慈悲、そして、言語=形而上学の否定
「仏教は慈悲を以て主旨とする」
(釈宗演『一字不説』2頁)
偶然、釈宗演老師が、肥前鹿児島仏教会でなさった法話をまとめた『一字不説』に目を通したところ、いきなり目に入ったのが、冒頭引用のフレーズでした。
当り前といえば当り前、凡庸といえば凡庸。
でも、禅やテーラワーダといった「悟り」や「見性」などの一定の心理状態の獲得を目指す仏道の「実践」をしている人たちの間で、どうも忘れられがちな言葉ではないかと思われることから、却って、胸に響きます。
「慈悲」
私たちは、これを実際にやるために、仏道の実践をするのです。
「主旨」とはそういうことです。
鈴木大拙先生が次のようにおっしゃるのは、これを敷衍したものでしょう。
「四弘誓願は、「衆生無辺誓願度」で始まり、それから「煩悩無盡誓願断」へ移って行く。これは何でも道理に当らぬ順序のように思われるかも知らんが、大乗教の極秘に通じた眼から見れば、実にこうなくてはならんのである。煩悩を断ぜんというも、法門を学ばんというも、悉く衆生を済度せんとの本願から出るのである。(略)
真宗ではこの本願を弥陀の上に投影せしめているけれども、禅宗ではこれを各自の上に働き出さしめんと勉める。隻手の声をきくのも、本来の面目を見るのも無字を悟るのも、畢竟するに知的方面の話ではなくて、実にこの本願の真実相に徹底せんためである。(略)
この本願力の発動を感得しなければ、千七百則の公案も皆虚言にすぎぬ。」
(鈴木大拙『百醜千拙』93~94頁)
日々の日常生活の中で、短法身を可能な限り伸ばして、周囲に、そして、少しは自分自身にも、慈悲を注ぐために坐禅などの仏道の実践をするのです。
慈悲を注ぐことは、それ自体、仏道の実践であり、仏道の目的であって、ここに修証一如の端的があります。
テーラワーダの実践をしている人の場合、「慈悲」の瞑想という形で、「悟り」をもたらす実践の一つとして意識される人が多いのかなという気がします。
しかし、テーラワーダにおいても、結局、悟りなり、一定の満足がいく状態になった後、いかにこの世界に生きるべきか、という問題は残るのです。
「自分にとっての生死の問題(己の中の有限と無限の問題)に、いちおうのけりがついたとしても、その上でこの有限の生をどのように生きるべきかという問題は残ります。」
(【魚川祐司発言】藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』5頁)
このような生き方の問題が生じるに至ったときにの生き方の指針は、やはり、「慈悲」というべきなのではないかと思います。
テーラワーダのスマナサーラ長老も、よく「人の役に立つ生き方をしなさい」などと仰るところです。
釈尊は、古代インドにおいて、議論されていた形而上学を否定し、そこから、仏教は、一種のプラグマティズムであると言われます。
「ゴーダマ・ブッダによると、当時の思想界で行われていた種々の哲学説、宗教説は、いずれも相対的、一方的であり、結局解決し得ない形而上学的問題について論争を行っているために、確執に陥り、心理を見失っているのです。(略・このような問題について)イエスともノーとも答えなかったことが、実は一つのはっきりした立場を表明しているのです。なぜ答えなかったかといいますと、これらの形而上学的な問題の論議は益のないことであり、真実の認識、正しいさとりをもたらさぬからであるというのです。
かれは種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見であると確かに知って、そのいずれにもとらわれることなく、みずから顧みて、真の人間の生きる道をめざしました。」
(中村元『原始仏典』20~21頁)
「(形而上学的な問題について)釈尊は答えられないときには、沈黙を守る。そしてその沈黙に対する執拗な追究があり、まれに釈尊は適切な比喩を、相手または弟子に示す。
(略・「)世界の常・無常などをいつまでも求める人は、解答の得られないあいだに死ぬ。世界の常・無常などにかかわりなく、生・老・病・死の苦はあり、わたくしはその制圧を説く。それに対して、現実の実践・さとり・ニルヴァーナ(ニッパーナ、涅槃)に役立たないから、世界の常・無常などを、わたくしは説かない。わたくしの説かなかったこと、説いたことを、そのとおりに受持せよ」(要旨)という。
(略)形而上学的論議は、それに耽る人にとっては、たしかに興味は尽きないであろう。
しかしそれは、他の原理による別の形而上学とほとんどの場合に論争を引きおこし、しかもその論争はどこまでもつづいて決着はつけられず、所詮は知のための知の饗宴にすぎなくて、多くは不毛に終わる。それはまた、現実そのものにはなんのプラスにもならず、まして実践からはるかに隔たってしまう。」
(三枝充悳『仏教入門』72~73頁)
20歳代の一時期、哲学的な問題にとらわれていた時期がありました。
とらわれているのと同時に、実社会で有意義に生きて行かなければいけないという思いもあり、早く片を付けたいという気持ちもありました。
当時出した結論は、人間の認識能力には限界があり、究極的には、正しい事実関係も知ることはできず、事実関係も、自分の意思によって決断をするしかないというものでした。
正しい事実関係を知ることすらもできないということには、恐怖感も抱きましたが、しばらくすると、自分自身の「自由」の根拠を得られた気持ちになり自信が湧いてきました。
仏教が形而上学を否定したのは、人間の知的能力に限界があることから、知的能力の行使をそれが機能する適切な範囲に限定し、無駄な労力を減らして、人生の充実を図ることにあるのだと思います。
知的能力をその機能する範囲外に及ぼそうとすると、それによってもたらされる妄想にとらわれ、結局、有意義な人生を送ることに支障を来すことになるのです。
次のような記述からも、このような問題意識について共有されているのではないかと感じます。
「人生はこの生きているままで満ち足りている。そこに人騒がせな知性が入ってきて、人生を破壊しようとする。その時はじめて、われわれは生きることをやめて、何か欠けている、何か足りない、と思いはじめる。知性はそのままにしておくがよい。それはそのしかるべき領域においては、それなりに有用である。だが、生の小川の流れを邪魔させてはならない。」
(鈴木大拙『禅』51頁)
釈尊は、老い、病、死などといった苦の問題の解決を目指して、修行を始めたものとされますが、これらの問題は、知性によって解決のつく問題ではありません。
考えても、老いを止めることはできません。
病についても、古代インド当時のことですから、現在でいうと、不治の病の類いの問題で、これも考えてもどうなる問題ではない。
そして、考えても死ななくなるわけでもありません。
また、釈尊は、このような問題に迫られていたわけでもありませんでした。
彼の生活は、当時、満たされた状態にあったにもかかわらず、老い、病、死などといった「現実に発生していない問題」を妄想し、人生にむなしさを感じていたのです。
「宮崎 (略)出家前の王子の暮らしは「完全無欠の理想社会」における生活に近かったはずです。生計の心配はない。寒暖の辛さも、雨露の煩わしさからも解放されている。酒食も異性もよりどりみどり……。だけど、この満ち足りた状態にあっても、いや、むしろ満ち足りた状況にあっても、いや、むしろ満ち足りた状況にあったからこそ、そんなものじゃ解消できない「苦」が露頭してきた。
佐々木 これ以上の贅沢や幸せはないという状況に釈迦を置いてからこそ、一切皆苦という仏教の世界観が強調される。」
(佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』61頁)
仏教は、形而上学的の問題の解決などという無駄な遠回りをやめて、人生のむなしさの問題に対する解決策を端的に示そうとするものだと思います。
楽観的な人生を送るための二つの要素、すなわち、不安の解消と、価値ある人生を送ることの二つに関し、不安の解消については、瞑想、そして、価値ある人生を送ることについては、慈悲。
殊に、慈悲の強調こそが、大乗仏教の発見だったと思います。
慈しむ生活を送ると、人生が充実する。
人生のむなしさが解消する。
そういう現象が起こる。
このような現象の背景を理論的に説明することは、セカンダリーなことでしょう。
理論的説明は、第一次的に直覚される現象から言語によって推測されたものにすぎません。
精緻な理論であればあるほど、現象から離れていき、次第に、妄想になります。
第一次的に直覚される現象に対する主観的な評価ですら、私達一人一人の肉体には、別の現象が起きます
美しい、汚い、心地よい、不快だ、うまい、まずい、熱い、寒い、楽しい、苦しい……。
したがって、言語による推測を繰り返せば、繰り返すほど、第一次的に直覚される現象から離れていく結果、私たちの間には、対立が生じます。
言葉=形而上学の危険性はここにあるのではないでしょうか。
仏教は、慈悲を目的にする。
私たちは、思いやりあい、助け合う。
そのスタートラインは、同じなのに、なぜか、対立が生じて行く。
それが仏教の歴史です。
部派の分裂
上座仏教と大乗仏教
自力と他力
禅門の中の各派……
それぞれ慈悲は説き、協力し合おうなどと言います。
しかし、同時に、それぞれ自分の立場が正しく、ほかの立場が間違っているといがみあう。
無我だと言いながら、「オレがオレが」と自分たちの主張が正しく、ほかが間違っているとなじる。
それが仏教の歴史であり、現状です。
仏教の教説の中で、慈悲を主張しないものはないでしょう。
仏教の教説は、いずれも慈悲を語り、助け合いを主張する。
それにもかかわらず、なぜか、激しい対立をしている。
このような対立が生じる理由は、表面的な現象を超えて、その背後にある「真理」とされるものを妄想し、それを言語で表現しようとするためではないかと思います。
ここに言語で語ることの危険性があるのでしょう。
言語によって現象を超える「真理」を妄想する。
この段階で、「真理」に対する見解に基づく対立を生み出す危険性があるにもかかわらず、それを、ありのままに表現することに限界のある言語によって、表現してしまうことにより、更に対立を生じさせる。
釈尊が形而上学を否定した理由は、形而上学が知性の限界を超えたものを知性によって解明するものであり、それ自体が無駄であるにもかかわらず、形而上学的な見解の相違を生じさせ、正に無益な対立を産むことにあります。
そして、形而上学の議論をしている当事者たちは、その議論が有益だと思っているのですから、議論をしている当事者に対し、「議論が無益だ」と指摘することは、更に対立を産む。
そこで、釈尊は、沈黙を守った。
けれども、釈尊の後継者達は、形而上学への誘惑に打ち克つことができなかった。
人間は、語りたくなる生き物です。
その語りたくなる理由は、やはり、自己顕示欲にあるのでしょう。
語ることによって、評価されたい。
語ることによって、マウンティングしたい。
殊に、仏教のような宗教に興味を持つ人は基本的に弱い人です。
自分の人生に自信がない。
だから、宗教にすがる。
自分のすがったものと違うものがある。
元々が弱い人だから、違うものがあると、もしかしたら自分のすがっているものが間違っているのではないかと不安になる。
だから、違うものを殊更なじって否定したくなる。
弱い者は弱い者同士で支え合うことができない。
支え合うほどの強さが無いからだ……。
他人の語りに対しては、警戒心を抱くのは、当然です。
こうやって、私が書いている内容に対しても、違和感を抱き、「違う」と言いたくなる人もいるでしょう。
言語は、私たちが意思を疎通させ、慈しみ合うために有用な道具です。
言語は、私たちが合理的に考え、何が慈しむことにつながるかの正解を見つける上で、有用な道具です。
しかし、慈しむ範囲を超える語りは、却って対立を産む。
坐禅をして、心を落ち着けた後は、ただ慈しむ。
その背景や理由は語らない。
語り始めると、却って対立を産み、慈悲に反することになる。
語りは必要ない。
必要なことは慈しむことだ。
(匿名で、このようなブログを書くのも、誰かにヒントを与える可能性を確保しながら、対価を求めず、対立を避けることにあるのだと信じています)
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