坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

大往生を目指すから苦しくなる

 高齢化に伴って、週刊誌で「終活」が特集として組まれることが多くなりました。

 いずれ来るものであり、来たときには、まあ大騒ぎになるのだから、今のうちから準備をするというか、覚悟をしておくのは良いことかと思う。

 人生に対する悩みというのは、つまるところ、「いつか死ぬ」というところからくるから、「死」に対する対応も、禅の重要なテーマです。

「衲(わし)一己の考から言うと、死の覚悟と言う外に別に覚悟はないであろうと思う、我々が日々夜々其境に臨み其事に接し、其時々々、其日々々感謝の念に往して愉快に送っていくのが、それが衲の安心である。」

(釈宗演『快人快馬』181~182頁)

 死を迎えるに当って、どうしたいか。

 雑誌などのテーマには、よく「大往生」という言葉が出てきます。

 お茶を飲みながら、ひなたぼっこをしているうちに、うとうとしてきて、眠るように死ぬ……。

 そんなことにあこがれを持つ人もいるでしょう。

 実際、私もそんなことを考えていました。

 しばらく前の新聞記事によると、死因として、「老衰」が増えてきたということで、このような死に方ができる可能性は高まっているような気がします。

 しかし、私たちは、死に方を選ぶことができない。 年老いてくれば、免疫機能が低下しますから、癌などどんな疾病に見舞われるかもわからない。

 大体が、歳をとってくると、体の自由が利かなくなるだけでなく、体の節々が痛くなるなどの問題が生じます。  このような身体的な衰えに基づく苦痛が老人性のうつの原因であったりもします。

 このように考えると、なかなか楽に死ぬというのは難しい。  そんなことができるのだろうかと不安になる。

 でも、「大往生」をしようと思うから、それができなかったときの苦痛に対する不安が強くなるのではないでしょうか。

 坐禅をするようになってから、間もない頃、鈴木俊隆老師の『禅マインド ビギナーズ・マインド』に出逢いました。

「私が死ぬとき、死に行く瞬間、私が苦しんだとしてもOKです。それは苦しみのブッダだからです。そこになにも混乱はありません。誰もが、肉体の苦しみ、精神的な苦しみでもがいているかもしれません。それはかまわないのです」 (鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』12頁)

 この一節を読んだとき、何やら

「ああ、苦しくて良かったんだ。」

と救われた気持ちになりました。

 苦しいときなど何か不幸に見舞われたとき、それから逃げようとするから、却って苦しい思いをする。

 

 何らかの合理的な方法によって、避けることができるなら、避けた方がよいのだろうけれど、避けられないのなら、受け容れる。

 これが禅の修行の目的の一つだろう。

「死の時は死ぬるばかりよ。死也全機現【しやぜんきげん】じゃ。只管死苦じゃ。この期に及んで安心を求むるとは何事ぞ。只死苦ばかりの所に大安心の分がある。全機現とは宇宙一枚の死じゃ。死者の世界邪。死によりて宇宙を占領するともいえうる。元古仏は生死は仏の御命なりともいわれた。死を厭うは仏を殺すなりともある。」

(飯田欓隠『通俗禅学読本』24~25頁)

「苦しみの真只中にひたすら苦しみになりきって、そこに「苦中に楽ある」消息を自得するのが禅の行き方である。何も強いて井戸から”出る”ことだけが能ではない、井戸の中でアップアップ言いながら、そこに見事に井戸を”出ている”子細がある。良寛にたしか「災難に逢う時には災難に逢うのがよろしく、死ぬる時には死ぬがよろしく候」という語があった」

(秋月龍珉『公案』151頁)

「この世の苦しみを消すには、自分の心の在り方、ものの見方を変えるしかないというブッダの主張はその通りだと思います。人が老い、衰え、死ぬことがこの世の法則、自然の摂理であって、それを変えることもなくすこともできないのであれば、受けいれる側の自分の在り方を変えるしかない。そこにブッダの教えの本義があるのです。」

佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』24頁)  

 坐禅をやってよかったなと思うことは、苦しいことを受け容れることに意識を持つことができ、トラブルにあっても、楽しむことができるようになったことです。

 至道無難の歌に

「何事も修行とおもひする人は  身のくるしみもきえはつるなり」

というものがあります。

 確かに、「きえはつ」りやすくなる。

 というか、坐禅で培った「道力を試すときがきたか!」と前向きに取り組めるようになりやすくなりました。

「われわれがもし忍辱、すなわち忍耐力をもって善事・善業を行ったならば、苦しみは、必ず楽しみとなって同化してくるのであります。(略)その苦であり逆である出来事を、善意に解し、善意に用いて行きさえすれば、その逆境が自分を励ます向上の進歩の一つの逆法門、すなわち観音の慈悲の大方便となり、それを喜んで迎えるようにして行きさえすれば、その苦しみは必ず楽しみとなってくるものであります。」

(原田祖岳『延命十句観音経講話』62頁)

 坐禅だけは、毎日、繰り返しているせいか、扁桃体の活動が低下し、少しはこの境涯には近づいてきているような感じがして、「血反吐を吐いて、命乞いをして、苦しみながら死にたい。」と切に願っています。

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