坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】受け入れ、向き会う

(1)有馬賴底『『臨済録』を読む』20~24頁「『臨済録』から『無門関』『碧巌録』そして『大燈百二十則』――全部暗記させられました。覚えていないと火箸で叩かれました。ところが これが役に立たない。二十二歳の時、上洛し相国寺に入ります。大津櫪堂…

所有(蓄積)ではなく作用(放出)

「企業は、社会と経済のなかに存在する被創造物である。社会や経済は、いかなる企業をも一夜にして消滅させる力を持つ。企業は、社会や経済の許しがあって存在しているのであり、社会と経済が、その企業が有用かつ生産的な仕事をしていると見なすかぎりにお…

仏道修行と潔癖主義の病

「私たちが大事にしている修行をあまり理想主義的なものにしてはいけません。」(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』106頁) テーラワーダの実践をしている人たちとの交流会に参加しました。 若手の方で大学卒業後、ニート期間が長く、最近、就…

【参考資料】不立文字のプラクティカルな根拠

1 P.F.ドラッカー(上村惇夫訳)『【エッセンシャル版】マネジメント 基礎と原則』「われわれは期待しているものだけを知覚する。期待しているものを見、期待しているものを聞く、コミュニケーションに関する文献の多くは、期待していないものは反発を受…

言語と現実

現実を言葉にすると、現実から来る不安が解消される。 非現実を言葉にすると、妄想から不安が生じる。 最近、こんなことを考えます。 以前、プラユキ・ナラテボー師の瞑想会に出席したとき、日常生活で生じることについて、ラベリングをすることにより、心を…

慈悲、そして、言語=形而上学の否定

「仏教は慈悲を以て主旨とする」(釈宗演『一字不説』2頁) 偶然、釈宗演老師が、肥前鹿児島仏教会でなさった法話をまとめた『一字不説』に目を通したところ、いきなり目に入ったのが、冒頭引用のフレーズでした。 当り前といえば当り前、凡庸といえば凡庸…

釈迦という男をどう見るか?

仏教を、「病院」や「薬」という比喩で捉える見方があります。 「「苦・集・滅・道」という四諦の教えを見るといつも私は思うのですが、仏教という宗教は、まるで病院のような存在です。仏教は「心の病院」なのです。」(佐々木閑『NHK100分de名著・…

【参考資料】仏道修行は人格を保障しない

(1)秋月龍珉『公案』「良き師は求めて得られるものでもない。しかしまた求めなくてはけっして得られない。「しからば真師は如何にして見つけるか。それには師たるべき人の私生活を観察するのが捷径(はやみち)であろう。言行一致するや否や、常識的に見…

自利と利他の一致

「ただ、誰かを守りたい、人を愛したいという気持ちが宙づりになってしまいました。それには手っ取り早いのが自分で子どもを作ることです。現在の妻とはその当時すでに交際していて、そんな話をすると、子どもを作って出来婚しようという話になりました。木…

【参考資料】すべては解釈

(1)原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』108~109頁 「闘争も不幸もすべて心の持ちよう=解釈=一つ、同じ事実も見ように依って蓮華にもなれば汚物ともなる。嬉しくもなり悲しくもなる。好きにもなり嫌いにもなる。黄金にもなれば糞土にもなる。すべてこ…

「苦しい修行」

「苦しい修行」も悪くはありません。 ただ、やる人間としては、平均的な人なら、苦しいと思うような状況を楽しむべきです。 避けられない苦しみを処理しやすくなる=楽しめるようになることが、禅の実践の大きな楽しみの一つです。 苦しみも、楽しみも解釈の…

求めることをやめる。

不幸の始まりは幸福を求めすぎることにあるのだと気づく。 ほかの人を蹴落として、その上に立とうとすることに不幸があるのだと気づく。 求めるこの心が不幸の原因であることに気づく。 幸福を実現しようとする求めるこの心が不幸の原因であることに気づく。…

大往生を目指すから苦しくなる

高齢化に伴って、週刊誌で「終活」が特集として組まれることが多くなりました。 いずれ来るものであり、来たときには、まあ大騒ぎになるのだから、今のうちから準備をするというか、覚悟をしておくのは良いことかと思う。 人生に対する悩みというのは、つま…

「私」とは「何」か?

禅では「直指人心」とよく言われます。 罪作りな言葉であると思います。 それは価値ある作業になり得るのだけれども、おそらく不毛な作業になるものと思われるからです。 よく禅の実践をすると「本当の自分を知ることができる」などと言われます。 公案でも…

欲望あってこそ人間

ネットサーフィンをしていたら、「ひきこもり」に関する次ような記事を見つけました。 「専門家座談会【前編】ひきこもり、うつ…「働けない」子どもを、親はどう見守る?」 (https://fujinkoron.jp/articles/-/340) 斎藤環、雨宮処凛、工藤啓の対談です。 …

本当の利他行為

禅の講演会での講師の方のお話。「大乗仏教は究極的には利他を説くものです。どういう人なら本当に人のためになれるか?そのためには、「空」を体得すること。自我を空じていなければ、他人のことをあるがままに写し取ることができない。『空』を体得するた…

坐禅において呼吸回数を減らすべき科学的根拠

坐禅のときには、呼吸回数を減らす、すなわち、呼吸を長く、ゆっくりとすることが推奨されることが多いですが、このことは、科学的にも正しいようです。 坐禅等の瞑想をすると脳の「扁桃体」の活動が低下することがわかっています。 扁桃体の機能は、次のよ…

嫌われるのも素晴らしい生き方

「禅の修行の成果は、自分が死んだときに初めて確かめられる」と言う久参の方がいる。 おそらく、禅の修行をして人格が磨かれれば、おのずと人から死を惜しまれ、そのことから、修行の成果が分かるということだろう。 しかし、死を惜しまれるということが本…

世界と人生に何の不満があるのか?

坐禅などの仏教の瞑想をする人は往々にして不満がある。 人生に疑問をもって始める人は、人生に不満がある。 世界は「苦」ばかりであるという人は、世界に不満がある。 しかし、なぜ、不満を抱くのか? 山川草木悉皆成仏だ。 きちんと世界を見回したらいい。…

伝法の虚構性(その2)

3 菩提達磨(1)石井清純『禅問答入門』 “菩提達磨とは、サンスクリット語(印度の古語)のBodhiが「菩提」、つまり「悟り」で、Dharmaは「法」、真理とか教えという意味で、とうてい実名とは思われません。年齢も、(武帝に出会った)この時すでに百四十…

伝法の虚構性(その1)

仏教では、ものごとをありのままに正確に知ることが大切であるとされます。 禅について、正確に知るという観点から疑問を抱くことは、「伝法」についてです。 禅の世界では、よく釈尊から現在に至るまで、その法を嗣いだ伝法の師家に参ずることが大切だなど…

肯定も否定もできない

先日、心理学の講演会を聴いたときに、講師の先生が「脳は否定語を理解できない」というお話をなさいました。 たとえば、「今、ここに、『手の平サイズのピンクの象』が……“いません”」と言った途端に、脳は『手の平サイズのピンクの象』を創造してしまうとい…

安心は主観的世界に耽溺することではなく、客観的世界に生きることにある

仏教の目的は、安心立命にあると言われる。安心とは、「心の安まる」ことだから、自分の主観的世界に変化をもたらすことが重視されるようなところがある。 坐禅等の瞑想を深める中で、外界からの影響に揺るがない精神を作り出す。そこでは、外界から自己の精…

煩悩即菩提

社会的に相応に評価されている人の境涯には好ましいものがあります。 阿川佐和子さんの『聞く力』に次のような一節がありました。 “私は(渡辺淳一さん)に尋ねました。一生、愛し続けられると信じていても、人はどうして気持ちが変わっちゃうんでしょうね。…

楽であることの重要さ

仏教は、世界に対する私たちの評価に正統な根拠がないことを教える。 苦楽という概念も正統な根拠はない。 だから、「楽」を目指すのはおかしいということにもなるだろう。 しかし、私たちは、苦も楽もある相対の世界に生きざるを得ない。 世界は空なのだが…

ある世界は、この日常の世界だけ

お世話になっている在家禅団体をやめるのだという人がいる。 「修行」のやり方に「ありがたみがない」ので、「明眼の師を見出しに行く」のだという。 短い期間だったけれど、熱心に取り組み、色々な本を読んでもいるようだった。 しかし、未だに、何か「あり…

【参考資料】仏教者の戦争責任

参考資料「仏教者の戦争責任」 A 「日本の仏教徒は、戦争中ほとんどが戦争に反対できず、逆に戦争に協力してきた。本師山田無文老師は、深くそのことを反省懺悔されていた。『師匠の関精拙老師の尻にくっついて、『兵隊さん、お国のために死んでください。…

見性体験などの特殊な体験を求めない(その2)

私が見性体験等の特殊な体験を求めるべきではないと考える主だった理由は次の3つです。 第1に、坐禅などの瞑想は、脳の特に前頭葉の機能を低下させるものであり、見性体験などの「特殊な体験」は、この機能を著しく低下させるものであって、そのようなこと…

見性体験などの特殊な体験を求めない(その1)

坐禅等の仏教の瞑想に興味を持つようになってから、特異な体験を持つ人と接することが少なからずある。 たとえば、自己と世界とが一体となる感覚、光に包まれる感覚、自分の中に何かすごいものが「ドーン」とある感覚など様々だ。 一番多いのが、自己と世界…

生きることは不幸を引き受けること

自動車は運転を開始しなければ、事故を起こさない。 パソコンは起動させなければ、クラッシュしないし、ウィルスに犯されることもない。 だから、問題を避けるためには、自動車もパソコンも使わないのが正しい使い方だということになるはずだ。 人生もなにも…