坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

自利と利他の一致

「ただ、誰かを守りたい、人を愛したいという気持ちが宙づりになってしまいました。それには手っ取り早いのが自分で子どもを作ることです。現在の妻とはその当時すでに交際していて、そんな話をすると、子どもを作って出来婚しようという話になりました。木の子どもを産んでもいい、産みたいとすら言ってくれました。

漫画を好き放題に描いていても埋まらない欠落はこれだったと確信しました。いい年の大人の男が自分のやりたいことだけを精いっぱいしているというのもみっともないことだ、自分以外の他者に尽してこそ人生ではないかとすら思うようになりました。また、厄年を過ぎるとぐっと体力や気力が激減し、自分本位の生き方すらしんどくなっています。それまでは自分さえよければいいと思っていた、その自分が満足いかなくなっています。自分の満足では自分が満足しきれない、自分のキャパシティがビールジョッキだったとすると、湯呑みくらいになっているような、そのこぼれた分を他者に注ぎたいというような気持ちです。それを子どもに期待していました。自分の代わりに自分の分も頑張ってほしいし、幸福になって欲しい、いろいろなことに感動して欲しい。そんな気持ちです。人生の前半は自分のためにやり尽しました。しょぼくなった後半を他者に期待するというのも都合がいい話ですが、後半は自分以外の誰かのために生きたいと思っています。」

古泉智浩『うちの子になりなよ ある漫画家の里親入門』152~153頁)  

里親になったマンガ家の方の漫画付きエッセイ(?)を読んでいたところ、目に入った引用に係る部分が、自利と利他の一致についてよく語っていると思いました。

「自利と利他の一致」ということは、禅の世界でよく言われていることですが、どうも、高邁なものとして捉えすぎている人が多いように思います。

禅の修行を何年、何十年と続けていき、その上で、何とか行き着けるかどうかのとても高い境地であるように捉えている人の方が多いのではないかと感じます。

  しかし、これはごく普通に人間が持つ衝動ではないでしょうか。

元々人間が持っている衝動で、ただ、日常生活の中に現われる曖昧模糊としながらも、とても強く迫ってくる不安感に追われるようにして生きているうちに見失ってしまっているだけのとても素直な衝動。

坐禅は、不安感に追われる焦った心にブレーキをかけることで、この素直な衝動を私たちに思い起こさせてくれるものです。

「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。それはわれわれの心に生まれつきそなわっている想像と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。」 (鈴木大拙『禅』41~42頁)

愛したい、慈しみたいという利他心は、人間が根源的にもっている衝動です。

ただし、不安に追われる生活をする中で、そのことに気が回らなくなってしまい、その衝動を発揮できなくなっているだけです。

そのことが、佛教でいうところの「苦」を重い問題にしてしまうのです。

「人間はいかに満足を求めても結局は満足し切ることができないものだ、というのが仏教の見方です。(略)四聖諦の最初の苦諦はしばしば『この世のいっさいは苦しみである』というふうに理解されていますが、わたしはむしろ『この世では最終的に物足りるということはあり得ない』と解した方が真理に近いのではないかと思っています。」

(藤田一照『現代坐禅講義』48~49頁)   「快楽に溢れた生活、例えばゴータマ・ブッダが出家の前にしていた生活はそのようなものであったとされるが、それは『苦』ではないのだろうか。そうとは言えない。経典の説くところにしたがえば、たとえ誰かがある時点で快楽を感じていたとしても、その感受でさえ、『苦』であることには変わりがないのである。

dukkhaという言葉を訳す時、現在の英訳では、しばしばunsatisfactorinessという単語が使われる。日本語に訳せば『不満足』ということになるが、これはdukkhaのニュアンスを正しく汲み取った適訳だと思う。

というのも、既述のように、dukkha(苦)はしばしばanicca(無常)と関連付けられながら語られるが、このことは、『苦』という用語が単に苦痛のみを意味しているわけではなくて、むしろ欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態をこそ意味することを、示しているからである。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』50~51頁)

仏教の克服しようとする課題である「苦」は、物質的に満たされた状況であるにもかかわらず、生じてくる精神的な不満足感であるともいえそうです。

このことは、古代インドにおいて、仏教を信仰していた人々が、修行を始めた当初の釈尊と同様、物質的には満たされた人たちであったことからも頷けるところのものです。

「あらゆる歴史家は、インドにおける都市化の第二期の初期において、仏教が興隆したことに同意している。(略)この都市化は、農産物の余剰生産に伴って生じたのに違いなく、社会と経済の根本的変化へと繋がった。比較的大きな都市(略)は、宮廷と貴族、および官僚階級を伴った都市国家へと発展した。余剰の農産物はさらなる規模の通称を促し、そのことがより遠方の諸社会との接触と、文化的地平の拡大をもたらした。交易商人たちは帳簿をつけ、王たちは法を施行した。(略)

仏教が、とりわけ交易商人のような新興の社会階級を惹きつけたことは、初期の文献と、少し下った時代に由来する考古学的史料の双方から、明らかである。」

(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』59~60頁)

仏教が克服しようとする『苦』が、単なる不安感の類いだけではなく、人生に対する不満足感を意味するということは、瞑想によって、心理状態を変容させるだけではない、別の対処が必要であることをも基礎づけるもの、すなわち、『大乗仏教』の現われる根拠となるものといえるものではないかと思います。

脳科学的な視点では、人生に対する充足感を得るためには、単に、不安感が解消されるだけではなく、価値ある課題に取り組む必要があるとされています。

「不幸の芽を摘むことばかりに気をとられてはいけない。それよりもたいせつなのは、幸福を増すような要素を積極的に見つけることだ。(略)

仕事であれ趣味であれ、自分がしていることに積極的にかかわることは、(略)とりわけ重要だ。(略)

基本レベルの豊かさ(住む家があり、十分食べ物があること)がひとたび得られれば、それ以上にどれだけカネがあっても人が感じる幸福度にほとんど差は生じない。(略)それよりも人を幸福にするのは、自分にとって大きな意味のある何かに積極的にとりくむことだ。これこそが楽観主義者の本物の証明だ。楽観主義者とは、大きな目的に向かって没頭したり、意義ある目標に到達するために努力を重ねたりできる人々なのだ。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』341~343頁)

とはいえ、何が自分の人生にとって取り組むべき価値のある課題であるかは、悩ましいところです。

自分の人生において、何か目指すものがあった方がよいといことは、誰しもが直感することですが、自分の人生をかけてまでやる価値のあることを見いだせないまま、何もなすことなく、正に「無常に」過ぎ去っていくのが人生であることも少なくないのではないかと感じます。

このような人生において価値ある課題に取り組みたいという欲求は、上座仏教的な瞑想によっても克服することは困難ではないかと思われます。

  「ミャンマーでは瞑想の実践を中心として多くのことを学ぶことができ、おかげさまで、(略)私自身の実存的な関心として生死の問題に悩むことは、もうありません。

ただ、自分にとっての生死の問題(己の中の有限と無限の問題)に、いちおうのけりがついたとしても、その上でこの有限の生をどのように生きるべきかという問題は残ります。」

(藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』4~5頁「魚川祐司発言」)

この魚川祐司先生の発言は、上座仏教的な瞑想だけでは、価値ある人生を送りたいという欲求には、対応できないことを意味しているものと思います。

  人生において価値ある課題に取り組みたいという欲求への対応方法の答えとして、大乗仏教が出したものが、利他行為なのではないかと思います。

単に、自分の利益だけを追求するのではなく、他者の利益を実現する。

他者を愛し、幸福にすることを通して、自分の人生を価値あるものにし、人生に対する不満足感を解消していく。

そこに、自利と利他の一致の消息があるのだと考えています。

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