坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

言語と現実

 現実を言葉にすると、現実から来る不安が解消される。
 
 非現実を言葉にすると、妄想から不安が生じる。




 最近、こんなことを考えます。
 

 以前、プラユキ・ナラテボー師の瞑想会に出席したとき、日常生活で生じることについて、ラベリングをすることにより、心を落ち着かせる手法を教えていただいたことがありました。

 私は、その前に、禅の実践をしていました。

 禅の世界では、「問題」と一体化することが重視されます。

 「問題」は、それが自己と離れた対象として存在するから「問題」になります。

 しかし、「問題」と一体化してしまえば、対象となる「問題」がなくなるということになります。 

 「問題」に対し、正解を出すことではなく、「問題」そのものを消滅させることが、禅における「問題」に対する対応方法です。


「仏教者の言わんとするのは、解決はけっしてこの分離からは出て来ないということである。問うためには分離はなくてはならない。だが、分離は解決の鍵ではない、それどころか、人を解決からはばむものである。

 問いを解くとは、それと一つになることである。」

鈴木大拙『禅』27頁)


「生きるということは、問題の中で生きることです。問題を解くには、問題の一部になること、問題と一つになることです。

(略)

 問題に対処するには、一途に取り組めばそれで十分なのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』163~165頁)


 このため、臨済禅における公案の初期段階の実践では、特に、公案との一体化が重視されます。

 
 問題との一体化という考え方が身に付いていたので、プラユキ師から初めて「日常生活におけるらべリング」の話を聞かされたときには違和感を抱きました。

 ラべリングをすると、日常生活における問題が対象化されることになるので、逆方向に行くことになるのではないかと思ったのです。
 
 加えて、当時、禅の実践が成功している感覚があったので、逆方向に行くことになる実践をすることにより、禅の実践によって得た効果が失われるのではないかという危惧がありました。

 ですから、最初に、その話を聞いて以降、日常生活おけるラベリングについては、知識としてはあったのですが、実践はしていませんでした。
 禅では、言語の使用に対し、警戒することも、理由としてはありました。

 
 日常生活におけるラベリングに対する偏見がなくなってきた理由には、坐禅について、仏教的なアプローチではなく、脳科学的なアプローチをするようになったことから、禅的な思い込みから自由になったことのほか、「傾聴」の実践に取り組むようになったことが大きかったと思います。

 
 「傾聴」は、悩みを抱えた対象者に、悩みの内容を話させて、それを聞いてあげることで、対象者の悩みを解消するカウンセリングの手法です。

 カウンセラーの東山幹久は、フロイトを引用しながら、次のように説明します。

 
フロイトは、抑圧していたもの(略・について、)古代遺跡と同じで、発掘されたときから風化する、と述べています。秘密は話したときから風化します。抑圧されている秘密も風化させることが大切なのです」
(東山幹久『プロカウンセラーの聞く技術』204頁)

 
 さらに、それまでの自分の日常的な経験に照らしても、言葉に出すということは、心を落ち着かせる効果があるのではないかということに思い至るようになりました。

 たとえば、持ち物が見当たらなくなったときに、その物の名前を、「眼鏡、眼鏡」などと言いながら探すことはよくあります。

 持ち物がなくなったときには、やはり焦燥感が生まれますが、なくなった物の名前を言いながら探すと、気が紛れるような感じがします。

 そこのところを、口に出さないでいると、何やら詰まってしまうような感じがします。
 
 こんなところにも、状況を言葉に出すことの効果があるように思います。


 なぜ、現実の状況を言葉にすると、気持ちが落ち着くのか?

 
 自分なりに考え方ことは


「状況がわかっていないと、何がおきるかわかりにくいので、不安になる。
 言葉で現実の状況を表現すると、現実の状況が明確にわかっていることが更に明確になるので不安感が解消されるのではないか。」


ということです。


 このように現実の状況を言語化することには、不安感を解消する効果があるといえます。
 
 同時に、禅を含めた仏道の実践では、沈黙が重視されます。

 テーラワーダでも、ラベリングの際に、心の中で言語化をしますが、歩く瞑想などの動的な瞑想であっても、沈黙行として行われます。

 
 言語化の利点と、沈黙行との整合性をどのように考えるのでしょうか。

 私自身は、言語化の対象が「現実」なのか、「非現実」なのかによって分かれるのではないかと考えています。


 「現実」を言葉にすると、現実を明確に認識できて、不安感が解消される。
 「非現実」を言葉にすると、妄想が沸き立ち、不安感が生じる。

 
 このことは、仏教で解消しようという「苦」が「非現実的な不安」であることとも整合的であるように思います。

 仏教で解消しようという「苦」は、現在、現実に生じている「苦痛」ではありません。

 それは、現在にはないけれども、将来生じるかもしれない不利益に対する不安です。

 前回のブログでも取り上げましたが、次の『ごまかさない仏教』の記述がうまい要約だと思います。
 

「宮崎 (略)出家前の王子の暮らしは「完全無欠の理想社会」における生活に近かったはずです。生計の心配はない。寒暖の辛さも、雨露の煩わしさからも解放されている。酒食も異性もよりどりみどり……。だけど、この満ち足りた状態にあっても、いや、むしろ満ち足りた状況にあっても、いや、むしろ満ち足りた状況にあったからこそ、そんなものじゃ解消できない「苦」が露頭してきた。」

佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』)


 釈尊の解消しようとしていた「苦」は、現在、存在せず、将来において、生じるかもしれない不利益です。

 釈尊は、現在の生活が満たされており、現在、老いていないのに、老いが怖いと妄想し、現在、病んでいないのに、病むことが怖いと妄想し、現在、死んではいないのに、死ぬことが怖いと妄想する。

 釈尊の妄想は、更に突き進み、現在の生活が満たされているにもかかわらず、生き続けることもいずれ老い、病み、死ぬという不利益をもたらすものであるし、そもそも、産まれるときに産道を通ることも苦しかったではないか、すると、そもそも生きること自体が苦ではないか……、楽しいことがあっても、一過性のもので、楽しいことが過ぎ去ったあとは、その楽しかったことに対する渇きに似た欲求とそれが満たさないない不満が生じるから、楽しいことも、実は苦しいことではないかと次々妄想を暴走させます。

 妄想が暴走している釈尊は、世界の美しさを見る余裕がまったくありません。
 
 だから、釈尊は、世界の素晴らしさに気づかないまま、「一切皆苦」の妄想にとらわれます。


「春に為れば、誰れがするという譯ではないが自然とうらうら春風が吹き、花が咲いて来て、鶯が嬌音を弄する。月は何時でもあるが、殊に秋の月は皓々として冴え渡る。夏は熱いが、涼風が吹いて来て、爽快感を与えてくれる。冬に為れば、雪が降って一望白皚々の銀世界である。若し閑時の心頭に掛(かか)るたくんば、便ち是れ人の好時節で、自然界は吾々に恁(こ)ういうものを与えて、慰め楽しましめてくれています。人間孜々(しし)として終日働いているから、其労に酬(むく)ゆる為めに、之れを与(や)ろうと、春は花、夏は風、秋は月、冬は雪を与えてくれるのであります。けれども人間閑事心に掛(かか)るから、恁ういう恩賞に與って居りながら、煩悶し苦しんでいます。だから花を見ても、月を見ても、楽しまずに泣いている。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』10頁)

 
 将来について考えることは、現実に生じていない事柄に関する観念を生むことです。

 それはどんな合理的にみえるようなものであっても、現実には、存在していないものです。


 殴られて痛い、嫌だと思う。

 熱病にかかって苦しい、嫌だと思う。

 歳をとって体の節々が痛い、嫌だと思う。

 暑苦しくて寝ることができない、嫌だと思う。


 これらの事柄について、嫌だと思うことは、大した問題ではない。
 
 嫌だと思う原因は、現在確かに存在するからだ。


 けれども、現在、存在しない、将来現れるかもしれない不幸な出来事を想像して、それにとらわれ嫌忌することは、どんなに真剣に考えたことであっても、馬鹿げたことでしょう。

 なぜなら、その原因となるできことは現実には生じていない「妄想」なのですから。


「真理」とは、確かなことです。

 私たちにとって、確かなことは、現在、それぞれのいるところにある現実です。

 想起される過去や想像される未来、それらに共通すると推測される法則性は、すべて確かな現実に比べれば、どんな合理的に見えるものでも「妄想」です。

 「真理」は、この目の前で生滅を繰り返し、変化し続ける「現実」です。

 目の前に生起する『現実』を抽象化した「法則」は、『真理』であるかのような顔をしていますが、その本質は、「妄想」です。

 だから、再現のない未来の予測の過剰、妄想による不安の増大をさけるためには、『真理』、すなわち、現実に目を向ける必要がある。

 実際には、予想される不安が生じておらず、その意味で何ら問題のない、現在の現実(「衆生本来佛也!」)に目を向ける手法が、仏道における瞑想の実践です。


 私たちは、言語的な解析能力を踏まえた合理的な思考によって、未来を予測し、そのことが、私たちの生存を容易にしてくれる。
 
 言語は、有用な道具です。
 
 しかし、言語の過剰、すなわち、非現実の言語による表現は、現実にはない不安を煽り立てる妄想を生む可能性がある。
 
 
 非現実の言語化には、注意を要する。


 ……非現実の言語化に当たって大切なことは、やはり、慈悲の観点でしょう。

 自分以外のどこかにいる誰かを幸せにしたい。

 これを実現するために、非現実を言語化する。

 短歌、俳句などの詩、それらを含む文学が価値を持つのは、それ自体がどこかのだれかに気付きを与えることなどの幸福をもたらすところにあるのだと思います。


 そして、慈悲に基づくものでないのなら、非現実を語ることは避けるべきではないかと思います。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたら
クリックしていただければ幸いです