坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】受け入れ、向き会う

(1)有馬賴底『『臨済録』を読む』20~24頁

「『臨済録』から『無門関』『碧巌録』そして『大燈百二十則』――全部暗記させられました。覚えていないと火箸で叩かれました。

ところが これが役に立たない。二十二歳の時、上洛し相国寺に入ります。大津櫪堂師は、私が暗記していたものを全部剥ぎ取る。今まで一所懸命に身に付けていたものを全部剥ぎ取る。

先入観があったらダメなんです。「公案」でやられる。徹底的にやられる。

公案」を拈提し、答を出す。しかし答はないんです。それで精神的に追い込まれる。

最後の方で解るんですが、実は「公案」なんてどうでもよかった。

臨済禅師も言ってますね。「わしの教えに従ったらあかんぞ」と。

師匠の言うことに従わんでもいい。その前に全部剥ぎ取られている。空っぽになっている。その全否定こそが大事なんです。

最後は全部、受け入れる。

公案」の正解が出ようと出まいと、間違っていようと、そんなことはどうでもいい。その「どうでもいい」という所までゆかないといけない。」



(2)有馬賴底『無の道を生きる――禅の辻説法』22頁

「ことさら禅の修行なんてしなくたって、日常、これすなわち、体験であり、修行になりうるわけです。

そうした体験を通して、知ったことを全部、自分に受け入れるんですね。」



(3)内山興正『坐禅の意味と実際・生命の実物を生きる』115~117頁

坐禅がわれわれに覚めさせる生命の実物とは、まさに「自己ぎりの自己」「今ぎりの今」――「どっちへどころんでも、出逢うところがわが生命」という生命態度です。

(略)われわれは、ふつういつでも何事につけてもアレとコレと分別比較し、少しでもなんとかウマイ方へころぼうというはからいを働かせ、そのために、かえってッキョロキョロ、オドオドしながらいきています。というのは、ウマイ方を考えるかぎりは、ウマクナイ方があるのは当然であり、それゆえウマクナイ方へころぶまいという危惧が、どこまでもついてまわるからです。つまりこのウマイ方とウマクナイ方ということを分別して生きるかぎりは、決して「どっちへどうころんでもいい」というような絶対的な安らいにおいてあることはできません。

(略)

いま自分が出逢っている生命の実物通り、まっすぐに生きる姿勢態度こそが大切です。つまり、地獄へ落ちたら地獄こそ今の私の生命なのであり、真直ぐに地獄を生きぬくことであり、もし極楽へ往ったら極楽こそが今の私の生命であり、真直ぐに極楽を生きぬくという態度です。」



(4)エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』33頁 

「楽観主義者は、起きた出来事に自分がある程度影響を与えられると思っている。そして問題が起きても、それを継続的な困難としてではなく一時的な障害としてとらえ、完全と立ち向かおうとする。世界をあるがままに受けいれる傾向をもともととっている彼らは、自分の未来とは結局、自分がものごとにどう対処するかで決まると信じている。」



(5)大谷彰『マインドフルネス入門講義』17頁

「本書では、マインドフルネスを「今ここ」の体験に気付き(awareness)、それをありのままに受け入れる態度及び方法とシンプルに定義することにします。マインドフルネスでは注意の払い方と保ち方が主となるのですが、これは自律訓練法の「受動的集中(passive concentration)(略)にも共通する要素です。」



(6)大森曹玄『参禅入門』215~216頁

「「受けて立つ」態度は(略)絶対的に相手に随いながら逆に相手を包んでしまうのである。世人は浅薄に、禅は自力の道、真宗は他力宗などと割り切ってしまうが、その自力と考えられている禅すら、「受けて立つ」点で他力の真宗とまったく同じである。一般に宗教は受動的といわれるが、その受動の意味がじつは消極退嬰のものでなく、絶対主体的立場に立つ積極的のものであることを見落としてはなるまい。」



(7)佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』4頁

「ゴータマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を訓練する、一連の瞑想術を開発した。」



(8)鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』32頁

「私たちの「初心」は、その中に、すべてを含んでいます。それは、いつも豊かで、それ自体で満ち足りています。この、それ自体で満ち足りている心の状態を失ってはいけません。これは心を閉ざしてしまう、という意味ではありません。そうではなく、空(エンプティ)の心、それゆえ、つねにどんなことも受けいれる用意がある心です。心が空であるとき、それはどんなことも受けいれる、どんなことにも開かれている、という状態にあります。初心者の心には多くの可能性があります。」



(9)鈴木大拙『無心ということ』9頁~11頁 

「他力、受ける、向こうから授けるのを受ける、すなわち受動性というものが宗教にはあるのです。(略)「本性清浄」ということにもなります。この清浄とは、ただ綺麗であるとか、大空の雲のない姿で、からりとして何もないという、ただそれだけを意味するのではなくて、そういう姿でないと、そこへはものが這入ってこないのです。これは受動性をたとえたのであります。受動性は、つまり絶対的包摂性と云ってもよいものです。(略)

絶対的包摂・受動性・無抵抗主義とはある一面では同じ意味を持っている。(略)

普通には何かものに拘泥しているから、その拘泥しているものを、まず取ろうとする。(略)この空も、今申すように空に囚われるということのないようにしたいものです。空に囚われると、空は空でなくなってしまう。それで宗教は受動性ということを時々云うことがありますが、私はこの受動性が大切であると思う。」



(10)原田祖岳『延命十句観音経講話』62~63頁 

「われわれがもし忍辱、すなわち忍耐力をもって善事・善業を行ったならば、苦しみは、必ず楽しみとなって同化してくるのであります。たとい人が自分に不利益なことをしても、自分を悩ますようなことをしても、それをじっと忍耐して心にかけない。いわんやこれに対して仇を報いようとか、復讐しようとかいう考えを起さない。かえってその苦であり逆である出来事を、善意に解し、善意に用いて行きさえすれば、その逆境が自分を励ます向上の進歩の一つの逆法門、すなわち観音の慈悲の大方便となり、それを喜んで迎えるようにして行きさえすれば、その苦しみは必ず楽しみとなってくるものであります。(略)

すべての場合、どんな場合でも、決して腹は立てぬというのが忍の修行方便であります」



(11)バンテ・H・グナラタナ(出村桂子訳)『エイトマインドフル・ステップス』

「問題が起こると、苦しみが生まれます。これは避けられません。このことを理解し、他のものを非難することなく、苦しみをあるがままに受け入れることが、一番目の「苦の真理」なのです。

ブッダは「幸せに向かって道を歩み始めるには、苦しみにたいして怒ったり、落ち込んだり、悲観的にならずに、感情を安定させ、心を落ち着け、まっすぐに苦しみを観察するように」とおっしゃいました。

苦しみを真正面から観察することが大切です。覚りを開いていない人はだれでも、人生で経験することはすべて、いくらか苦しみをもたらすのです。」(63頁)

「逃げることなく苦しみを観察するなら、真の幸せを理解することができます」76頁 



(12)藤田一照『現代坐禅講義』

「植物は動かないですからね。ただ太陽の光を受け取り、空気を受け取り、水も受け取り、土壌からも受け取り、と全てがそうですよね。(略)エネルギーを環流させるというのもありますけど、エネルギーは自分の身体のなかだけではなくて周りにも充満しているわけですから、あのかたちはエネルギーを受けとる姿勢だと言ってもいいわけですよね。(略)

(蓮華坐=結跏趺坐は)自分の内輪だけで閉じているのではなくて、外界からの様々なエネルギーを十分受け取るための開かれた姿勢になりますよね。」(343頁)

坐禅は決して外界を遮断し自分を閉ざした「内面への沈潜」ではなく、(略)自分をオープンにしてしっかり外界を受け止め、それと深い繋がりを持つことなのです。」(424頁)



(13)渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』153~155頁

「ていねいに生きるとは、どういう生き方なのでしょう。数年前、私は「ひとのいのちも、ものも、両手でいただきなさい」という言葉に出合いました。そしてこれは、私にていねいに生きる一つのヒントになりました。

誰が考えてもよいもの、ありがたいもの、例えば賞状、卒業証書、花束などを両手でいただくのには、何の抵抗もないでしょう。しかし、自分がほしくないものだと、そうはいきません。拒否したい、突き返したいようなものが差し出された時、果して、それらを受けとめるだけでなく、両手でいただく心になれるだろうか、と私は、自分に問いかけ続けています。

聖書の中に、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントⅠ・10・13)とあります。(略)

何事もリハーサルしておくと、本番で落ちついていられるように、大きな死のリハーサルとして、“小さな死”を、生きている間にしておくことができます。

“小さな死”とは、自分のわがままを抑えて、他人の喜びとなる生き方をすること、面倒なことを面倒くさがらず笑顔で行うこと、仕返しや口答えを我慢することなど、自己中心的な自分との絶え間ない戦いにおいて実現できるものなのです。

「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」ように、私たちの“小さな死”は、いのちを生むのです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたらクリックしていただければ幸いです。

本ブログの記事に対する質問はこちらを参照してください。

「本ブログの記事に対する質問について」

https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/10/053529