坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

釈迦という男をどう見るか?

 仏教を、「病院」や「薬」という比喩で捉える見方があります。


「「苦・集・滅・道」という四諦の教えを見るといつも私は思うのですが、仏教という宗教は、まるで病院のような存在です。仏教は「心の病院」なのです。」

佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』28頁)


「説法は要するに薬のようなものである。病気が治ったら薬は無用なばかりか、かえって有害なものである、というのが彼の持説である。」

(前田利鎌『臨済荘子』22頁)


「(ブッダは)「苦しみは病気である」と説かれました。ブッダは医者のごとく、病気の原因を診断します。病気を完治させるためには、ブッダの治療をすることです。そして、治療法〔道〕は、ブッダが私たちの病気を治すために処方したくすり〔教え〕を摂る〔実践する〕ことなのです。」

(バンテ・H・グナラタナ(出村桂子訳)『エイトマインドフル・ステップス』62頁)


 仏教が心の病院や薬であるなら、その行を実践する人は、患者といえるでしょう。

 釈尊は、元々心の病気を持っていて、自分で、これを治癒する方法を開発し、その方法を伝えるものが仏教である。


 私は、このような考え方が妥当ではないかと思っています。

 そして、このような観点からすると、仏教について、面白い分析、単に、面白いだけではなく、実践の上で有益な見方ができるようになる、と思っています。


 釈尊が、本当に実在したのであれば、この人は、かなり重度のうつ病の類だったのではないでしょうか。

 彼の仏伝からすれば、釈尊は、異常に神経質なところがあります。


 いわゆる四苦八苦について、老いや、病や、死についてはわかります。

 しかし、「生」とは?

 いわれてみれば、生きる上での問題がありますから、それもそうなのかな……と思うのですが。

 さらに、八苦になってくると、なにか楽しいこと、快楽をもたらすことがあっても、一過性で、過ぎ去った後、改めて快楽をもとめることが、問題に感じられるという……。

 言われてみれば、そんな気もするけれども、しかし、そんなことを神経質に考える人がどの程度いるのでしょうか?


そもそも、釈尊は、食べるものに苦労することはなく、家族もいて、まあ性欲も満たされていたわけです。

 実社会生活には何の苦労もない。

古代インドという当時の状況からすれば、とても満たされた人間なのです。


 それにもかかわらず、将来、自分が齢をとって、病気にかかって、死ぬということが、とても不安を感じて仕方ない。

 それで当初、苦行をするのですが、そのようなことをしなければ解消できない不安があると感じている釈尊の精神性に問題はないのでしょうか?


 確かに、私たちは、将来の老いや、病や、死について不安に感じることもありますが、多くの人は、そのような問題を自然と解消していきます。

 死の間際になって、肚がすわり、なにやら清々しく余生を送る人の姿もよくみるところです。

 やはり、彼は、重度のうつ病の類いにかかっていたと見ることが正しいのではないでしょうか。


 釈尊は、当時のインドの修行者の瞑想の方法、サマタ瞑想であるところの色界第四禅定を修めたにもかかわらず、それでは足りず、自ら更に修行して、ヴィッパサナー瞑想を産み出したものとされます。

 このエピソードについて、当時の外道の師匠が劣っていて、釈尊が優れていたという見方が多いようです。 

 しかし、外道の中では、色界第四禅定で精神的に安定する領域に行くのに、釈尊うつ病が重度のものであったことから、色界第四禅定では十分治療ができず、さらに強力な瞑想方法を開発する必要が生じたという見方が正しいのではないでしょうか。


私は、テーラワーダの実践に疑問を持っています。

その一つが「一切皆苦」という考え方です。


「一 すべての形成されたものは無常である。(諸行無常

 二 すべての形成されたものは苦しみである。(一切行苦)

 三 すべての事物は私でないものである。(諸法無我

(普通は、諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印といいますが、右が原初の三法印です)

(田上太秀『迷いから悟りへの十二章』13頁)


 原初の三法印というものは、ダンマパダ(法句経)第20章に出てくるものです。

 一切皆苦(前記引用の中では、「一切行苦」)は、原始仏教における基本原理の一つです。

 しかし、私は、前記引用の中に出てくるとおり、当初、原初の三法印として、基本原理とされていたものが、後に、「普通は、諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印といいます」と変わったことを重要ではないかと思っています。


 というのは、「諸行無常」と「諸法無我」は、基本原理だけれども、「一切皆苦」は、基本原理とはいえないからです。

 「諸行無常」と「諸法無我」は、基本原理であり、変わるものではありません。

 しかし、「一切皆苦」は、変わるものです。

 すなわち、仏教において、「涅槃寂静」とは、苦の解消がされた状態であり、「苦」は何らかの形で解消されるものです。

 その意味で、「一切皆苦」はあらゆる場合に妥当するものではないのですから、基本原理とはいえないように思います。


 苦しいのも、楽しいのも、心の持ち方、物事に対する解釈の仕方の違いです。


「闘争も不幸もすべて心の持ちよう=解釈=一つ、同じ事実も見ように依って蓮華にもなれば汚物ともなる。嬉しくもなり悲しくもなる。好きにもなり嫌いにもなる。黄金にもなれば糞土にもなる。すべてこちらの業の現れによって、客観世界が如何ようにも変って来るものである。だから同じく五十年の人生も、人の心の持ちよう、即ち解釈、見方一つで地獄にもなれば極楽にもなる。」

(原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』108頁)


「凡夫は常に生死の為めに縛られて、三界六道昇沈の相に苦しんで居るのは何故ぞというに、是れは宇宙その物より苦しめらるるに非ずして、皆な各自が自ら作り出だせし業相であります(略)此生死に対する観念亦之と同じく、苦痛と観るも愉快と観るも、その観る人の業障と思想のとの致す所である」

(新井石禅『教理と信仰』44頁)


 幸か不幸かは、心がつくるのです。心は経験をつくり、心がつくるものに応じて、私たちは楽しんだり苦しんだりしています。それでブッダは、「人は、今世で天国と地獄をつくっている」と話されました。覚りに達しないかぎり、さまざまな経験が強い苦しみを引き起こすのです。

(バンテ・H・グナラタナ(出村桂子訳)『エイトマインドフル・ステップス』63頁)


 要は、心の持ちようであるということは、誰しも、日常生活で感じているのかなと思います。

 しかし、頭でわかっていても、実際に、心のもちようだと割りきって行動できるかは別です。

 心の余裕を作り出すことにより、多様な解釈……「活殺自在の活用!」を可能にするものが坐禅です。


 仏教の行は、苦への対処を目的とするものですから、元々、苦に感じていなかったものを苦にする必要はないはずです。

 たとえば、楽しい思いをしている場合でも、それがなくなった後は、その思いを再び渇望するようになることが苦になるという。

 確かに、そのような心理状態になることはある。

 しかし、そのような心理状態になることが、自分自身の生に疑問を抱かせるような深刻なものになってしまう人は実際にはほとんどいないだろう。

 確かに、言われてみれば、そうかもしれないけれども、言われなければ、どうでもよいものとしてスルーされてしまうもの。

 この種の「苦」も最終的に克服されるものなのだから、わざわざ寝た子を起こす必要はない。


 ところが、過度に、釈尊をトレースしようとする人は、「一切皆苦」という心理状態に一度はならないといけないと思い込んでしまう。

 あるテーラワーダの実践をしている方は、テーラワーダの実践者の勉強会や交流会にいかない理由として、「行くと、不幸自慢、『苦』のアピールの場になってしまうことが嫌だ。」と言っていいました。

 また、テーラワーダのリトリートに参加した方から、リトリート後の心理的変化について聞くと、「終わった直後は、世界が汚く見えた」という感想を漏らす人が少なからずいます。

 おそらく、変成意識下で生じた幻覚が「一切皆苦」という事前情報を通して解釈された結果だと思われます。

 仏道の実践に興味を持つ方には、うつ傾向のある方が少なくないように思われますが、「一切皆苦」の強調は、うつ傾向を殊更に強める点で問題があるように思います。


 仏教が、病院、あるいは、薬であるなら、そもそも健康である人には不要ですし、また、症状も人により異なるはずです。

 「一切皆苦」という見方そのものが克服すべき対象である以上、重度のうつ病患者である釈尊にお付き合いする必要はないのです。

 
 自分自身、単に、坐禅をするだけでなく、テーラワーダの瞑想会に行ったり、臨済禅の公案修行をしに行くなどして、ほかの人と話をして思うことは、「坐禅だけでは足りない。」という人が相当数いることです。

 
 坐禅により、扁桃体の活動が低下したり、男性ホルモンであるテストステロンが分泌されるのは、生理学的に、いわば、普遍的に生じるものですから、本来誰もが、その効果を実感できるもののはずです。

 私自身は、坐禅をするだけで、日常生活で前向きに取り組めるようになり、効果を実感することができました。

 効果を実感したからこそ、坐禅というものを深く知りたくなり、公案参禅もするようになったのです。

 ですから、正直、坐禅だけでは足りないという人の感覚がわからないところがあります。


 坐禅だけでは駄目だ、公案参禅も必要だ、という人には、坐禅だけでは駄目だと感じてしまう理由がある。
 
 坐禅だけでは治癒することのできないより深い病があるからこそ、より強い治療方法としての公案を必要とする。

臨済禅の公案修行をしている人の中には、単に、坐禅をしている人に比べて自分が優れているというような感じの方が少なくありません。

 しかし、坐禅だけではなく、公案も必要だと思ってしまう精神性こそが問題なのではないかという気がします。


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