道にかなった生き方をしたければ、けっして世のごまかしに引っかかるな。内でも外でも出会ったらすぐ斬りすてよ。ブッダに会えばブッダを斬り、ダルマに会えばダルマを斬り(略)はじめて君は自由となる。何物にも拘束されず、思いのままに透りぬけるんだ。

この一段については、注釈はいらないであろう。それがダルマの真法であったと、臨済は別のところで言っている。
 ダルマがインドからやってきてからというもの、世のごまかしに引っかからぬ男を探しただけのことだ。」
(3)佐々木閑「NHK100分de名著・ブッダ真理のことば」21頁
ブッダは、この世界をしっかり観察した結果、「そういう救済者はどこにもいない」と確信しました。この世は原因と結果の因果則によって粛々と動いているだけであって、不可思議な力をもった救済者など、どこにもいないと見抜いたのです。」
(4)田上太秀『迷いから悟りへの十二章』42~43頁
「人が四苦八苦に悩まされるのは、四苦八苦が種々の因と縁によって生成し、消滅していることについて無知であるからだと釈尊は説きました。ものはすべて因縁によって生滅していることを正しく、ありのままに観察し、知識しないから、妄執して愛着し、ものを自分の思いどおりにしたい、所有したいという心が生れることになります。」
(注2)秋月龍珉『公案』58頁
「師家は、釈尊以来インド・中国・日本と「仏祖的的相承底」すなわち師承正しい伝統の師から印可証明を得たものでなければならない。古人はこれを「師承の一事、最も省要」と言われた。臨済宗では、こうした師家分上の士でなければ祖録(歴代の師家の語録)を講ずることも、まして参禅入室をきくことなどは、絶対にできない定めになっている。」

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