坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

仏道修行と潔癖主義の病

「私たちが大事にしている修行をあまり理想主義的なものにしてはいけません。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』106頁)



 テーラワーダの実践をしている人たちとの交流会に参加しました。

若手の方で大学卒業後、ニート期間が長く、最近、就職をした方から、就職先の人たちは、仕事をすればそれでよく、という感じで、人間関係から心のざわつきが起きないのでよいです、とのお話がありました。

 穏やかな人間関係というものは、それはそれでよいのですが、テーラワーダの実践をする人は、それを強く求めている人が多いように思います。

 心を穏やかにするということに力を入れすぎる余り複雑な問題に立ち向かうのではなく、逃げようとする傾向にあるように思われます。

生き方は人それぞれではあります。

 しかし、テーラワーダの実践をする人は、心を穏やかにすることに傾注する余り、人間関係を限定していき、人間としての活動性を低下させる傾向にあることは、残念なことです。


 固より、人は一人で生きることができず、生存の維持のためには、労働が必要不可欠です。

 そして、諸行無常の世界の中で、継続して同じ人間関係の中で仕事をしていける保証はなく、困難な人間関係にも対応できなくてはなりません。

 人間関係からくるストレスに対する耐性が低いのでしょうから、仕方がないのかな、とも思うのですが、 テーラワーダ等の仏道の実践をしている人に対して抱く違和感は、問題を難しく考えすぎ瞑想実践のウエイトが高くなりすぎている人が少なくないことです。

 「問題を難しく考えすぎる」人だからこそ、仏道修行が必要であるかなという気もするのですが、相手にする問題が大した問題ではないことを認識するのもよいように思うのです。


 仏教は、「苦」への対処を問題とします。 仏教で問題とする「苦」は、本来的には、現実に存在する「苦痛」ではありません。

 釈尊は、仏伝によれば、生活が満たされていたにもかかわらず、いずれ病になり、老いて、死ぬことに不安を抱き、修行を始めたものとされます。

 
 客観的には何ら問題がないにもかかわらず、現実には生じていない病み、老い、死ぬという事態を妄想して、これからくる不安を解消するために修行を始めたのです。

 
 釈尊という三大宗教の一つの開祖のことだということを前提とすると深刻な話のように思います。

 しかし、日常生活で、病気にもなっていないのに、「病気になるのが不安で不安で仕方がない」とか、若いのに、「年老いることが不安で不安で仕方がない」とか、至って健康であるのに、「いつか死ぬかもしれないから不安で不安で仕方がない」とかいう人がいたとしたら、不安障害等の精神的な問題があるのではないかと疑うのではないでしょうか。


 仏教が対処しようとするのは、このような「虚妄の不安」です。

 そして、私たちの肉体は、このような不安があっても、きちんと活動して、生きています。

 不安の解決策がわからずとも、私たちは、きちんと生きることができていて、その意味では、不安があることには全く問題がないのです。


「「わからない(不知)のに、それでもきちんとちゃんと事実として生きてるよね」という、そのこと自体に安心を見出すようなあり方が必要なんです。」
(藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』36頁)


という藤田一照師の言葉には強い共感を抱きます。


 私たちが生存する上では、このような不安は、仮にあったとしても全く問題がないのです。


衆生本来佛也」


 私たちは、最初から何も問題がない。

 勝手に問題があると思っているだけなのです。


「人間がちょっと足を止めたのが禍の本なのである。猫や犬のように、松や竹ののように、所謂その性のままに動いて居れば、何の面倒もなかったのだ。それが何かの調子で一寸車を駐めて紅葉を見たから、今までのように行けなくなった。自分と自分に対するものとが分かれた。問が出る、名が出来る。一旦こうなれば止まるということを知らぬ。自分で作ったものにだまされる。向こうに働きかけて、その働きが又向こうから返ってくる。一波動いて千波萬浪が次から次からと動く。面白いと云ってもよし、面倒だと見てもよい。そのはじめは、汝が問を出したからである。」

鈴木大拙『禅百題』48~49頁)


 問題は、問題があると思っているから生じるのです。


 仏教の「苦」は、虚妄の問題。

 少なくない人が、この虚妄の問題にとらわれます。

 多くの人は、日常生活の中で、適当にこの問題を処理できてしまう。

 しかし、わずかながら、この問題を深刻なものとして受け取ってしまう人がいる。

 その人にとっては、この問題を問題と感じていない人が極めておろかに見え、自分が賢いと思う。

 自分勝手に虚妄の問題を抱えているだけなのに。

 仏伝の中で、釈尊の両親は、釈尊が修行に出るのを止めようとしますが、釈尊は、それを振りきって修行の旅に出ます。

 
 釈尊が賢明であり、両親が愚昧であると受けとるに人が多いかと思います。

 しかし、(修行の旅に出る前の)釈尊が愚昧であり、両親が賢明であるというのが真実でしょう。

 
 釈尊は、悟りを開いたとき、ほかの人にそれを広めることに躊躇したと言われます。

 私は、その理由について、釈尊


「こんなことに悩んでいた俺がバカだった。
 こんなことを問題としていた俺がバカだった。」


と馬鹿馬鹿しくなったというのが正解なのではないかと思っています。

 仏伝によれば、「世の中の多くの人にその教えがわからない」ことが理由であったとされますが、それはそうでしょう。

 世の中の人は、そもそも釈尊の悩んでいた悩みを問題としないからです。

 
 仏教は、薬であり、病院です。

 うっかり釈尊と同じ問題を共有し、虚妄の問題に絡めとられて、日常生活に支障を来す人が、ごく普通の人に戻るための薬であり、病院。

 
 テーラワーダの実践をする人を含めた仏道の実践者の少なくない人は、問題は自己にあるのではなく、問題を共有していない社会の側にあると思いがちですが、問題は、社会にあるのではなく、自己の側にあるのです。
 
 まさに「脚下照顧」です。


「瞑想センターは、あなたがみずからに帰り、現実についてのいっそうはっきりした理解を得、理解し愛する力を強め、社会に復帰する準備をするところです。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』79頁)
 

 仏道修行は、社会の中に戻って、一市民として、周囲の人々と調和しなかがら生きるためにあるのです。

 周囲の人々から隔絶された世界に逃避することではありません。

 
 対処すべき問題は容易です。

 
 虚妄の不安に適切に対応するだけです。

 
 人間誰しも、不安を抱いて生きています。

 将来のことは確実にはわからない。

 だから、私たちは、いつもどこかしら不安です。

 しかし、それがどうだというのか。

 社会の圧倒的多数の人は、多少の不安は抱きながらも、前向きに価値あるものとして人生を送っています。

 人生を送る上で、不安のあることは全く問題がないのです。

 ただ、過剰であると本当にいきづらくなる。

 そのときに、有用なテクニックが、只管打坐により扁桃体の活動を低下させるとともに、テストステロンの分泌を促すことです。

 そうすれば、不安感は、あっても全く門田がなくなるのです。

 
 ただある種の人は、その不安感を完全に払拭したくなる。 
 
 完全に消滅しないと不安で仕方がない。

 不安感に対する「潔癖性」を抱いてしまうと、どうしようもないのかなと思います。

 
 脳内の扁桃体が不安を抱かせるのは、肉体に向かってくる危険を避けるためです。
 
 扁桃体に損傷を受けると、危険に対する反応ができなくなり、交通事故に遭いやすくなったり、日常の些細なことで怪我を負いやすくなったりすることが知られています。

 扁桃体が、このような有用な機能を果たす以上、私たちから、不安感が払拭されることはないでしょう。
 
 ですから、このような不安感を払拭するということとなった場合、テーラワーダでいうところの三毒の断滅まで目指すこととなった場合には、多大な労力を払うことになります。
 
 そして、多大な労力を払うことは、解決すべき問題が大きいことを前提としますから、不安の問題は尚更大きくなっていく悪循環に陥ります。

 
 人生は、どう生きてもいい。

 けれども、せっかく、すばらしい世界が広がっているのに、苦から逃れるために瞑想をするだけで終わるのはもったいないことです。


「人生は苦しみに満ちています。しかし、人生にはまた、青い空、太陽の光、赤ん坊の目といった、素晴らしいことがいっぱいあります。苦しむだけでは充分ではありません。

 苦しむばかりでなく、人生におけるさまざまな素晴らしいことがいっぱいあります。」
 
(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』8頁)


 私たちの中の少なくない人が、仏教的な「苦」への対処を問題とします。

 私も、その一人でした。

 しかし、この「苦」への対処は容易です。

 
 只管打坐をして、後は、あらゆる存在に対して、慈しみの行為をする日常生活を心がけるだけです。

 
 「苦」はなくなりません。

 しかし、扁桃体の活動の定価により、日常生活に問題がない程度に「苦」の問題は解消します。


 認知行動療法において、精神障害の要因となる「問題のある認知の枠組み」がありながら、その枠組みの影響から解放される「脱中心化」が起きるのと同様のことです。

 重要なことは、「問題のある認知の枠組み」の影響を日常生活に支障がない程度に低下させることであり、無くすことではない。

 無くそうとすると、仏道修行は大変な苦行になるでしょう。

 
 達磨伝で、二祖慧可が、達磨に心の病の治療法を問うたことに対し、達磨が


「その心をもってこい」


と命じられたもののの、「心」など持ってこれるはずもないことから、そもそも、心に問題があるという精神性に問題があったのだと気づき大悟したとの話はよく知られています。

 
 問題は、「問題だと思う精神性」にあります。

 自分の精神が、「問題だ」という虚妄を作り出す。

 
 「苦」を断滅しようとする「潔癖主義」の精神性にこそ問題があると気づいて欲しい。

 自分の肉体に、ほかの存在を幸福にするすばらしい機能があるのに、その機能を発揮しないまま、瞑想で人生を浪費することの愚かさに気づいて欲しい。

 瞑想により、自分の「心」……実体のないフィクションにすぎない「心」という虚妄に向いた関心を、開かれた世界に向けて、世界の素晴らしさを感じて欲しい。

 瞑想が却って不幸を醸成していることに気づいて欲しい。

 
 それを気づかないほど重い「病」にかかっているからこそ、強い「薬」= 瞑想への人生の傾注が必要になってしまうのかなとも思うのですが。



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