坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】仏道修行は人格を保障しない

(1)秋月龍珉『公案

「良き師は求めて得られるものでもない。しかしまた求めなくてはけっして得られない。「しからば真師は如何にして見つけるか。それには師たるべき人の私生活を観察するのが捷径(はやみち)であろう。言行一致するや否や、常識的に見て私生活が立派なりや否やを観察すれば、だいたい誤りはない。私は禅機とともに禅によって得られたヒューマニティに魅力を覚える」。これは野口明先生(お茶の水大学元学長)の名言であるが、導師のもっとも根本的な心得を教えて、けだし至言に近い。ただし、古来「真正の見解さえあれば少々不品行でもよい。正見ある者を師とせよ」と評してもある。行解相応の師など昔もなかなか少なかったものらしい。」

(58頁)


(2)魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』

「ゴータマ・ブッダの教えは、現代日本人である私たちにとっても、「人間として正しく生きる道」であるかどうか、ということである。

 結論から言えば、そのように彼の教えを解釈することは難しい。【略】ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に「労働と生殖の放棄」を要求するものであるが、しかるに生殖は生き物が普遍的に求めるものであるし、労働は人間が社会を形成し、その生存を成り立たせ、関係の中で自己を実現するために不可欠なものであるからだ。

(略)ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている、「人間」とか「正しい」とかいう物語を、破壊してしまう作用をもつものなのである。」

(35~37頁)

「ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が【64頁】通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろ社会の維持に欠かせない労働と生殖を否定し、そもそもその前提となる「人間」とか「正しい」とかいった物語を破壊してしまう作用をもつ、(略)解脱というのは、俗世間がそれに基づいて機能しているところの、愛執が形成する全ての物語からの解放だ。(略)

 「人格」について言っても同じことで、どのような人格が「よい」とされ、どのような人格が「悪い」とされるかは、その場の文脈、言い換えれば、そこにいる人々が共有している物語によって変わってくる。そのような無常の物語に自己を最適化しようとし続けて、終わりのない不満足のサイクルに絡め取られることから決定的に解脱することがゴータマ・ブッダの仏教の目標なのだから、そこに向かっていく修行者は、世俗的な意味での「善悪」からは、当然どんどん距離を取っていくことになるだろう。

(略)

ミャンマーにあるテーラワーダの)瞑想センターの一つで、(略)とても印象的な経験をした。(略)そこで既に七年以上も滞在している、古株の日本人僧侶(略)が私に対して開口一番に、『ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ。』と言ったのである。
(略)ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような『人間として正しく生きる道』を説くものではなく、むしろ社会の維持に欠かせない労働と生殖を否定し、そもそもその前提となる『人間』とか『正しい』とかいった物語を破壊してしまう作用をもつ。(略)終わりのない不満足のサイクルに絡め取られることから決定的に解脱することがゴータマ・ブッダの仏教の目標なのだから、そこに向かっていく修行者は、世俗的な意味での『善悪』からは、当然どんどん距離を取っていくことになるだろう。(略)その境地には通常の意識で私たちが想定するような『善』も『悪』も存在し得ないということだ。」

(63~65頁)

「解脱・涅槃の境地というのは、世俗的な意味での善や悪はともに捨て去ったところにあるものだから、そこから俗世における善悪の基準、即ち倫理規範を直接的に導くことは不可能だ。」

(76頁)

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