所有(蓄積)ではなく作用(放出)
「企業は、社会と経済のなかに存在する被創造物である。社会や経済は、いかなる企業をも一夜にして消滅させる力を持つ。企業は、社会や経済の許しがあって存在しているのであり、社会と経済が、その企業が有用かつ生産的な仕事をしていると見なすかぎりにおいて、その存続を許されているにすぎない。」
(P.F.ドラッカー(上村惇夫訳)『【エッセンシャル版】マネジメント 基礎と原則』35頁)
引用した文章中の「企業」を「人」に置き換えてもよいように思います。
人は、「有用かつ生産的な仕事」をするために存在する。
仏道が、人について、何かが帰属する実体ではなく、「作用」であることを強調するのは、そのことも意味すると思っています。
「仏を求むれば仏を逸し、道を求むれば道を逸してしまう。自己についてもまた然り。そして自己を知ると言い得べくんば、それは自己の実体なきことを知ることである。万般を照燭し、世界を酌度して、この万種に施設する人というのは、結局、個我を超越した意識一般というべきもので、何らの実体性もない無形、無根、無本の単なる作用にすぎない。ところでその活溌々地の作用といえども、用処ただこれ無処なりで、存在以前の作用である。」
「人間は無我である。誰も因縁の力によって動いているにすぎぬ。苦も楽も素直に受けいれてすべて縁によって生まれたものと考え、勝れた報いや栄誉などを受けても、すべて自分の気づかぬ過去の因縁のせいである。いまはじめて得はしたが、縁が尽きればもとのもくあみ、なんの喜ぶこともないと、得ても失っても縁にまかせて、心を増減させることをせず、喜び(怒り悲しみ楽しみ)の風に吹き飛ばされることなく、それと気づかずに道と一つになっている。」
(柳田聖山『禅思想』54頁)
仏道は、無我説をとり、属性を帰属させる何かがあることを否定します。
無我説のように、属性を帰属させる何かがあるということが否定される結果、「所有」も、本質的に否定されます。
私たちは、作用する関係性の中にあり、その関係性の中で、適切に作用することが重要なのです。
その作用の関係性の中で、私たち自身が作用を受けて「何をかを受け取る」ことがあります。
しかし、この受け取ることも作用の関係性の中で生じるにすぎません。
私たちは、受け取った瞬間、よい作用を他に及ぼさなくてはならない。
作用を他に放出しなければならない。
ここで、作用を自己の中に蓄積しようとすること、すなわち、所有には無理があるのです。
作用を自己の中に蓄積しようとしたとき、不幸が生じるように思います。
私たちは、この肉体がなければ作用を他に及ぼすことができません。
肉体が機能するに当たっては、他の作用がこの肉体に影響を及ぼさなくてなりません。
そこで、肉体の保存のために作用を肉体に蓄積させようとします。
所有の概念の発生の根拠はここにあるのだと思うのですが、それは、同時に無理があることなのです。
利己的なあり方、自己の中に作用を蓄積して他に放出しないあり方に無理があるのは、作用し合う関係性にある私たちの本質に矛盾するからではないかと思います。
慈悲を徹底する上で、いわゆる「ブラック企業」に典型的に見られるような「搾取」の問題について、どう整理をすべきかを考えていたことがありました。
慈悲が、他者にその望む物をあたえることであるのなら、ブラック企業の従業員のようなあり方はどうなのか?
慈悲の考え方は、搾取を許容するという結果を招きかねないのではないか。
このような関係性を不穏当に感じるという私たち自身の倫理観・道徳観を信じればよいのですが、何らかの整理ができていないと不幸な方向に進んでしまう人もいそうなので、少し整理してもよいと思うのです。
ブラック企業のような搾取をする集団は、その内部に作用を蓄積し、他に有益な効果をもたらさない点で問題があり、その意味で否定されなければならないのだと思います。
個人にしろ、組織にしろ、よい作用を他に及ぼせなくなったとき、その存在する価値が問われます。
逆に、個人にしろ、組織にしろ、その維持と存続が主目的になったときには、存在が滅すべきときが近づいているということになるのでしょう。
消費者が企業から商品やサービスを購入する理由は、その商品やサービスが消費者にとって有用だからでしょう。
しかし、その企業が、(正当な対価と引き換えに)よいサービスや商品を提供する、社会に対してよい作用を及ぼすのではなく、その企業の維持・存続を目ざるようになったとき、作用を企業内に蓄積することを主目的とすることになったときには、その企業は、組織の維持・存続を優先するために、消費者を犠牲にするかもしれない危険が増すように見える。
そうなってくれば、もしかしたら欠陥商品などを買わせようとするのではないか、正当なサービスを提供しないのではないかという危惧を生み、結局、その企業の消滅が加速していくことになります。
作用を受け、作用を与える。
自分が生きるために、慈悲を受け取り、他者を生かすために、慈悲を与える。
人生は、その繰り返しです。
仏道とは、それを自覚して生きることです。
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