坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

戦争と禅と日本国憲法

1 個人的なこと



前置きに少し個人的なことを書きます。

私は、1970年代生まれですが、父が歳をくってからできた子どもであり、父は、一兵卒(二等兵上等兵のいずれかですが詳しくは知りません)としてニューギニア終戦を迎えました。

ニューギニア戦は、ガダルカナル島攻防戦において、約3万5000人を投入したものの、約2万4000人が戦死(うち約1万5000人が餓死とされます)して敗走したこと(保坂正康『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』114頁)を、大本営が「転進」と称して発表した後に起こりました。



「大事なのは、どこに戦いを求めて転進したのかです。陸海両総長(参謀総長軍令部総長)が天皇に報告に行った時、『ではどこへ攻勢に出るのか』と聞かれ、『これから十分に作戦を練ります』と答えればいいものを、参謀総長杉山元が『ニューギニアです』と言ったんですね。そうして今後はニューギニアで惨憺たる戦いがはじまるのです。(略)そして十七万人の将兵が、終戦日まで戦闘(餓死とマラリアとの戦いを含めます)を続け生還し得たものを一万数千という悲惨となったのです」

半藤一利『昭和史1926-1945』414頁)



戦闘する前の行軍の過程でお亡くなりになった方も多く、このような状況もあったようです。



「糧秣(りょうまつ)の不足は、人間性を最も露骨に現し、戦友をだまし、盗み、時には殺人までして、食糧を少しでも多く、自分だけでいいから手に入れたいとの行為が、相次いで見られ、鬼畜の振舞いもこれまでと思われることが平常となった。」

(大塚楠雄『玉砕の島への道』からの引用。飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』76頁)

「軍の組織が崩壊したところでは、兵士たちは原始の昔に還るのです。容易に共食いが行われたようです。戦後の収容所の中でそれに類した話を、私は何回も耳にしました。

『あのなあ、転進者の生き残りがたむろしているところにはな、単独で兵隊を使いに出せないんだ。どこから撃たれて食われるかわからねえからだ』(略)

極限状態に曝された人間は、人類が何千年もかけて作り上げてきた道徳や倫理を、一挙に引っくり返します。」

(飯田前掲書93頁)



3万5000人を送って、1万5000人を餓死させて敗走を余儀なくしたことをごまかすために、17万人を送って、1万人以上を同様に死に至らしめる矛盾。

戦争は多数のアクターが関わり合うのですから、特定の視点から評価することは難しい面もあります。しかし、当時の軍官僚の言行からすると、軍官僚の出世と保身という面が強いように思われます。

インパール作戦等を含めこのような例のキリはありませんが、戦争開始の局面として特徴的なものとして、ウィキペディアに出ていた「海軍戦争検討会議記録」の孫引きですが、次のようなことがあったようです。



「及川古志郎海軍大臣が、陸軍大臣東條英機に『戦争の勝利の自信はどうか』と聞かれた時、『それはない』と答えた。それを聞いた東條は『仮にも海軍に自信がないのならば国策を考え直さなければならない』と述べたが、及川は、あくまで私的な場所での発言としてくれと付け加え、午後の連絡会議では議題に挙がることはなかった。

井上(成美)が日独伊三国軍事同盟成立時の海軍大臣であった及川に『何故、海軍は戦えません、とはっきり言わなかったのか』と質したのに対し、及川は日本海海戦の英雄東郷平八郎元帥の怒鳴り込みにおびえたと答えている。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E



当時、海軍は、米国を仮想敵国とし、戦艦の築造等の必要があることを理由として、陸軍の約2倍の予算を取っていましたから、今更、米国相手に戦争はできないとは言いがたかったのであると思われますが、ここにも、当時の軍幹部が自己保身のために、判断を曲げた一面が現われているように思えます。



私の個人的な事柄に戻りますが、父は、世代的に当然というか、愛国心が強く、私が小学校の年中くらいまではよく一緒に靖国神社に連れて行かれました。父は、凄惨な戦地で亡くなった仲間の魂が本当にそこに集っているのだと思っていたのでしょう。

しかし、同時に、父は、当時の戦争指導者を強く憎んでいました。私が小学生の頃辺りまでは、当時の戦争指導者の方もテレビに出てくることがよくありましたが、そのたびにテレビに向かって、その人をののしっていました。当時は、その父の姿が異常に思え、嫌でした。

けれども、父が亡くなった後になって、改めて戦争の悲惨と、ニューギニア戦等の戦争の経緯を学ぶ中で、父をある程度理解できるようになりました。自分自身のメンツで、自分たちを全く戦略的合理性のない戦地に送り込み、そして戦友の多数を餓死、病死させた。そのような人間を許すことができなかったのでしょう。



私は、父との折り合いが悪く、父を憎んでいるところもありました。ニューギニア戦について学んだり、従軍したことをきっかけにPTSDになる事象を知ったりするうちに、私の憎んでいた父の人格は、悲惨な戦争体験に起因するものではないかと思うようになりました。父は、時折、戦争の際の現地住民の方に対する差別的な言動を自慢話的にすることもあり、それも私には嫌なことでしたが、今考えると、悲惨な記憶に耐えるための躁的防衛だったのかも知れません。

私は、父を憎んでいましたから、父とは違う生き方をしたいと思ってきたのですが、母からは、よく父と似てきたと言われます。坐禅をするようになってしばらくして、母から、父も坐禅をしていたという話を聞かされました。父は、敬虔な日蓮宗の信徒であるということは分かっていましたが、坐禅をしていたということは母から言われるまで知りませんでした。日蓮聖人は「禅天魔」を唱えていましたから、聞いた当初は違和感を抱きました。

先の引用の中で、ニューギニア戦における戦友に対する非人道的行為に触れましたが、おそらく父も同様のことをしていたのだと思います。そうでなければ、凄惨な戦地を生き延びることを想像できません。

坐禅会や瞑想会に参加するようになってから、何らかの形で心を病んでいる人が、この種の集りに参加するのだということが本当のことであるとわかりました。

父も、ニューギニア戦の地獄のような恐怖のほか、自分自身が非人道的な行為を行ったことから救われたいという気持ちが強かったのではないか。それだからこそ、禅に行ったり、日蓮宗に行ったりなどといった宗教遍歴をしたのではないかと思います。



2 禅修行者の戦争責任と禅修行への懐疑



少し前にも引用しましたが、明治期から昭和初期にかけて禅が流行したことがありました。

【参考】
魔境(2)――坐禅の生理学的効果(11)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/09/073224?_ga=2.37830948.682442813.1597451445-541515618.1562325655

特に、軍人の中で、禅の実践に取り組む者が増えたとされています。



「この時期に禅宗は大流行している。その原因の一つは、清との外交関係が悪化し、明治27 年(1894)7 月に日清戦争が始まったことだ。江戸時代の武士の中には心の鍛錬のために禅寺に通って坐禅する者がいたのと同じように、戦争に備えて参禅する軍人が増えたのだ。そうした風潮をよく表しているのが、曹洞宗管長であった森田悟由(1834-1915)がこの年に『軍人禅話』を刊行し、死を軽んじて戦うべきことを訓戒したことだ。本書の冒頭には、忠義を尽くすよう軍人に命じた明治天皇の『軍人勅諭』が赤字で印刷されている。」

石井公成「近代におけるZenの登場と心の探究(1)」『駒澤大學佛教學部論集 第49號』338~339頁)



有名なところでは、乃木希典南天棒中原鄧州老師に参禅していたことでしょうか。

日中戦争以後の軍幹部の中で、禅に傾倒していた方として知られているのは、林銑十郎、堀内文次郎、小笠原長生、今村均といった方々でしょう。

このような状況からすると、彼らよりも下級の軍官僚の中にも、彼らの影響を受け、相当数参禅者がいたはずです。

そして、このような陣容からすると、ニューギニア侵攻を含めた軍幹部の保身等が目的の作戦を止めようとする立場にいた方も、その長い指揮系統のどこかにはきっといたはずです。

禅の修行により道眼が磨かれるというのであれば、如何に愚かな作戦であるかわかったでしょうし、また、禅の修行により道力が身に付くというのであれば、軍での自分の立場や、その後、自分自身が政治犯などとして責任を追及される不安に打ち勝って、組織の中にあって、作戦中止のために奔走することができたはずであると思うのです。

しかし、そんな人の話が聞えてくることはありません。皆、時流におもねっていたのでしょう。

出家者も、戦争当時は時流におもねる状況でした。



満洲事変以降の禅宗教団のあゆみは、ほとんどそのまま戦争協力の歴史であった。(略)禅宗の各教団は、仏教連合会(1941年に大日本仏教会に発展)や仏教護国団に参加し、1944年には、あらゆる宗教を一元化した大日本戦時宗教報国会に参加することになった。

こうした状況の中で、宗門本来の思想と現実の行動を調整する必要が生じ、禅僧や宗学者を中心に、いわゆる『戦時教学』が展開された。その典型は、山崎益宗(1862―1961)、杉本五郎(1900-1937)の師弟によって展開された皇道禅(天皇宗)である。杉本の『大義』(1938年)に、『大義に透徹せんと要せば、須らく先づ禅教に入って我執を去れ』といい、『諸宗諸学を総合し、人類を救済し給うは、実に天皇御一神におわします』と説くように、これは禅思想を尊皇思想に統合しようとしたものであった。」

(伊吹敦『禅の歴史』300頁)



本ブログでは、朝比奈宗源老師を好意的に取り上げることが少なくありません。

【参考】
佛心
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/20/220847?_ga=2.37700007.682442813.1597451445-541515618.1562325655

宗源老師も、当時は、次のような発言をしていたそうです。



臨済宗円覚寺派円覚寺貫主として活躍した朝比奈宗源の、太平洋戦争下の政治的言説は、どのようなものであったか。

われわれは、かれによると、日本民族の『存亡』をかけた『大決戦』を前にして、『口舌』だけの『拠身捨命』では、『思想戦の指導者』にはなれない。『仏法の実』を示すのは、まさに『今』である。『行持』とは、『読経礼拝や行乞』ではない。『忠君の行であり報国の行であり戦力増強の行』でなければならない。『勇猛な志気』で『純一無雑に国家に奉仕せよ、活禅はそこに』ある。」

(栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争――共生の倫理との矛盾――』305~306頁)



沢木興道老師も、本ブログでは好意的に取り上げることが多いですが、同じような感じでした。



仏道無上誓願成は皇道無上誓願成と言ってよい。まことにこの度の戦争は皇道を世界一杯に拡げることである。この日本の皇道,即ち仏道をアジアはおろか,全世界に遠慮なく弘めねばならぬ。我々はこの道によって三民主義を破り,民主主義を破り,自由主義をやぶらねばならぬ。これが我々日本国民なのである。」

(沢木興道『観音経提唱』からの引用。新野和暢「皇道仏教という思想――十五年戦争期の大陸布教と国家――」『人文學報 108号』99頁)



「民主主義を破り、自由主義をやぶらねばならぬ」というのは、坊主憎けりゃ、袈裟まで憎いの類で、当時の日本は民主的でもなければ、自由でもないことを白状しているようなものです。

「どこかの団体を全体として良いものと支持することはできません」と申し上げているところですが、特定の人を全体として良いものと支持することもできないのです。

【参考】
「本ブログの記事に対する質問ついて」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/10/053529?_ga=2.239969284.682442813.1597451445-541515618.1562325655

当時の出家者が安易に時流に乗った背景として、鈴木大拙先生は、次のようなことを仰います。



鈴木大拙が、日本の僧侶の特質を、『随順』に求めていた点に注目する必要がある。この特質が各時代の権力に迎合・追従したり、さらには、権力のイデオロギー的教化の担い手となる、思想内在的要因の一つであったとみなすことができるからである。

今まで戦争を謳歌して、軍閥・官僚・財閥の太鼓を叩いた坊さん達は、今度は進駐軍のために大法螺貝を吹き立てることであろう。(略)今までの仏教は鎮護国家で動いて居た。戦争中は殊にこれがやかましく言ひ囃された。(略)彼等に自主的思索と云ふべきものの片鱗をも認められぬのは、何と云っても今日の痛恨事である。」

(栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争――共生の倫理との矛盾――』312~313頁)



「世縁に随順する」ことは、禅では重要な発想です。



「故人の所謂、処々真、処々真、随処に主となり、――箇々転処に立在す、と云う、それを事々物々上に於て実践躬行する、それが真箇の正禅であります。真箇の正禅は世縁に随順して決して世縁と相違したり違反したり致しません。(略)真箇世縁に随順することが出来ますれば、坐禅をなさらなくとも、禅書を御覧になさらずとも、禅の提唱をお聞きになさらずとも、それで完全の正禅者であります。」

(菅原時保『碧巌録講演(其二)』61~62頁)



その時、その場でなすべきことをなす。

「衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の端的ですが、それでは、ニューギニア侵攻が当時の軍官僚にとってなすべきことであったのか。

当時の指揮系統には、どこかの段階で、禅修行をしていた軍官僚がいてもおかしくなかったはずだと思うのですが、声を上げる人は誰もいなかったようです。

「世縁随順」は、勘違いすると「長い物には巻かれろ」ということになりかねません。

この点については、先に挙げたウィキペディアの引用の中に引用した及川古志郎氏(漢籍の大家でもあったようです。)に対する井上成美氏の論評が上手く表現しています。



「井上成美大将は『漢籍は元々、結論のみ記載されており、そこに至る過程が省かれている。つまり論理的でない。漢籍を得意とする及川の思想もこれに似たものである。論理的に考える頭脳がないから、結果として自分のおかれた状況にふらふらと従うばかりである』と述懐している。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E



禅の実践に興味がある方は気を付けなければならないところかと思います。

戦争当時の禅修行者の方の回想の類いもありますが、ほとんどが敵と戦闘をするときにどうやって恐怖心を振り払ったか、恐怖心を振り払う上で禅の修行が役立ったというような類のものであり、当時の社会風潮に従って長い物に巻かれた類いのものにすぎません。

反戦運動をやって、警察に逮捕され、拷問を受けたけれども、禅の修行によって耐えられたという類いの話もあってもよさそうですが、まるで聞きません。

それでいて、戦争が終わった後、戦争当時言いたくても言えなかったなどと弁解をする鈴木大拙先生のような方もいらっしゃいます。

禅の修行が人格を高め、精神力を高めることを狙いの一つとするのであれば、国家権力のような自分よりも遙かに強大なものと対峙するようなものでなければ存在価値がありません。

禅の修行は、強者の犬になるためのものなのでしょうか。



「日本の仏教徒は、戦争中ほとんどが戦争に反対できず、逆に戦争に協力してきた。本師山田無文老師は、深くそのことを反省懺悔されていた。『師匠の関精拙老師の尻にくっついて、『兵隊さん、お国のために死んでください。』と、大陸まで出かけて行ったのは、間違っていた。仏教の僧侶が鉄砲取って戦争に加担したりしたのは、日本の仏教徒だけだ。もう二度とあんなことをしてはならない』と。」

(秋月龍珉『誤解された仏教』52~53頁)



この引用の中に現われる関精拙老師は、近代の禅匠としては高く評価されている方です。



「私はかつて中野先生に、次のようなお話を聴いた。『戦前、自分はあることから、曹洞・臨済の当時の師家・学究を歴訪したことがあった。そのとき自分はまずたずねた。私は近角門下の信仰に決定した真宗人であって、禅のことは何も知らない。(略)私が聞きたいのは、あなたご自身の経験した“悟り”である。私を納得させるだけの“悟り”の話をきかしてくれた人は、たった二人であった。一人は曹洞宗の渡辺玄宗禅師、いま一人は臨済宗の関精拙老師である。』」

(秋月龍珉の著作からの引用。大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』265~266頁)



数少ない本当に悟ったとされる老師ですら、先のように安易に戦争を肯定していたのです。



先の戦争については、対外関係上の戦争責任が問題とされがちですが、無視できないのは、当時の戦争指導者の同胞に対する責任です。

軍官僚が、ニューギニア侵攻のように、自己保身や面子のために、万単位で同胞を戦略的に無意味な戦地に送り込み、その多くを餓死ないし病死させる。

恐ろしいことですが、それを禅の修行をしていた方も一緒になって推進していったのは一体どういうことなのだろうかとも思うのです。



禅の修行をしていても、悟っていても、国家権力は怖い。それはそれで仕方がないとも思うのです。多分、私も、当時の状況下に送られれば、同調圧力に従って、戦争遂行に邁進していたと思います。

禅の修行をしていても、国家権力等の強者に服従する。

本ブログでは、禅の「修行」を含めたマニアックな仏教の実践について、否定的な記述をすることが多いですが、その背景には、このような禅修行者の強者に対する迎合的な態度もあります。つまるところ、仏教の実践をしても、それだけでは大した人間になるわけではないのです。



坐禅の実践によって、扁桃体の活動が低下することにより、日常生活における不安感が治り易くなり、困難を乗り越える気力が湧きやすくなったり、人を思いやる余裕ができやすくなることは間違いないのではないかと思います。

【参考】
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328?_ga=2.34538790.682442813.1597451445-541515618.1562325655

私が「必要な人には」坐禅を勧めたいと思う理由は、ここにあります。

若干のうつ傾向、不安傾向があって日常生活が上手くいかないなという人は試してみる価値があると思います。

心に余裕ができて、人を思いやることがやりやすくなれば、人格的にもよくなったと評価されやすくなるとも思います。

しかし、それは飽くまでもその程度のものと了解しておくべきものでしょう。

禅の「修行」などをしても、それだけで突出した人格者にならないことは先の戦争の経験から明白です。

副作用などを考えてもやり過ぎないことが無難です。



3 自律と日本国憲法的価値観



先の戦争と禅の修行者の方のあり様を踏まえて強く感じることは、個人の自律的な判断の重要性です。

日本国憲法の人権規程は、個人の尊厳を基調に自由と平等を強調するものです。

しかし、坐禅を始めてから禅に興味を持つ人に接する中で、太平洋戦争当時の日本国民に見られるような全体主義的発想の人が少なくないことがわかりました。

先に引用した沢木興道老師の言葉に引用されるような「民主主義を破り、自由主義をやぶらねばならぬ」というような発想の人です。

よく言われるのは、自由を前面に出す日本国憲法のせいで、利己的な人間が増えたという類いの発言をする人が少なくありません。

しかし、ニューギニア侵攻の例に見られるように、戦争当時の軍官僚の言動を見ると、組織の中での保身や出世のために、利己的に作戦を指示した人も少なからずいたのですから、日本国憲法のせいで、特に日本国民が利己的になったというわけではないでしょう。

禅に興味をもつ人の中に、全体主義的発想を持つ人が少なくない理由の一つは、禅の「修行」においては、師家と呼ばれる指導者が絶対的権威を持つため、指導者に対する服従という発想に行きやすいからということがあるように思います。

もう一つは、仏教でいう「無我」の考え方が、「滅私奉公」的イメージがあるからであると思われます。

しかし、仏教でいう「無我」がこのような考え方ではないことは、南直哉師が、それこそ先の戦争を題材にして明快に説明をしていらっしゃいます。



「『無我』(略)普通、一般人がこの言葉を聞くと、(略)『わがままを言わない』ことを意味する(略)

わがままを言わずに何をするかといえば、『いまなすべきことをひたすらなす』のだ、とこうなる。そのときもし、『なすべきこと』を他人に決められるとしたら、それは、その他人に対して『滅私奉公」することと寸分違わない。(略)

世上に流布する『無我』と『滅私』の取り違えには、仏教者の側にもだいぶ責任があるあろう。

いつぞや、八十過ぎの知り合いのおじいさんと話していたら、彼はこんなことを言った。
『ちょうど戦争が終わり近くになって、そろそろ本土も危ないと言われ出したころ、仏教で言う『無我』ということは、たとえばいまなら、お国のために命を捨てることだと説教していた坊さんがいたな。(略)」

ハッキリ言っておきたい。一般に仏教語の『我』とは、常に同一で普遍の実体を意味するのであって、『無我』は、それが私たちの思い込みによる錯覚にすぎない、ということを教える言葉なのだ。

したがって、(略)『滅私奉公』の『公』は、どんな固定した真理も実体もない。それが『無我』の意味だ。裏返せば、私たちが『主体的』と呼ぶべき生き方を築き上げるための、前提中の前提こそが『無我』なのだ、ということである。」

(南直哉『語る禅僧』61~64頁)



一般に流布しがちな禅に対する個性を抑圧するものというイメージに対する警戒感を訴える方も少なくありません。



「有用とはなにか。

たとえば、企業で有用な人間といえば、企業を大いに儲けさせてくれる人間であり、そういう陣頭に立って働く人でなくても、最低限、企業の管理に、きっちり当てはまる人であろう。もっと端的にいえば、社長を頂点として、上司の思い通りに動いてくれる人間であろう。

そういう人間になってくれることを、企業では、『人間形成』と称する。なんという傲慢であろうか。自分の思い通りになる人間が有用であり、思い通りにならぬ人間は無用と斥ける、そのために『人間形成』するという。そういう人間形成に禅が役立つとすれば、それは、企業にとっては『善』であろうが、形成されたナマの人間にとって、これほどの『悪』はない。

禅の有用とは、そんなちょこまかした、ちいさなちいさな世界に人間を閉じ込めることではないのである。禅は、あくまでも個人の『さとり』であり、全体の中での矮小化とは、本質的に違うのである。

だから、そうした、期待を込めての『人間形成』のための新人社員教育に、禅が利用されるなんて、真っ平である。これほど、禅を悪用することはないからである。

そのような野心、もしくは意図をもって来られた人に、私は、いつもつぎの言葉をのべて、返事にかえている。

達磨大師、梁の武帝に見ゆ。帝問う。朕、寺をたて僧を度す。何の功徳がある。達磨いわく、無功徳』(葛藤集)。」

(関大徹『食えなんだら食うな』102~103頁))



私は、様々な仏教の考え方の内、倫理的なものとしては、「慈悲」が重要であると思っていますが、認識論的なものとしては、「無記」が重要であると思っています。

【参考】
不確かな世界を愛している
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/02/17/072810?_ga=2.94470362.736804194.1596843559-541515618.1562325655

私たちは、目の前に世界が展開していることしか「わからない」。

世界の背後に何があるのかわからないし、他人の頭の中のこともわからない。

次の一瞬何が起きるのかもわからない。

私たちの認識能力には限界があります。



ほかの人がいっていることもそれが本当なのかどうかもわからない。

また、自分が今正しいと思っていることも本当に正しいのかもわからない。

だから、私たちは、何か意識的に行動をするときには、自分の意志を基準にして行動するしかない。

この自分の意志を基準にして行動するしかないところに、個々人の意志の自由の基礎付けがあると考えています。



「われわれは知性に生きるのではなく、意志に生きる(略)。『われわれは、理解の行為と意志の行為とを歴然と区別すべきである。前者は比較的価値の低いものだが、後者は一切である』というブラザー・ローレンスの言葉(『神のみ前の行い』)は真理である。」

鈴木大拙『禅』68頁)



私たちの知性には限界があります。

しかし、私たちは生きて行かなければいけない。

わからなくても生きてはいかなければならないときに、私たちの行動の決定要因は、私たちの内側にあるもの、すなわち、意志しかありません。

私たちは、常に自分の内側から答えを出して生きていかねばならず、そして、つい見落としがちですが、私たちは、生まれてこの方、ずっと、自分の外側にある答えを探し出してそれに従っていたのではなく、自分の内側から答えを出して生きてきたのです。

自分の外側から見つけてきたものと思われる答えについても、私たちは、自分の内側からそれを判断し、それに基づいて行動しようと自らの意志で決断して生きてきたのです。

ソクラテス無知の知という言葉は有名ですが、森本省念老師が次のようにおっしゃっていたとされることも、「無記」の重視という観点からは理解しやすいものと思います。



「仏徒がギリシア哲学を学ぶの要を老師は何度も申されていた」

(蜂屋教正「私の省念老師」山田邦男編『森本省念老師 下〈回想篇〉』73頁)



仏教も、「自由」を重大な価値とみるはずのものです。

【参考】
【参考資料】仏教・禅は自由を説く
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/01/27/182048?_ga=2.227634458.682442813.1597451445-541515618.1562325655

しかし、どういうわけか全体主義的な方に行ってしまう。

その理由は、仏教が対処する「苦」とは「人生のむなしさ」を意味するという性格があるからであると思います。



「『無我の教説』に内在するパラダイムとは、人生は結局死によって終わるのだから、満足できるものではあり得ないということのようである。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』109頁))



ある種の人は、自分の「日常」の人生を「結局死によって終わる」むなしいものと考える。

しかし、自殺するまでの根性まではない。

そうしたときに、どうやってこのむなしい気持ちに対応するか。

一つは、「むなしい」「日常」に自足する。

もう一つは、人生に「日常」を超えた「超越性」を与えようとする。

唐代の南宗禅は、この「日常性」と「超越性」の対立を示す二つの流れがありました。



「中国の禅の系譜は伝統的に『南岳』系と『青原』系の二つの流れに分けて整理されてきた。(略)

従来、この二つの系列はもっぱら教団勢力の二分として理解されていたが、それが二十一世紀の初めごろから思想史的な分岐として解明されるようになった。ごく単純化していえばありのままの自己をそのまま肯定する馬祖系の禅とありのままの自己とは別次元に本来の自己を見出そうとする石頭系の禅、という対比であり、この二極の間のさまざまな対立や交錯や統合の運動が、その後の禅の思想史を形づくっていったことが跡づけられるようになってきた。」

小川隆『中国禅宗史』344~345頁)



一応、白隠禅は、臨済宗という以上、「日常性」を重視する馬祖系に属するはずですが、見性を目指す実践からすると、「超越性」を目指す石頭系といえようと思います。

「超越性」をやわらかい言葉で言えば、「平凡ではない、何かすごいことを目指すこと」といえようかと思います。

「何かすごいこと」を個人で実現しようとするのであれば大したものですが、なかなかそういうわけにはいきません。

そもそも、「人生がむなしい」などという人は、元々は自己肯定感の低い人であるものと思われ、自分自身の判断で何かを成し遂げようとするよりは、既に存在し、仲間となる可能性のある人もいる「何かすいごいこと」を目指す集団に所属することを通して、「超越性」を満たそうという方向性に行きやすいのかなと思います。

このようなことから、先の戦争のときも、安易に全体主義的な方向に行きやすかったのではないかと思います。

銃器を使って多数の他者の生命を奪うこと、それが「国家」というもののために資すること、それらのことを通して、ヒロイズムを満たすこと、このようなことは、日常を離れた何かすごいことをしたいという欲望を満たす上で都合がよかったのではないでしょうか。



坐禅を通して知り合った知人から教えてもらったことですが、宗教団体のライフサイクルというものがあるそうです。



1 萌芽期

カリスマ的権威、高度の集団的興奮、組織・儀礼に乏しい

生き生きとした苦難の時

2 効率期

明文化・組織化

集団としての躍進のとき

3 形式期

制度的権威、官僚制の確立

信徒のための集団でなくなるとき

4 解体期

硬直化、集団構造のメカニズムそのものが目的化

官僚的形式主義、解体・減衰の兆候

森岡清美『新宗教運動の展開過程―教団ライフサイクル論の視点から』)



常識論に属する物かも知れませんが、このライフサイクルからも、宗教団体も、「信徒のための集団でなくなる」ようになり、集団が集団の維持・存続を自己目的化すると、やがて消滅することが分かります。

常識論に属しますが、集団は、まず、個人のために存在しなければならないのです。



「人間は生まれながらに「自由」を欲する。心のままに、自分の思ったとおりに生きたいと願う。(略)

私たち日本人は戦後の『日本国憲法』によって、はじめて真の『自由』を獲得した。(略)

『人間は生まれながらに自由を欲する』と書いた。自由は人間の生得の要求である。しかし、近代市民社会的な、いわゆる人間天賦の基本的人権に基づく『自由』の思想は、以上のように明治以降に近代ヨーロッパから学んだものだということである。」

(秋月龍珉『日常の禅語』209~211頁)



私は、仏教や禅が近代ヨーロッパ的な自由と矛盾するとは思いません。



「禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を生死の羇絆から解こうとするのである。しかも、これをするために、それ自身に特有な、ある直覚的な理解方法によるのである。それゆえに、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも、応用自在の弾力性を持っていて、極めて抑揚に富んだものである。禅は無政府主義アナーキズム)やファシズムにも、共産主義や民主主義にも、無神論(アイシーズム)や唯心論(アイデアリズム)にも、またいかなる政治的、経済的な教説(ドグマ)にも結びついている。」

鈴木大拙「禅と日本文化」からの引用。ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)105~106頁)



仮に、矛盾するものであるとしても、そもそも仏教は自己の限界を前提とするものなのですから、恥ずかしいことではないでしょう。

少なくとも、私の父が蒙ったような不幸を私の子どもに味合わせる可能性の低い平和な世界になったことは間違いないように思われます。




【参考】
◯禅と全体主義――「戦争と禅と日本国憲法」追補
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/23/065212)
◯【参考資料】仏教者の戦争責任
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/07/28/103423





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本ブログの記事に対する質問はこちらを参照してください。

「本ブログの記事に対する質問について」

https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/10/053529?_ga=2.231196063.1842888001.1597260876-961353732.1597260876

本ブログの記事に対する質問ついて

1 おねがい



本ブログの記事に対する質問ですが、各記事のコメントの機能を使って入力して、お寄せいただければと思います。

本ブログのコメントは、私が承認することによって公開されることになっていますが、誰でも入力できるようになっています。

質問への回答は、余程短文で答えられるものでなければ、ブログの記事として、書く形にしようと思います。

これまでの経験から前提となる知識や考え方の説明に相当程度要する場合が多いので。したがって、真面目な質問に対しては、きちんと回答をしたいと思いますが、回答が相当程度遅れることも多くなるのではと思います。

また、質問のコメントを記入される際には、コメントとして公開することの可否も記入していただければと思います。

非公開を希望する質問については、必要な場合には適宜の修正を加えようと思いますが、事柄の性質上、質問内容自体はブログの記事の中では、公開され、ブログの記事の中で非公開とするのは、質問者の特定に関するものと考えていただければと思います。

質問の性質によっては、回答しない場合もあることもご理解下さい。



電話、メール、メッセージアプリ、ウエブ会議システム等を使って個人的に連絡を取り合う形での質問の受付については、差し控えさせていただこうと思っております。このブログへの記事の掲載については、匿名でやっていきたいと考えており、個人が特定される可能性がある事態は避けたいと思っております。

このような次第で、本ブログの内容については、匿名に係るものですから、一つのアイディアとして、批判的にご覧になっていただいて、その上で、何らかのヒントになることがあれば幸いです。



2 本ブログ引用の資料について



本ブログでは、私の「青年の主張」に類する話だけ読んでもつまらないであろうし、また、知識が入るだけでもよかったと思っていただけるよう、かなり詳しく文献等の引用をするようにしています。

本ブログの内容について、批判的に見ていただく上でも、各資料について原典に当たっていただくことをお勧めします。

アマゾンなどで検索をしていただければわかるかと思いますが、引用に係る書籍については、ほとんどが市販の文庫、新書の類であり、大判の書籍についても、アマゾンにおいて、相当廉価で、その古書を購入できるものがほとんどです。

また、終戦以前に出版された書籍も相当程度引用していますが、それらのものは著作権が切れていることから、国立国会図書館デジタルコレクションのウエブページから全文が閲読できます。なお、本ブログに引用する際には入力の手間もあることから、適宜、現代仮名遣いに改めるなどしています。

国立国会図書館デジタルコレクション】
https://dl.ndl.go.jp/

さらに、学術論文からの引用をする場合もありますが、これらもウエブ上でpdfファイル化されたものを入手できるものがほぼ全てです。

興味を引かれたものについては、J-STAGEを検索したり、資料名の後に「pdf」と入力してウエブ上で検索していただければ原典の入手は容易かと思います。



3 基本的な注意点



本ブログの記事を真剣に読んでいただいて、質問をしていただけることはうれしいことです。

本ブログは、読んだ方が何らかのヒントを得られればよいのかなと考えて書いているものです。読んで却って悩みが生じるのであれば、本意ではありません。質問をしていただければ、悩んでしまう部分を改める機会になります。

また、同じ書くのであれば、興味を持っていただけるテーマに沿うものの方が匿名とはいえ公にする以上は適当かと思いますので、この観点からも、よろしくお願いいたします。



仏教には、多様な考え方がありますが、その中でも、私自身が最も重要な考え方だと思うものは、「愛する」こと(慈悲)です。反面、「愛される」ことは、重要ではありません。

「愛される」こと、「与えられる」こと、これらのものは本来いりません。「特別なものはいらない」。自利という観点からは、これが一番大切かと思います。

禅や仏教の教義や実践は、応病与薬の方便であり、それに関する知識も本来いらないものです。理解する必要などはありません。

ですから、釈尊は四十九年一字不説です。祖師方の言葉は全て余計な老婆親切です。

このブログの記事の内容も理解できなければ黙殺されて何ら問題ありません。問題は、私の力不足です。理解するために無駄な時間を使う必要はありません。生死事大無常迅速です。



私たちは、禅や仏教に出会う前からきちんと生きていました。生きる上で禅や仏教などがいらないことは明白です。

私たちは、人生の様々な場面で答えが分からず、迷うこともあります。しかし、答えがわからないままであっても、きちんと生きてきたのです。

答えがわからなくてもきちんと生きることができる。

これが私たちの尊いところの一つであり、多くの禅匠が伝えようとすることです。

「禅は禅に非ずしてよく禅なり」の端的です。

【参考】

○初心
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/03/232544

○仏教はなく、禅もない
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/01/30/121401

「特別なものはいらない」という観点から、禅の「修行」等の仏教の実践を本格的に行うと称する団体に加入して活動することはお勧めいたしません。

仮に、加入を検討される場合は、本当にその活動をする必要があるのか、活動によりどのような具体的な結果が得られるのか、あるいは、具体的にどのようなリスクを負うのかなどを十分検討されることをお勧めいたします。

検討に当たっては第三者の意見も聞くようにされるとよいでしょう。仏教の研究者につてがあるのであれば、その方の意見を聞くのは有力かと思います。NHKの「こころの時代」にも数回出演し、斯界の権威とされる仏教の研究者の先生が、それなりの伝統があるとされる禅の「修行」をする某団体にその教え子の方が入会したのを知るや、直ちに退会するように説得されたこともあったそうです。やはり、このような方のところには、「業界」の情報がよく入ってくるのでしょう。

【参考】

○所有する不幸
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/06/07/220706

○魔境(2)――坐禅の生理学的効果(11)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/09/073224

とはいえ、どこの団体が良いのか、悪いのかに関しては、触れるつもりはありません。

良い方に関しては、一見、良さそうに見えても、内実は違うということは世情よくあることです。私自身、一時期、この種の団体に関わることになって、当たり前のことながら、冷暖自知したところです。十分な情報のない中で、どこかの団体を全体として良いものと支持することはできません。

悪い方に関しては、単純に名誉毀損等の問題が生じることを避けたいからです。この肉体を使い切る上で、支障の生じる事態は避けなくてはなりません。



私自身、一時期、色々な坐禅会や瞑想会に参加しました。

様々な瞑想の手法を勉強することだけではなく、そこでよい出会いがあり、今でも続く交流のきっかけにもなりました。ゆるやかな坐禅会や瞑想会には今でもお邪魔しています。

別稿でも書きましたが、参加されるのであれば、近所のお寺で行われるような、週に1度、25分間の坐禅を2セットやって、後は、30分間くらい、ほかの参加者と一緒に、師家でもない普通のお坊さんと、煎茶と簡単な市販のお菓子をいただきながら、たわいもないおしゃべりをして終わる素朴な坐禅会をお勧めします。

マインドフルネスも、宗教的ではないという点で悪くはないかと思いますが、参加費が3000~4000円くらいすることが多いですから、そこがネックでしょうか。



「現実を愛する」。現実の世界を生きている以上は誰もが前提とし、当たり前にやっていることです。全ての問題は、その時、その場、その人限りのものであり、当然、普遍的な答えはありません。したがって、普遍的に正しい教義はありません。予め用意された答えのない以上、悩み、苦しみ、迷うことは当たり前であり、現実に向き合って生きていることの反映です。そして、私たちは、皆、誰かから答えなど教えてもらうことなしに、いつも、自分の中から出した答えに基づいて、人生に現われる全ての問題に対し、解決ができないときでさえ、対応はできているのです。

【参考】

○不確かな世界を愛している
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/02/17/072810

○禅=現実=大拙の“something”
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/03/12/231503



「特別なもの」はいりません。



「大に有事にして過ごす処の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。」

(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)





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魔境(2)――坐禅の生理学的効果(11)

魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10) の続きです。
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/09/023521

5 「禅ブーム」の終焉と日本仏教における坐禅否定の系譜

(1)「禅ブーム」とその終焉



禅宗史を繙くと、明治期に禅の流行していたことがわかります。



「この時代(明治期)には、激動する時代の中で心を平静に保つことが求められ、また、今北洪川や由利宜牧らが在家に対して積極的に指導を行ったこともあって、各界の名士の間で参禅が流行し、居士の活躍も目立った。彼らは居士であることを存分に発揮し、結社や出版、教育などの様々な活動を通じて積極的に社会と関わったのである。」
(伊吹敦『禅の歴史』293頁)
 


明治期の禅の流行については、孫引きの部分的な描写ですが次の記述が当時の「禅ブーム」というべき様子を生き生きと伝えています。



「(前略)明治中期以降の在家禅の流行という社会現象なしにはありえなかった。よく知られた漱石自身の鎌倉円覚寺参禅(明27)もこの現象の一部と見ないわけにいかず、銀行家早川千吉郎によれば、学生時代の彼が参禅した一六年の同寺に『参禅の僧俗は門前市なす有様』であった。佐橋によれば『この禅学大盛行のお先棒をかついだ』のは山岡鉄舟勝海舟で、特に海舟は維新での自らの功勲に『坐禅の功』を絡めた『ダボラを吹いてしまう』ものだから、『禅をやれば胆力ができるとか、自分の本職の技術が上達するとか』の現世利益を求めて、軍人はもちろんのこと『商人でも大工でも進んで』参禅し、怪しげなニセ禅道場さえ出現していた。」

佐々木英昭「「禅をする女」はどう読まれたか『草枕』と『煤煙』」『日本近代文学会』第65集65~66頁)



しかし、このような禅ブームがあったにもかかわらず、現在は、低調であるように思われます。



「戦後の禅の特徴として、禅僧の社会的活動が極めて限られたものになったということが挙げられる。(略)国内における社会的な認知度は、立田英山や久松真一(1958年にFAS禅協会を設立)、藤吉慈海(1915~、台湾仏教を参考に、新たに念仏禅を唱える)などの活動にも関わらず、次第に逓減しつつあるように見受けられる。」

(伊吹敦『禅の歴史』306頁)



低調の理由の一つとして、仏教の実践は、その場、その時、その人限りの応病与薬の方便であり、場所、時、人が変われば当然有効ではなくなるという抽象的な理由が考えられます。その時代に合った教義を提示した宗派が隆盛し、時代に合わなくなれば廃れていく、栄枯盛衰の物語が仏教の歴史でもあります。

そのほかに私自身が有力な理由と考えることは、やはり、過剰な「修行」をすることにより、却って、精神に問題を来し、社会に適合できない人が現れたからではないかということです。明治期におけるその実態については、先に引用した佐々木先生の論文が参考になります。



「鬼面人を驚かす類の『独善的な言行』に走りがちな『厭味』な野狐禅者が明治期に量産された(略)。

その種の危険への警戒の声は当時、禅界の内外から聞かれた。禅界からいわく『世の禅に志すもの往々畸行を為すを以て得意とし、禅者といへば一種変態の人物の如く思ひ、落語家や講談師が出鱈目に陳べ立つる一休和尚伝などを聞いて真に禅者の模範なりと思へるは笑ふべきの至りである』(忽滑谷快天『禅の妙味』(略))。また他宗派から『今年あたりも、鎌倉などは書生やら何やら、大分参禅者が多かったそうだが、(略)ある専門学校の生徒も参禅を考えながら『どうも坐禅をした人間を見ると言ふと、以前よりも却て花柳界に踏み込んだり、不品行なことをすることを平気になるのはどういふものだらう』と悩んでいた、『今の禅宗のものは〔中略〕空見識ばかりついて、放縦になるのをよいことにして居るといふ風がどうもある様だ』(村上専精談(略))

当人の主観はどうあれ、周囲には遊戯的・演技的と映じて顰蹙される亜流の禅者。ところで、それが女であった場合、『女らしき』という規範からの逸脱という別の問題も重なって顰蹙の度が増そうとは、容易に推察されるところである。たとえば四三年刊の談話集『名士禅』(略)が取り上げた唯一の女性である伊沢千代子 (修二夫人) は、『禅を修行なさる御婦人の中には、仲々男まさりにお成りになる方が多い様でございますが、何うも私達の目から見ると、変に見えて仕方ないのでございます』とその種の大姉へ苦言を呈している。

『男は男、女は女らしい悟りがちゃんとありますのに、女であって変性男子の如く、飛んだり跳ねたりするには当たらないかと存じます。〔中略〕だらしなく跳ね回るは、寧ろ狂禅子に近いといってよからうと思ひます』云々。(略)

『狂禅子』が『女』であると来れば、そこになんらかの〈性的奔放〉が期待されるのは、容易に推測される成り行きである。実際にも、一時的にであれ奔放となった女性禅者が、意図の有無にかかわらず、男への誘惑を結果するという事態は十分に可能であって、見性直後の平塚明子(※)のいわゆる『接吻事件』はまさにそれだし、明治三八年から半世紀近くにわたって鎌倉建長寺管長を務めた菅原時保は、女性の参禅を許さなくなった理由として『近頃の婦人は遊戯的で修業僧の気持を乱すから』と明言している。」

(佐々木前掲67~69頁)

※平塚明子=本名平塚明(はる)。平塚らいてふのペンネームの一つ。



先に引用した禅ブームの中で、禅の「修行」により、精神に問題を生じたと思われる人と接する一般の人が増えたことから、何とはなしに、禅に対する社会的評価が下がっていったのではないかということを考えています。



(2)日本仏教における坐禅否定の系譜



そもそも明治期の禅ブームは、廃仏毀釈に対し、禅宗寺院が生き残り策として在家に禅の実践を広く進めていこうとした過渡的な現象というべきで、元々日本仏教では、坐禅を否定する考え方が仏教を継受した時点から有力でした。



「(聖徳)太子の思想ということになれば、ここでどうしても『三経義疏』について触れなければならない。これは『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経に対する註釈で(略)、(法華経の)安楽行品の「常好坐禅」という一句の解釈はきわめて興味深いものである。すなわち、ここでは経の本文はもちろん、法雲などの解釈も「常に坐禅を好め」という意に解しているが、『義疏』ではあえて異をとなえ、山中で坐禅ばかりしているような修行者は小乗の禅師であり(「常好坐禅少(小)乗禅師」)、菩薩が近づいてはならない十種の対象(十種不親近)の一つとみたのである。」

末木文美士『日本仏教史』38~40頁)



日本の仏教の継受については、中国仏教を盲目的に受容したような言い方がされることは少なくありませんが、日本仏教の黎明期において、経典について、日本独自の解釈をしていたことには興味深いものがあります。

この時代、既に、坐禅は、日本に伝わってきてはいたとされます。



禅宗は、はやく飛鳥・奈良時代にも伝えられている。白雉四年(六五三年)遣唐使に従って入唐し、相州の隆北寺で慧満に禅を学び帰国した道昭(六二九~七〇〇)、神秀の北宗禅を伝える唐僧道璿(どうせん)(七〇二~六〇)の天平八年(七三六)来日などの伝禅があった。」

(竹貫元勝「禅宗の歴史」沖本克己・竹貫元勝『これで大丈夫 禅語百科』19~20頁)



そうであれば、飛鳥・奈良時代にも、坐禅の実践をした人は少なからずいておかしくはないはずなのに、法華義疎でそれが否定的に評価されたのか。

それは、明治の禅ブームの時や、現代の瞑想難民問題にみられるように坐禅にはまり込んで、却って精神に問題を来す人が現れ、その危険性に対する認識を持ったからではないかと想像しています。



6 まとめ



坐禅を始めてから、坐禅中、「神秘的な体験」をしたという人に少なからず会いました。

その中に、嘘を付いているような感じがするように思われるような人はいませんでした。

また、私自身、とある瞑想会に参加した直後、世界の画素数が上がるように見えたり、その直後、それまで意味のわからなかった禅書の字面がそのまま納得のいくようになったことがありました。

ですから、自己洗脳の類を含めて、脳に対する何らかのインパクトを与える体験をすることも本当にあるのだろうと思います。



しかし、そのような体験をしている人の現実生活を見ると、体験をしていない人に比べて取り立ててよいわけではないように思われます。

語弊があるかとも思いますが、坐禅をするようになり、色々な坐禅会や瞑想会に行くようになってから、強く思ったことは、私自身が非常に恵まれた環境にいるということでした。

坐禅会や瞑想会に来る人は、バックグラウンドとして、家庭環境や労働環境に恵まれていない人が少なくありません。何らかの救いを求めている人が少なくないのですから、当たり前といえば当たり前ですが。

坐禅をする前、私は、自分の人生が上手くいっていないのではないかと思うことが多かったのですが、坐禅会や瞑想会に来るほかの参加者の方を見ていると、私自身は、同世代の平均と比べて多くの収入があり、家族にも恵まれ、社会的意義を感じやすい仕事をし、この仕事のおかげで、世間的には社会的地位も相応に見られる立場にあるということがはっきりと分かりました。

仏教では、他人と比較することをやめることを通して幸福が得られるものとされますが、私自身は、坐禅会や瞑想会に参加するほかの人との比較を通して、自らの相対的な幸福を感じることが多くありました。

職場の周りの人は、私と同じような立場にありますから、それまでは、それが当たり前になっていて、私自身それがいかに恵まれているか本当のところは分かっていなかったのだと思います。



坐禅の生理学的効果」と題する一連の記事をご覧になった方はおわかりかと思いますが、私は、坐禅や瞑想を頑張って「悟り」と呼ばれるものを含めた非日常の体験を目指すことは避けるべきだと思っています。

その科学的な究明は手が着けられたばかりであり、「悟り」という目的を達すること自体が困難である上、却って精神的な問題も生じるリスクがあるからです。

また、非日常の体験は、私たち個々人の脳内で起きる現象にすぎず、それがどのような幸福感をもたらすようなものであっても、自分だけがほかの人にはない何らかのよい感覚に満たされることを実現することを目指すものであって、結局は、自分自身を不幸に陥れるものだからです。

自分だけがほかの人よりもよくなろうとすることは、根本的には、アドラーの言う「普通であることの勇気」を見失った劣等感の現れです。脳生理学的にいえば、平等感を失った自己の利益を目指すことは扁桃体の活動を活発化させ、不安感を高め、やがてはうつ病をももたらすものです。

【参考】
文明の発展と仏教の起源
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/06/09/213324

私たちは、意識から世界を見ているので、意識が自己のすべてであり、意識がすべての基盤であると思いがちです。私自身も、そう思っていました。

だから、自分の幸福感が重要だと思ってしまうのだと思います。

しかし、「幸福感」というプラスの名前をつけようが、それは、私たちの肉体の中のほんの一部で起こっている現象であり、全体ではないのです。

「幸福感」が重要であれば、それは何らかの薬物によってもたらされてもよいのですし、サイバーパンクの世界のように脳に機械的な処理を施して、端子を差し込み、幸福な感覚を脳に味わわせてもよいことになります。



どんな世界にもありがたい人はいると思うのですが、以前、子どもと一緒に見た、東映の特撮シリーズ「リュウソウジャー」の人間を眠らせて、幸福な夢を見させる怪物が出てくるエピソードは、子どもを自然と教育する上で、ありがたいお話しでした。現実の世界には、つらく苦しいことがあるのですから、その人の見たい夢を見させる、その怪物を倒すことが本当に望ましいことなのか、主人公たちが苦悩するという話です。

「幸福感」が重要であるなら、眠って幸福な夢を見ているままでよいはずです。

しかし、それではダメだというのが私たちのあり様です。

私たちは、現実の、この日常の世界を生きたいと思っており、頭の中の幸福感ではダメなのです。



とはいえ、困難にぶつかって生きることが辛くなるときがます。

私たちの肉体の出来はよく、どんな困難が前にあっても、きちんとそのときのベストパフォーマンスで活動してくれています。しかし、往々にして脳の一部分だけが不安感を訴えて頑張ろうとしている肉体の足を引っ張ります。困難な現実にぶつかっていくのではなく、逃避しようとしてしまうのです。

脳の不安感を軽減させる対処療法が坐禅等の瞑想です。

瞑想が現実に向き合うための手段であることを明示的に述べる瞑想指導者がティク・ナット・ハン師です。



「瞑想は社会から離れ、社会から逃げ出すことではなく、社会への復帰の準備をすることです。」
(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』68頁)

「瞑想は、社会からの逃避ではありません。」
(ティク・ナット・ハン前掲書72頁)

「瞑想は、私たちが社会にとどまる助けをする道です。これは、重要なことです。
 社会から疎外されて、社会に復帰することのできない人々がいます。注意しなければ、自分たちもそうなることを、私たちは知っています。」
(ティク・ナット・ハン前掲書74頁)

「瞑想センターは、あなたがみずからに帰り、現実についてのいっそうはっきりした理解を得、理解し愛する力を強め、社会に復帰する準備をするところです。
 もしそうでなければ、ほんとうの瞑想センターではありません。
 真の理解を発達させるに伴って、私たちは、社会に復帰し、真の貢献をすることができるのです。」
(ティク・ナット・ハン前掲書79頁)

「悟り」等の特殊な体験を求めて、家、禅堂、瞑想施設に閉じこもって、坐禅、瞑想にふけることは、何か違うのではないかと思っています。



その観点から敢えて親切で書くと、坐禅会や瞑想会で出会った人で、何らかの神秘的な体験をしたという人は、正直ぱっとしない人がほとんどでした。仕事や家庭などの実人生が上手くいかないことから、それを取り返すために、坐禅や瞑想を一生懸命頑張る感がありました。

よく「悟り」などの特別な体験をしても、すぐ元通りの日常に戻るなどと言われます。

マインドフルネス研究で知られる熊野宏昭先生も、20代のとき強い体験をしたそうですが、人格が本質的に変わることがなかったとおっしゃいます。



「二〇歳頃、ヨガにはどうも瞑想というものがあるらしいと知り、瞑想のほうも始めたのです。(略)

ヨガの瞑想は、先ほど横田老師が教えてくださったような集中瞑想(※)です。私もそのとき数息観をやりました。それで非常に強烈な『ドッカーン』という体験をして。『何だこれ?』と思ったんですね。(略)

一六歳でヨガ、二〇歳頃の強烈な体験を経て、ずっとやってきていましたが、マインドフルネスとの出会いのきっかけは、自分が失意のどん底に落ちたことでした。

どこかでお聞きになった方もいるかもしれませんが、二〇〇五年に東大の教授選に負けたのです。負けたというより、私の業績があまりに情けなかったので教授選自体が流れてしまって、他の教室から教授が来て、私は非常に失意のどん底に落ちました。そのとき、思いました。『ヨガもやったし、ずいぶんそれで人間が変わったと思ったし、サマタ瞑想もやって、それでまた非常に大きな体験をして、それまでの自分と違う自分になって、今に続く自分になった。だけどこの辛さは何だ』と。『全然、何も解決できないじゃないか』と思って、当時、貪瞋痴という言葉が頭に浮かんできました。まさに『教授になりたかった』という欲の気持ち、それから他の教室から横滑りで入ってきた教授が大嫌いで、『こんなやつ、何だ!』という怒り。それから『この後、どうしていいかわからない、私はどうやって生きていけばいいんだろう』みたいな混乱。『まさに貪瞋痴とはこんな状態だ』『自分はまさしく貪瞋痴の塊だ』というふうに思いました。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』63~64頁)

※横田老師が教えてくださったような集中瞑想=数息観のこと



古くはこんな話もあります。



「宮崎虎之助(みやざきとらのすけ)は、『予言者』として飛びあるいた、妙な宗教者であった。わしの所へ尋ねて来て、これから東慶寺へ行くから紹介せよと云う。宗演師に会って、色々と自分の不遇・不幸を訴えたと見える、即ち或る宗教者は裕福なブル的生活をして居るのに、自分は轗軻《かんか》不遇、今日の衣食にすら窮すると云う不平であったらしい。これは後から老師から聞いたのである。その時老師は、『そんな不平があっては、まだ真の予言者にはなれぬ、今一段の修行を要する。併し実際問題として、衣食に窮してはお困りだろう』と云って、老師は信者の喜捨金一包をそのまま与えて別れられたことがある。宮崎君のような宗教家は時々見付かる。一種の体験はあるが、知性の発達が、これに伴って居ないので、事物全般の展望が欠けて居る、それで畸形児的なものに成って仕舞う。」

(加藤咄堂『碧巌録大講座 第十三巻』163頁)



神秘的な体験をしたという人のほとんどは、この宮崎氏のような感じです。

ほかの人が体験したことのない何か特別な体験をして、優越感を抱きますが、往々にして一過性のものです。人生が根本的に変わるわけではないように思われます。

それでまた同じような体験、あるいは、以前よりももっと素晴らしい体験を求めて、待ちぼうけをするように坐禅や瞑想を続ける。「待悟禅」とは、このような風景を指して言うのでしょう。

しかし、どんな体験を繰り返しても満たされないのは、現実を生きていないからです。
私たちの人生は、脳内をバラ色にするためにあるのではなく、這いつくばってでも現実を生きるためにあるのです。



よく禅の「修行」を始めた動機として、「人生をいかに生きるべきかに悩んだ」とか、「人生の価値に疑問を感じた」といったことを挙げる人が少なくありません。

仏教で問題とする「苦」は、怪我をしたときのような物理的な痛みではなく、「不満」、満たされない人生に対する虚しさなどといわれますが、先の動機は、その本人が人生に虚無感を抱いていることの反映でしょう。


 
「『無我の教説』に内在するパラダイムとは、人生は結局死によって終わるのだから、満足できるものではあり得ないということのようである。現象として存在するものは全て相互に連結する三つの特性を有すると言われる。すなわち、無常性、苦性、そして無霊魂ないしは無実体性とである。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』109頁)



日常の生活、すなわち、平凡な人生に自足することができず、それなら自殺をしてもよいものを、生きる欲望をも捨てきれず、むなしくない、ほかの人よりもよい生き方をしたいと考える。そんな人には、日常生活に自足するまでの1プロセスとして、「空虚な人生」を特別な価値のあるものだと思えるようにするために、特別な体験を味わせてあげることも、悪くないのかも知れません。

実際、臨済禅の修行のプロセスの機能は、そのようなものであると思われます。

日常生活に自足できず現実から離れようとする不満な心を一旦は「悟り」と称する特別な体験で満たしてやった後で、悟後の修行と称して、「悟りの臭み」を取って日常生活に適合できるようにするための実践をする。

とはいえ、「悟り」を体験すると、能力や飛躍的に向上するのではないかと思われる方もいるかも知れませんが、私は、懐疑的です。



私がかつて所属していた団体では、禅的な意味での「悟り」、すなわち、「見性」を重視していました。「見性」していることになっている人も多数いました。

そこでは、指導される方が、公案の修行により「道眼」が身に付くと言ったり、また、「見性」しないと人と人とは本当に理解し合うことができないなどと言っていました。しかし、毎回の会議での重要なテーマは、団体の財政を安定させるために、会費を払ってくれる新規会員の確保の方策でした。

余りよい言い方ではありませんが、「道眼」というものによって判断力が飛躍的に高まるのであれば、なぜ、指導者の人自身が、その目的を達する上で実効的な方策を策定できないのか。「見性」して人と本当に理解し合うことができるのなら、指導者の方自身が、なぜ、自然と一般の方を共感させて会員にすることができないのか。

その団体にも、良心的な人はいて、よく社会問題を取り上げる方がいらっしゃいました。その方に対して、指導者の方が、これまたよく「それが禅と何の関係があるのか」と突っ込んでいました。最初は、何らかの指導の類いの親切ではないかと思っていたのですが、同じ場面を繰り返し見るうちに、本気で言っていることがわかりました。また、その方のお話しなどに関し、その団体で何十年と「修行」をされている久参の方がテーマとして興味が持てないということを口汚く述べるのを耳にしたりもしました。多分、指導者の方も、久参の方も、根本的なところで、禅の目指していたものからズレているのだと思います。



「存在するものすべての相依関係の真理に目覚め、たがいに協力する時、はじめてわれわれは栄えるのだという事実を、まず自覚しようではないか。そして、力と征服の考えに死して、一切を抱擁し、一切を許す愛の永遠の創造によみがえろうではないか。(略)
 
《われわれ(略)は、善にあれ悪にあれ、この人間社会に行われることの一切に責任がある。》

だから、われわれは、人類の福祉と智慧の全体的発展を妨げるような条件が、ことごとく改善もしくは除去するように努めなければならないのである。」

鈴木大拙『禅』203頁)



禅に魅力を感じるのであれば、社会問題に関心を持ち、それに心を痛め、その解決に向けて、短者は短法身ながらも、日常生活で具体的な工夫をするはずです。

結局、何十年修行をし、指導者になるほど修行をして、「見性」したことになっていても、それだけで作られる能力や人格は、その程度のものなのかなと思っています。



日本の禅宗で用いられる語録の多くは、唐代の南宗禅の禅匠に係るものですが、そもそも唐代の南宗禅において、「悟り」は問題とされていませんでした。

その代表である馬祖によれば次のとおりとされます。



「馬祖によれば、人間はみな覚醒した世界に生きているのであるから、日常の生活の裡に自足しておればよいのであって、このうえ更に『佛法』を学び、『修行』をし、『坐禅』をして 『悟り』を求める必要はまったくない、外にそれを求めることはむしろ清浄心を汚すものである、とした。」

(衣川賢次「臨済義玄禅師の禅思想」『禅研究所紀要第34号』109頁)



このような伝統に照らしても、「悟り」を目指す禅が果して望ましいものであるかはよく検討される必要があるように思っています。

「悟り」を目指す禅では、社会に適合することができない人を生み出す可能性があり、却って「たがいに協力する」ことが困難になるようにも思います。

そうすると、日本仏教が伝統的に坐禅に対し懐疑的であったことにも合理性があるように思うのです。



「禅堂には、素敵なものはなにもありません。ただ、ここへ来て、座るだけです。お互いに意思を通じ合わせたあとは、家に帰り、また毎日の暮らしを純粋な禅の修行の続きとして行います。そして、人生の真の生き方を楽しむのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』258頁)





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魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10)(補訂板)

※本稿は投稿者の記事の管理の不充分さから
冒頭部にかつての投稿と相当程度重複する点があるまま
2020年8月8日投稿いたしました。

【参考】
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及

前記記事をご覧になった方は3項からご覧下さい。
(2020年8月9日追記)


1 魔境の概要



坐禅の際には、特異な精神的体験が生じる場合のあることが知られており、「魔境」と呼ばれています。



「いい気持ちになって陶酔できるほどに定力が練れてきたころになると、定中にいろいろな現象があらわれることがある。その現象にはよいものもあれば悪いものもあるが、それらをひっくるめて古来『魔境』と呼んでいる。(略)

だれが考えても禅の進境に害があると明らかにわかっている魔境は、これを撃退する方法もおのずから立ちやすいが、これは好い境界だ歓迎すべき境界だとおもわれるようなものはちょっと始末が悪い。よく独参(略)のときなどに修行者が、『あたりが全部まっしろくなってしまいました』とか、『体が空になってズーッと天まであがって行き、天一杯にひろがりました』などといって、いかにも無を見たかのように得々としている者もある。もっとも私自身もそれに似たようなことをいって得意がっていたら、先師から『それは多分眠っているのだろう』などと冷やかされたこともある。」

(大森曹玄『参禅入門』117~118頁)

「(専門僧堂での修行の)過程のなかで、色んな幻想が湧き起ってくるわけで、これは古来『魔境』とか『現境』とかいって白隠禅では特に喧しく注意されているところですが、少なくとも、いい気分になる場合であれ、あるいは鐘の音が全身に突きささってくるような苦しい幻覚であれ、凡そ日常生活では味わうことのできぬ体験が臨済の修行にはあるというのは事実です。」

(西村恵信「済家の風」『禅研究所紀要第18・19号』78頁)


「魔境は,心理学的にいうと坐禅の修行中に遭遇する一種の幻覚体験であるといえよう。幻覚は,精神病の典型的な徴候の一つであるために正に病理的な現象である。ただ健常者の幻覚と病理的なそれとの相違は,通常の現実に戻れる可逆性を有しているか否かという点である。つまり,坐禅での魔境は,それに関わり合うことなく瞑想を続けることで,その関門を通過することができる点である。だが人格発達の面で自我形成が未分化な場合,防衛機制によって処理できない内容に唐突に遭遇することで,不安や恐怖で一時的に錯乱したり,一種のノイローゼ症状を呈する場合もある。これは専門の禅の修行者にも見られることが知られている。また,坐禅の修行を初めて行い,適切な指導者である師家がいない場合,その魔境が強烈な幻覚を伴うようなものであるとき,見性体験と誤解してしまうこともあるであろう。(略)

魔境の問題だけでなく坐禅の不適切な修行法のために,古来禅病に罹患する禅僧が少なからずいたことはよく知られている。(略)

こうした病気は,禅に限らず西洋の宗教的修行者においても見られるという。」

(斎藤稔正「変性意識状態と禅的体験の心理過程」『立命館人間科学研究 第5号』52頁)



このような魔境は、マインドフルネスの世界でも認められ、やはり禁忌とされることからすると、坐禅等の瞑想では少なからず認められる現象のようです。



「(マインドフルネス訓練にあたり)自分を信じすぎるのは困りものです。瞑想中に光が見えたとか、神様が現われたといったような特殊な体験から自分は偉い人になったように誤解してしまうのは一番危険なことです。特殊な体験は魔境と言っています。このような状態は重要視しないほうが良いでしょう。

≪とりわけ人格変容状態には気をつける≫

必要があります。

≪精神医学で診る人格変容状態は殆どが病的なもの≫

です。それにおぼれたり、こだわったりすることは強く避けるべきです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号80頁)

「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして

≪権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性≫

をはらんでいます。」

(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)88頁)
   


井上先生の魔境に関する「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」があるとの指摘は余り耳にしないものであり、興味深いものがあります。



2 魔境の生じる機序



魔境の機序がはっきり書いてある文献に接したことはありませんが、統合失調症には、種々の幻覚・妄想が生じるところ、扁桃体の極端な活動の低下により、統合失調症様の幻覚・妄想が生じる可能性が疑われます。

また、扁桃体の活動の低下との関係性はわかりませんが、次に引用するものは、臨死体験に関する記述ですが、脳に供給される酸素の量が低下すると(常識的にも当然に感じますが)、幻覚・妄想が生じやすくなるようです。



臨死体験は、何が原因で起きるのでしょうか?

このような不思議な体験談の謎も脳のしくみで解くことができます。

人間は心臓が止まるような瀕死の状態に陥ったとき、血流が止まり脳への酸素やグルコースの供給が止まってしまいます。そのとき

≪脳は酸欠状態に陥り、暴走をはじめる≫

ことがあるといいます。

脳の活動電位が不規則に高まっていき、まったく関連のない信号を発し続けるのです。いわゆる脳がショートしてしまった状態になるわけです。そのために

≪脈絡のない記憶が次々と現れてくる≫

ので、『子供のときの記憶や懐かしい故人が走馬灯のように現れた』と思い込むのだそうです。

幽体離脱体験の人も同様に、過去に自分の姿を鏡で見た記憶を、暴走した脳が大脳辺縁系から引き出すような感覚がおこることを報告しています。」

(新井公人監修『脳のナゾ』142~143頁)
 


この記述からすると、酸素供給量の低下は、魔境でも、重要なファクターになるのではないかと思われます。



3 魔境と「悟り」との関係



先の引用中で興味深い記述は、臨死体験

「脈絡のない記憶が次々と現れてくる」

現象と捉えることができるという点です。


「悟り」の体験は、キリスト教などにも認められるとされ、「悟り体験は各宗派の文脈に即して理解される」(大竹晋『「悟り体験」を読む』281頁)とされます。

そのことからすると、自我障害を含めた幻覚・妄想体験のうち、それまで記憶されていた宗教、宗派の教義の内容に沿うものが、それぞれの宗教、宗派において、「悟り」と認定されるというのが実態ではないかと思われます。

「悟り」は、一義的に特定されるものではありません。上座仏教では、煩悩の滅尽であり、白隠禅では、自他不二の体感ということになります。

そして、それぞれの宗教の枠組内で何が悟りとされるのかも指導者により変わります。

参考までに、上座仏教の世界では、次のようなことがいわれています。



「コーンフィールドさんは、『アーチャン・チャーとマハーシ・サヤドー(マハーシ師)は、ともに深く悟った人だとみなされていたけれども、彼らは悟りの内容やそれを得る方法に関して、全く意見が相容れなかった。実際のところ、彼らは互いに、相手のことを悟りに至る真の道を説いていないと信じていた』と書いています。

こうしたことは、チャー師とマハーシ師のあいだに限ったことではなくて、仏教の実践の世界に自ら身を投じて、その実態を広く見聞した経験のある人なら、誰でも接したことのある現実ではないでしょうか。」

(魚川発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』53頁)



また、禅の世界では次のようなことが言われています。



「日本禅も腐敗の寸前にあるので、指導者を選ぶのには、用心するに越したことはない。『心理禅』と称されているもの(佐藤幸治とその仲間、石黒[法龍]、安谷[白雲]など)は、禅ではない」

鈴木大拙書簡。ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)104頁)



大拙先生から見ると、三宝教団を創設した安谷白雲老師もダメに見えるというのは興味深いものがあります。

次の柴山全慶老師のお話しも興味深いです。



臨済禅のほう、特に私のほうなんかでは、見性者というようなことはなかなか言わないことであり、口にすることさえ慎しむというくらいの気持を持っているのに、東京のほうの老師方はじきに見性々々ということを単純にいわれる。私どもどうもその点がわからぬ。見性というようなことは大体いうたら大悟に等しいものでなければならんので、その単純に三日でちょっと見性したとか、あれは見性したとか、私は見性しましたとかいうようなことは、少しくらい禅の匂いやら方向がわかったようなことでは、そういうことをいわない、むしろ隠しておくということがわれわれの世界です。それをだれでもかれでもみな見性者というということは、何だかこのごろの百円札を見るような気がしまして、いかにもインフレがきつ過ぎるような気がします。そんなことでは真剣な修行の態度だとか法を尊ぶ態度というものが出てこない。ある禅の雑誌に、今度の接心にはだれとだれが見性したから小豆飯を炊いて祝ったとある。私どもは見性者なんということをみずからいうということは、祖師に等しい境地になりましたということを宣言するような気がしておりますから諒解できません。」

(柴山全慶の著作からの引用。大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』292~293頁)



現在も、「老師」と称する人が指導者となり、「悟り」や「見性」を目指す禅の団体が存在しますが、その団体が全慶老師の批判が妥当する団体であるか否かは大切な視点ではないかと思われます。

このように何が「悟り」と評価されるかは、それぞれの宗教団体の教義や指導者によって変わります。

また、日常的に体験されることであれば、自分の判断で評価することができます。「悟り」については、言葉で表現することのできないことが強調され、その例として、味覚などが挙げられます。ただし、味覚などの感覚は日常的に体験しており、私たちはそれに対し、それは甘いのか、辛いのか、苦いのかなどといった適切な評価が可能です。しかし、「悟り」は私たちが日常的に体験することのできることではありません。

「悟り」が一義的特定できるものではなく、かつ、日常的に体験することのできるものではないことからすると、幻覚・妄想体験のうち何が「悟り」となり、何が「魔境」となるのかは、それぞれの宗教、宗派における指導担当者が決めていくということにならざるを得ません。

その意味では、宗教、宗派における指導担当者に服従しなければならないという関係性がどこかで生じます。

先に引用した井上先生の論考の中で、魔境について、「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」との指摘がされていましたが、このような関係性が生じることを言っているのではないかと思われます。

また、「記憶の想起」とも関わりますが、幻覚・妄想体験がどのように理解されるのかについては、事前に与えられる言語情報も要因として大きいように思われます。

たとえば、私が接した上座仏教の実践をしている人の中には、「リトリートが終わった後は、世界が汚く見えた(そして、自分は清らか感じた)」という体験談をする人が相当数いました。しかし、禅の実践をしている人からこの種の話を聴いたことはありません。

これは、禅の場合は、坐禅和讃に見られるように、「衆生本来仏也」、「当処即蓮華国」などと世界を肯定的に見ることが強調されることに対し、上座仏教の場合は、「一切皆苦」の強調など世界を否定的に見ることが強調されることに、影響されているではないかと思っています。



「仏教では、人間の人生はうまくいっているとは思っていないのです。人生は問題の泥沼に溺れているようなものだと思っています。もし理性のある人々が努力して平和で幸福な社会を築いても、そのうちまた衰退するのだ、という立場なのです。」
アルボムッレ・スマナサーラ『これでもう苦しまない』35~36頁)

「ゴータマ・ブッダは、世の中の人々は欲望に夢中になって、それを喜び楽しんでいるのだから、そうした対象への貪りを離れ、それらの寂滅を説く自分の教えは、語っても理解されないであろうと考えている。(略)

盲目的に何かを欲望する傾向性をもつからこそ、人々は異性を求め、より豊かな暮らしを求める。そしてその希求が生殖と労働という人間の普遍的な営みに繫がって、それが関係性を生み出し社会を作り、そこで私たちの『人生』が展開する。(略)

しかるにゴータマ・ブッダの教説というのは、その自然の勢に真正面から『逆流』することを説くものであって、彼はそのことをよく自覚していたからこそ、自らの証得していた法(dhamma)のことを、『世の流れに逆らうもの』だと捉えたわけだ。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』30~31頁)



坐禅等の瞑想の際の呼吸回数の低下により、脳への酸素供給量が極端に低下すると、「脈絡のない記憶が次々と現れてくる」中に、教義に関する言語情報が入ってくると、妄想・幻覚の元となる不定形の精神的な変化がその教義に沿ったものに解釈されやすくなるように思われます。

特に、「自他不二」の体験に類似する「自我障害」は、扁桃体の活動の低下と連動する可能性のある統合失調症の症状の一つですから、比較的解釈されやすいように思われます。

白隠禅で用いられる公案も、このような教義に沿った体験の解釈のための言語情報という機能があるのではないかと考えています。 



4 過剰な坐禅・瞑想の問題性



「悟り」体験は、それによってもたらされる「脳」の変化が、宗教団体や指導者の教義に沿うものであれば、その教義に対する確信を強めたいという人のニーズに沿ったものになるでしょう。

特に、「それに自力で気づいた」という形になった場合には、更に強く印象づけられるようになるはずです。

しかし、先の柴山全慶老師の引用にもありますし、ほとんど常識と言ってもよいかと思いますが、一般的に「悟り」の体験のできる可能性自体が極めて低いとされることからすると、特定の教義に沿った脳の変化の発生は不確実性に強く支配されているように思われます。



「すべての人が坐禅してさとりを得るまでいけるかというと、これも実際としては、(略)専門家ですら容易ではないのですから、一般信者に困難なことは明らかです。」
(朝比奈宗源『佛心』2頁)
 


また、魔境の例からわかるとおり、過剰に坐禅や瞑想をすることは精神の異常をもたらし得るものです。


 
「注意すべきことは、(略)通常の心である“自我の殻”をなくしていく時、悟り体験を得る者がいるのみならず、精神異常に陥る者もいるという点である。

たとえば、梶浦逸外(略)は悟り体験を得られず苦悶していた時期のことを次のように回想している。


 
いくら若者だといっても、無理はいつまでもはつづきません。臘八大摂心最後の一の二十一日の夜、ついに私は脳貧血でたおれました。僧堂のなかの病僧寮に入れられました。

病床で聞いていますと、寮の外で雲水たちが立ち話をしているのが聞えてくるのです。
『昔、千峰活英上座という雲水があんまり熱心に坐り過ぎて、臘八大摂心のときとうとう発狂して、老師の講座台を叩いて、天上天下唯我独尊!そうでしょうが、そうでしょうが、といいながら憤死したというが、梶浦も狂人にならねばいいが……』

こんな話を聞くと私はもう、どうしてよいかもわからず、心は悶えに悶えるのでした。」

(大竹晋『「悟り」体験を読む』242頁)



大竹先生が「“自我の殻”をなくしていく」という視点を出すのは、精神異常の機序のうちの一つを説明するものとして的確なのではないかと思います。

特に、臨済禅の世界における「公案」の役割としては、「自我」の解体が挙げられています。



「(公案を用いる理由の)一つには、最初の自我を壊して一つの体験をするためには、意味のない言葉に集中するというやり方を取ります。ですから、むしろ、あえて、もう意味がわからないものを簡単に集中させる。」

横田南嶺発言。横田南嶺・熊野裕昭「横田老師×熊野先生 禅―マインドフルネス対談」『サンガジャパンvol.32』95頁)


しかし、自我の否定は、必ずしも望ましいものではないように思われます。
 
【参考】
自我の大切さ(第2版) - 坐禅普及
【参考】
「分別心」の否定ではなく、限定 - 坐禅普及



マインドフルネスの臨床研究においては、「自我」の弱い人に対するマインドフルネスは禁忌であるともいわれています。



「自殺願望の強いクライアント、トラウマ体験から時間の浅いクライアント、自我強度(ego-strength)の低いクライアント、深刻な認知障害発達障害、精神病(略)などの心理障害をもつクライアントにも、臨床マインドフルネスを禁忌とみなす識者もいます。」
(大谷彰『マインドフルネス入門講義』198~199頁)



臨済禅にしろ、上座仏教の瞑想にしろ、その「悟り」に至る方法論としては、長時間の坐禅等の実践が必要であるとされています。

これも常識論のように思われますが、いくつか挙げると次のようなものがあります。



「(臘八摂心において)開山塔菩提樹下に、独り徹宵坐禅をすること二日、降雪粉々たる寒風に身をさらして坐りぬいた。(略)洪獄老師(釈宗演)自伝の『衣の綻び』には、『余が箇の一大事あるを省したのはこのときであった』とある。すなわち洪獄少年はここに見性の眼を開いたのである。」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』88~89頁)

「十八歳の明治四十二年三月、修行に行くことを許されました。最初掛錫(かしゃく)しましたのは、京都市花園の妙心寺僧堂でした。(略)毎夜皆のやすんだ後も外で坐って頑張り、二十歳の五月にやっと期待した見性の目的をとげました。その時分、私は夕方、昏鐘頃からの坐が一番よく坐れることを知り、日々その時間を大切に思っており、その日も気持ちよく坐り、いつか無字三昧に入り、時のうつるをも知らずにいました。そこへ直日が入室し、開板をうち、献香した後、経行(略)の柝をうった刹那、たちまち胸の中がからりとして、何もかも輝きわたり、その時は、ああともこうともいうべき言葉もなく、ただ涙がこぼれて、人について堂内を歩いていても、虚空を歩くようで、ああやっと分かったと嬉しくてたまりませんでした。」

(朝比奈宗玄『佛心』35~36頁)

「(鈴木)大拙には渡米直前の明治二九年一二月の臘八大摂心において、所謂見性体験があったと言われ(略)る。」
(水野友晴「鈴木大拙における「禅」の発見」17頁)


 
引用文に出てくる「摂心」とは、禅宗での集中的な修行期間で約1週間にわたり、徹夜の坐禅等をするものです。

上座仏教でも、リトリートと呼ばれる合宿形式の実践が「悟り」の上で重要とされているようです。

しかし、マインドフルネスが広まるに従って、このような合宿形式の修行が精神的な問題を生じやすいことが分かってきました。

これまでの記事に取り上げたものを含めて改めて取り上げます。



「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルース・ベアとウィレム・カイケンによる『マインドフルネスは安全か?』という記事が掲載された。このなかで、リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい、と彼らは指摘している。

この記事に次いで、マインドフルネスのもたらすマイナス体験の実態調査が、(略)発表された。この研究では参種類の瞑想(テーラーワーダ、禅、チベット)実践者、総計60名から6年間にわたりデータが収集された。統計結果を見ると、72%が『リトリート中もしくは終了後に問題が生じた』と答え、オックスフォード・マインドフルネス・センターの見解を裏づけている。」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』34頁)

「リトリートの参加者たちの中で、そこでの経験を瞑想センターの外での日常生活に、どのように繋げていけばいいのかという点に関する困難を、多かれ少なかれ感じた人は多かったようです。実際の所、日本で瞑想をしている実践者にも、同種の困難を感じている方々は多いと思います。」

(魚川発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』70~71頁)

「コーピング能力の未発達からマインドフルネスが困難となるケースには、境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害(略)などのパーソナリティ障害、PTSD(略)、薬物依存、衝動制御困難といった障害を抱えるクライアントが該当します。これらの障害はDBT、ACT、メタ認知療法などの臨床マインドフルネスが治療対象とする領域です。DBTの専門家たちは、こうした障害に対するマインドフルネス応用を次のように説明しています。

長時間におよぶマインドルフルネスの実践は、深刻な心理障害をもつクライアントには適用すべきではない。ある程度の基本スキルなしに実践することは失敗をまねく原因となるので、段階的に訓練を積んでゆくのが望ましい。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』197頁)



坐禅や瞑想の実践をする団体の中には、1週間前後の合宿形式の坐禅会や瞑想会を実施し、このような瞑想会等に出席して集中的に瞑想等をすれば、より効果が出るかのように宣伝をする団体も存在しますが、科学的な観点からすれば、この種の宣伝には、警戒すべきです。

私も、マニアックに坐禅をしていた頃は、この種の合宿形式の瞑想会等に参加し、大人の修学旅行のような感じで、それはそれで面白いものではありましたが、この種の宣伝を真に受けて、根を詰めて参加すると、精神的な問題を生じるリスクを負うことを十分認識する必要があろうかと思います。

坐禅等の瞑想に興味を持つ人の中には、自分自身の精神的な問題の解決に繫がるのではないかと考えている方も少なくないかとは思いますが、本当に深刻な精神的問題を抱えている人は、特に、この種の合宿形式の瞑想会等に参加することはやめるべきです。

私が、かつて所属していた団体にも、発達障害などを含めた精神的な問題を抱えた人がやってくることが時折ありましたが、そのような人に対応できるような専門的知識のある会員はおらず、当然、そのような人に対し、適切な対応のできる体制はありませんでした。
そのような人に対して、心ある瞑想団体のようにお断りをしていればよいのですが、私の所属していた団体では、指導者の方も、自分たちのやり方が心を病んでいる人にも有効であると主張したいのか、そのような人でも受け入れ、自分たちのやり方に強引に当てやめ、それを受け入れられなければ切り捨てていくようなことがありました。



仏教の教義や実践は、応病与薬の方便です。

病んでいるからこそ有用なものです。

【参考】
応病与薬の方便(1) - 坐禅普及

仏教では、「自我」の「否定」に向かう教義が重視されることが多いですが、利己心に囚われて、優越感を求めるあまり、幸福を目指しながら不幸に陥る病に陥っている人には、このような教義は、有効な薬かと思います。

【参考】
文明の発展と仏教の起源 - 坐禅普及

しかし、そうでない人にとっては有害なように思います。

「自我」の「否定」を徹底すれば、ブラック企業にいる人は「やりがい搾取」されるままでいることが正しいことになるでしょうし、DV被害に遭っている人は、配偶者から殴られるまま、虐げられるままでいることが正しいことになってしまいます。



坐禅や瞑想が精神的によい影響を及ぼす面があるといっても、それはあくまでも「薬」です。

薬を飲みすぎてはいけないように、やりすぎても有害です。

病んでいなければいらないし、健康であれば有害です。

そして、病が行き過ぎていている人に対しても、有害であることからすると、坐禅や瞑想が、適正に効く範囲の人は限定されるように思います。



私自身、うつ傾向や不安傾向があり、坐禅を通して、それが改善したからこそ、坐禅に興味を持ち、いろいろ調べるようになったり、一時期、坐禅会や瞑想会を渡り歩くようになりました。

その中で、坐禅会や瞑想会にのめり込むことによって、却って問題を抱えたり、問題を大きくしてしまっているのではないかと思われる人に少なからず出会いました。

親御さんが重度の認知症であり、奥さん(もちろん親御さんとは義理の親子関係)から介護への協力を求められているにもかかわらず、それに応じないまま坐禅の合宿に参加しに来る人もいたりして、この人は何のために「修行」とやらをしているのだろうと疑問に思うこともありました。

はまり込む人は、日がな一日、瞑想や坐禅をします。その様子を見て、私も、最初はすごいなと思っていました。しかし、そのうち、このようなあり方は、生きながらにして死んでいるのと同じではないかと疑問を抱くようになりました。

この辺りも「是非言う人は是れ是非の人」というべき点があり、深く病んでいる以上、やむを得ない行動であり、「死んでいるのと同じ」でも、生きているのに変わりないのですから、そのうち本当に生きる、すなわち、日常に戻るための1プロセスでもあるのかなとも思うのですが。



このような実態がわかるようになるにつれ、坐禅の良さを伝えることと同時にその問題点もきちんと伝えることが大切であるという思いが強くなってきました。

私がかつて所属していた仏教系の団体をやめた理由の一つがこのことです。

【参考】
所有する不幸 - 坐禅普及



仏教は、坐禅等の瞑想との関連性が深いものです。

しかし、宗教団体により、坐禅を普及させようとすることの問題点は、それを真理として、誰にでも適用できる普遍的な方法論にしてしまうことにあります。

特に、私が所属していた団体は財政状況が悪く、会員を増やして会費収入を増やすために、新規会員の獲得に力を入れていました。

坐禅のもたらすデメリットという会員を増やすためには不都合な話は殊更いわないで誤魔化し、自分たちのやり方が普遍的によいかのように宣伝せざるをえなくなります。

マインドフルネスを臨床で用いている精神科医の方でも、より仏教とコミットした「ピュアマインドフルネス」がよいように言う人もいて、警戒しなければならないことだと思っています。





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「調心」その問題性(4)――坐禅の生理学的効果(9)

「『調心』その問題性」の4回目です。

1回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412?_ga=2.85241881.1854571952.1596114502-541515618.1562325655

2回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/02/095441?_ga=2.129886735.2022437078.1596571852-541515618.1562325655

3回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/06/053426?_ga=2.234669341.2022437078.1596571852-541515618.1562325655



5 心で心を制御しようとすることの問題性



そもそも心によって心を制御することは困難です。

私たちは、色々な場面で、不安な自分や勇気を持てない自分を感じることがあります。

そのような場面では、取越し苦労であるということや、また、少し恥をかくだけの話だということを分かっていても、どうしても心がついてこない。

そのような問題意識があるからこそ、坐禅や瞑想に興味を持つ方も少なくないのではないかと思います。

現に、心の制御の困難を感じているのに、その心を心によって制御しようとしてしまう矛楯。

私たちは、普段、(随意運動については)自分の意志に基づいて自分の肉体を動かしていると考えています。

坐禅において、一定の呼吸をしようと呼吸を制御したり、一定の姿勢を維持しようと身体を制御したりするこを、私たちは、自分の意志でやっていると思っていますが、この「自分の意志」は誰が作るのでしょうか。

普通の感覚ですと、「自分の意志」は、自分で作るように感じるのですが、よくよく反省してみると、私たちは「自分の意志」を作るような作業をすることはありません。それは気づいたときには既にあるのです。

生物学的にいうと、「自分の意志」を造り出すのは、「自分の意志」ではなく、脳などの肉体の生理現象であり、そして、脳を含めた私たちの肉体は、生物学的な自然の法則に基づいて機能しているのですから、「自分の意志」は、このような自然の法則に従って形成されるものといえます。

最近の脳科学論においては、人が行動をするときには、行動しようとする意志が形成されることに先立って、脳が筋肉に動作をするよう指令を出すことが判明しているそうです。



「意志はどこから生まれるのでしょうか――再びこの問題に戻ります。そもそも脳にとって『自由』とは何でしょう。(略)

独マックス・ブランク研究所のヘインズ博士らの研究を紹介します。(略)

押したくなったらボタンを押す――ただそれだけの実験です。そして、『押したい』という意志が生まれたときに表示されていたアルファベットを憶えておいてもらいます。(略)

この作業をしている脳をモニターしてみます。ボタンを押したくなる『心』が、いつ、どこで生まれるのか。『自由意志』のルーツを探ろうというわけです。(略)

結果は衝撃的でした。本人が『押したくなる』前に、すでに脳は活動をはじめていることがわかったのです。意識に『押そう』という意図が生じる前に、無意識の脳はすでに『意図』の原型を生み出しているのです。

もちろん、『こうした脳の事前活動は意志と相関するが、原因であるという保証はない』という反論はできます。しかし、私たちの心や行動は脳の活動である以上、意志もまた脳の活動の結果にほかなりません。この視点をさらに推し進めれば次のようになります。

脳がある活動をしたということは、そのある活動を生み出す元となる活動も脳のどこかにあるはずです。どんな活動にも原因、つまり上流の活動があるはずです。無からは何も生まれません。『押そう』という意志が生まれたということは、その源流である『押そうという意志』を準備する事前活動が、それに先だって脳のどこかに現れるのは当然のことなのです。(略)

どのくらい前から脳は準備を始めるか(略)。驚くなかれ、ヘインズ博士らのデータによれば、平均7秒も前から活動が開始するというのです。早い場合は10秒前に準備の活動が見られます。(略)

となれば、私たちの『自由意志』とはいったい何でしょう。意識に現れる『自由な心』はよくできた幻覚にすぎない――これはほぼ間違いないでしょう『意志』は、あくまで脳の活動の結果であって、原因ではないのです。
池谷裕二『脳には妙なクセがある』273~276頁)
  

私たちの肉体を動かすものを「自己」と呼ぶのなら、普段、私たちが「自己」と呼んでいるものは、その有用性から認められたフィクションであり、「本当の自己」とは、脳を含めた肉体を生理学的に活動させる「自然の法則」ということになります。

人間が「自然の法則」に支配された他力的な存在であることが大乗仏教の基本的な考え方であり、白隠禅において体認(されたことに)する見性の対象であると思っているのですが、本稿から外れるので、詳細な言及は避けます。

「佛心」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/20/220847?_ga=2.126861582.2022437078.1596571852-541515618.1562325655

なお、「自己」の存在価値については
「自我の大切さ(第2版)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/01/171621?_ga=2.19874363.2022437078.1596571852-541515618.1562325655

私たちの心が、私たちの心によって制御されていないという観点からすると、調心自体に困難な面があり、調心を試みることが却ってストレスをためがちなものになるようにも思います。



6 只管打坐



「調心」には、問題が生じがちであることからすると、特段宗教上の信念がないのであれば、「調心」はしない方が無難なのではないか、というのが、私の結論です。

その意味で、只管打坐は評価されてよいようにも思います。

気を付けなければいけないのは、臨済禅の観点から、只管打坐を数息観・随息観の発展形であり、数を数えたり、息に集中したりなどせずとも、雑念が生じない状態を目指すものであるという捉え方があることです。

ネーミングの問題にすぎないという見方もできましょうが、本稿でいう只管打坐は、曹洞宗におけるもののこと、すなわち、「坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず、また、あらゆる希望・願望・要求・注文・条件等を持込まないでただ坐る」(石井清純『禅問答入門』227頁)ことをいいます。

先のような臨済禅の一部の捉え方では、只管打坐が「調心」をしてしまうことと同様の問題を抱えてしまうことになるので、注意しなければならないように思います。

とはいえ、前記の「如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず」というのも、目標的なニュアンスを生じさせ得るので、私自身は、「調心をしないこと」と表現をする方がよいのではないかと思っています。

「調心」を意識しなくても、ゆっくりと息を吐く調息と姿勢を正す調身により、扁桃体の活動の低下、自律神経の均衡、テストステロンの分泌などの生理学的な効果が期待できます。
 


ただ坐り、ただ呼吸するだけで、自然と心は調う。

「調心」とは、そのような意味だと捉えるのは、いかがでしょうか。






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「調心」その問題性(3)――坐禅の生理学的効果(8)

「『調心』その問題性」の3回目です。

1回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412

2回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/02/095441



4 雑念をなくし、集中することを目指すことの問題性



(1)雑念をなくすことを求めない理念的理由


 
雑念をなくすとか、集中するということが漠然と、坐禅や瞑想の目的であると思われてしまっていることはよくあります。

しかし、実際には、瞑想や坐禅では、このようなことが当然に目的とはされていません。

少し前に投稿した「雑念あってよし(第2版)」の記述とも重複する点がありますが、このような雑念を出なくさせるということは、当然に、坐禅や瞑想の目的になるわけではありませんし、どちらかといえば、このようなことを目的とすることは適切ではないと考えることが主流になっています。

【参考】
○「雑念あってよし(第2版)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/11/112917
 
たとえば、理念的には次のようなことがいわれています。



「もし念が起こったら、すぐに数息なり、公案なりに取って返せというのである。妄念が起こったからといって、これをなくしようなどと夢々これに取り合ってはならない。念をやめようというのが、また一つの念なのだから、それでは念のやむ時はない。血で血を洗うようなものである。血は水できれいに洗わねばきれいにならぬ。この水に当たるものが数息観であり公案参究である。だから念が起こっても一切取り合わずに、数息なり公案なりに取って返すのである。こうすれば、もともと根無草の念のことだから、『紅炉上一点の雪』のごとくすぐにシュンと消えてなくなる。」

(秋月龍珉老師『公案』49頁)

「煩悩を追うな払うな引かれるな。 

煩悩を追ったり払ったりしている中に肝腎の自分を見失ってしまう。坐禅をしている間に、たとい八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。悟りを求めず、迷いを払わず、念の起こるを嫌わず、また念を愛して相続せず、ただ起こるに任せ滅するに任せておく。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』84頁)

「雑念、妄想と思うのは起こってくる念(色々な思い)の他に私があると認めるからである。雑念、妄想の外に私なしとわかれば、雑念、妄想はそのまま正念になる。」 

(山本龍廣「巻頭言 妄想」(『禅味』2019年4、5、6月号)3頁)

「無心になるとか、無念無想になるとはどういうことか、『菜根譚』はそれに明快な答えをだしていう。

近ごろの人は、専心、無念無想になることを求めるが(かえってそのために雑念を生じて、)結局、無念無想になれないでいる。ただ、前念をとどめてくよくよすることもなく、後念を迎えてびくびくすることもなく、ただ目の前に起っている物事を、次々に片付けて行くことができれば、自然にだんだんと無念無想の境にはいっていくことができよう。(今井宇三郎訳注、岩波文庫本による)

無念無想になることを求めようすればするほど妄想はおこるものである。一度坐禅をしてみればよい。妄想がつぎからつぎへおこってきてどうしようもない。過去にした失敗をくよくよするのは無駄なこと、また未来のことをあれこれ心配するのは無用なこと、やることはただ今のことだけだ。一回ぽっきりの人生のただ今のことをつぎつぎに処理してゆくこと、これが無念無想にほかならない。」

(鎌田茂雄『禅とはなにか』44~45頁)



このような考え方の背景には、あらゆる出来事が「自然の法則」に従って起きる以上、それには必然性があり、結果を問わない「どちらに転んでもよし」と、すべての結果をありのままに受け入れる心を創ることが、禅の実践の目的の一つとされることにあるように思います。



坐禅がわれわれに覚めさせる生命の実物とは、まさに『自己ぎりの自己』『今ぎりの今』――『どっちへどうころんでも、出逢うところがわが生命』という生命態度です。

われわれは、ふつういつでも何事につけてもアレとコレと分別比較し、少しでもなんとかウマイ方へころぼうというはからいを働かせ、そのために、かえってッキョロキョロ、オドオドしながらいきています。というのは、ウマイ方を考えるかぎりは、ウマクナイ方があるのは当然であり、それゆえウマクナイ方へころぶまいという危惧が、どこまでもついてまわるからです。つまりこのウマイ方とウマクナイ方ということを分別して生きるかぎりは、決して『どっちへどうころんでもいい』というような絶対的な安らいにおいてあることはできません。」

(内山興正『坐禅の意味と実際』115~116頁)

「何故に生死があるかというに是れは萬物変化の相であって宇宙活動の現象である。宇宙の本体は絶対平等であるが、恰も大海水に波瀾あるが如く、絶対平等とは申し乍ら霊動体であるに依て常恒不断に活動を起して息(や)まぬ(略)、然れば吾々の生も死も皆な霊動作用でありますから、生死として厭うべきも無く涅槃として欣うべきも無い筈である、けれども凡夫は常に生死の為めに縛られて、三界六道昇沈の相に苦しんで居るのは何故ぞというに、是れは宇宙その物より苦しめらるるに非ずして、皆な各自が自ら作り出だせし業相であります(略)此生死に対する観念亦之と同じく、苦痛と観るも愉快と観るも、その観る人の業障と思想のとの致す所である」

(新井石禅『教理と信仰』44頁)

「最後は全部、受け入れる。『公案』の正解が出ようと出まいと間違っていようとそんなことはどうでもいい。
その『どうでもいい』という所までゆかないといけない。」
(有馬賴底『『臨済録』を読む』24頁)



雑念の生じることを避けようとすることは、このようにあらゆるものを受け入れるという禅で目指す心の持ち方に反するように思います。



(2)雑念を放置すべきプラクティカルな理由



以上は理念的な話になりますが、坐禅や瞑想指導の現場におけるプラクティカルな視点では次のようなことがいわれています。



「瞑想という言葉から、考えや雑念が何も浮かばなくなることがゴールであるというイメージが強いのか、『あっ、また心がそれた、なんて自分はだめなんだ』と心がそれたことで自身を非難してしまう初心者が多いのです。(略)

注意を向ける際の心の態度は、批判・非難・評価しないという態度であることが明示されています。何かに心を集中しようとすると、そこから注意が離れて他のことを考えるというのが心の習慣です。ですから考え・雑念が出てきても、そのことを非難する必要は全くありません。」

(越川房子「マインドフルネスとは」『大法輪』2020年3月号63頁)

「マインドフルネスを学びはじめの方にとくに多いのですが、この瞑想を行なっているときに雑念が出てきてしまうことを悪いことだと気にされる方が非常に多いです。しかしながらこれは大きな誤解です。

マインドフルネスは雑念を押さえたり、雑念が出なくなるようなことを目指すのではなく、雑念が出てきたときにそれに囚われないでいる自分をつくることが大変重要です。うtまり、雑念は練習をつづけていてもありる程度は出てくるのです。

それに補足しますと『雑念』というのは『心がつくりだすフィクション』です。今実際に目の前にないことが雑念となって頭の中に現れてきます。つまり、雑念に飲み込まれるということは心がつくりだしたフィクションの世界に入り込んでしまうことになります。」

(井上広法「マインドフルネスの実践法――通勤・会社・家庭――」『大法輪』2020年3月号75頁)

「初心者の多くは、瞑想中に雑念が浮かぶのは悪いことだと思い込んでいる人が多いようです。ですから、今日もまた雑念がいっぱい浮かんでしまって良くありませんでした、と自己卑下的に話す人がいます。自分のマインドフルネス訓練に対して採点してしまうのです。

このような時に私は次のように話します、“それはそれでよいのです。マインド・ワンダリングに気づくことがマインドフルネスなのです。呼吸に注意集中(考えていない状態)→雑念→雑念に気づく→呼吸に注意集中の繰り返しが脳の訓練、すなわちマインドフルネス訓練です”と。今日はリラックスできてよかったなとか、今日は落ち着かなかったなとか、今日は集中できたとか、いろいろ自分雄マインドフルネス訓練を評価してしまうのですね。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号79~80頁)



以上のことは、「雑念が出てもよい」程度の話ですが、次の熊谷宏昭先生のお話は、逆に「雑念が出る方がよいのだ」という観点のものであることから、興味深いものがあります。



「サマタ瞑想のときになぜ起きていられるかですが、これはリラクセーション反応の研究、あるいはリラクセーションを使う自律訓練法というのがあって、その自律訓練法の中で非常によく知られている現象に『自律性解放現象』というのがあるのです。自律訓練で緩んでくると、いろいろなものが出てきます。瞑想される皆さんがよく経験されるのは雑念ですよね。集中しよう、無念無想になろうとすればするほど雑念が出てくる。あるいはリラックスしてくると、何か凝っている感じがあるなあとか、ちょっと痒いなあみたいな感じとかいろいろな体の症状なんかも出てきます。これは瞑想などで一点集中して無になることから言えばネガティブなことですが、自律訓練法では実は自律性解放が起ったほうが症状が改善することが知られているのです。つまり、自分の中に溜め込んでいた歪みみたいなものが浮き上がってきて解放されていくわけですね。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』67頁)



このような視点が出てくる理由は、熊野先生が精神科医であることにも関係しているように思います。

カウンセリングの現場では、自分の抱えているトラウマ的な事実を語ることそれ自体が治療になるという場面もあるからです。



フロイトは、抑圧していたもの(略)古代遺跡と同じで、発掘されたときから風化する、と述べています。秘密は話したときから風化します。」
(東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』204頁)



(3)臨済禅における坐禅実践における雑念の取扱い



雑念の発生を忌避しようとする考え方が臨済禅の数息観の実践の一形態として現われる場合があります。

たとえば、数を数えている途中で、雑念が生じたときは、一から戻って数え直すというものです。

しかし、このような立場が臨済禅一般の方法とは思えません。

個人的に複数の臨済禅の寺院等で実践される坐禅会に参加したことがありますが、このような雑念が生じたときの数え直しを指示されたことはありませんでした。

これは円覚寺の暁天坐禅会等でも同じかと思われます。そもそも円覚寺の居士林で土曜日に実施される初心者向け坐禅会に参加したときには数息観の指導もありませんでした。
臨済宗建長寺派では、この点に自覚的であるように思われます。



「初心の方が坐禅を実践する中で一番難しいのが、雑念にどう対処したらよいかということのようです。

坐禅中に起こる念を念で止めようとすることは、血で血を洗うような行為で際限がありません。心で心を無くそうとすると、心はますます有となります。ではどうすればよいのでしょうか。

念は出次第にしておき、ただそれに執着せずにいる。何が出てきても止めようとも、無くそうともしない。念が有ったり無かったりするままに、すべて放下(ほうげ)して取らず捨てず。これが雑念への対処の仕方であり、坐禅の急所です。」

臨済宗洪福寺(政栄宗禅)『坐禅入門』11頁)



このような考え方の背景には、「一念不生」という概念についての次のような理解が前提となっているのではないかと思います。



「『一念不生全体現、』先に申し上げました如く以下四句禅修行の心得であります。そのおつもりでお聞きください。――一念と云うは、可愛い――憎い――ほしい―――おしい――と云う、それであります。かかる念慮は何人にも胸中に生じます。それを生じさしてならぬと云うのであります。従来、心と行うものは死物ではありません活物であります。故に如何にしても念慮の生じない様には出来ません。(略)種々様々な念慮の生ずるのが、心の本質であります。一応字面の上のみを見ますると無念無想になれと云う様でありますが、否、然らずであります。可愛なら可愛の一念の外に余念を生ぜず、憎いなら憎いの他に邪念を生ぜず、ほしい――おしい――そのまま、是に別の念慮を混入せず、そのものそれ三昧になることであります。それ三昧になりきった処に心の全体が現出致します。(略)

元より本性は無病健全である。然るに可愛いと云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、ぞれぞれが抑々(そもそも)病気の上の病気である。煩悩即菩提であると云うことを知らずして是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」

(菅原時保『碧巌録講演(其二)』57~59頁)



菅原時保老師は、建長寺派の管長もされていた方であり、先の洪福寺の住職の政榮宗禅老師も建長寺派であることから、「建長寺派では、この点に自覚的である」と考えた次第です。

煩悩が生じることも、自然の法則のなせるものであるにもかかわらず、それを振り払おうとすることが更に苦悩を生じさせます。

雑念も同じであり、これを振り払おうとすると苦悩が生じるということかと思います。



(4)集中瞑想それ自体の問題性



プラユキ・ナラテボー師は、そもそも集中瞑想自体に問題があると指摘します。

長文の引用になりますが、興味深い指摘です。



「『幸福になるために瞑想をはじめたはずなのに、かえって苦しみが増えてしまった気がするのだけど、どうしたらいいでしょうか』と言う人が、私の瞑想会や面談会にいらっしゃることはよくあります。そういう方々を見ていると、やはり『過度の集中』が、身心のバランスを崩す主要因になっているように思われる。(略)

集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つものですから、そこにハマってしまうと、イキイキとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われてしまう。

そして、この集中によるデフォルメされた認知から派生するもう一つの大きな問題は、それが心理学で言うところの『解離』の症状や、『回避』の行動をもたらすことです。私が蚊に刺されたかゆみが全く平気になるようなトランス状態に入ったのに、にもかかわらずその騒音にどんどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の情を抱くようになるんですね。

実際、私がお話しした『瞑想難民』の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者によっては、そういう状態を『瞑想が進んでいる証』として、肯定してしまったりするわけです。それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに状況を悪化させていくというスパイラルに落ちていく。」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』137~138頁)



プラユキ師の「集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけです」との指摘は、「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」で取り上げた、扁桃体の過度の活動による情動反応の低下などといった問題と整合的であるのではないかと思っています。

【参考】「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?

私たちは、仕事や勉強をする際に、ほかのことに目が行って、仕事や勉強がなかなか進まないという経験をすることが少なくないのではないかと思います。

だから、「集中する」ということを無批判によいことであると思いがちであるように思います。

しかし、「集中できない」ということがこのように自然であるからこそ、「集中する」ことには警戒すべき点もあるように思います。

プラユキ師は、「集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つ」という集中の異常性について触れていますが、脳科学論からも、集中の異常性を指摘をするのは、池谷裕二先生です。



「私は、集中力とは、本来、動物にとって不自然なものだと考えています。集中するということは、周囲に乱されることなく、一点に意識を集めることを意味しています。野生の動物を想像してみてください。たとえば、シマウマが地面の草を食べることに集中することは、よいことでしょうか?

そんなことをしたら、肉食獣の格好の餌食でしょう。野生の動物たちは、一点集中を避け、むしろ、意識を周囲に分散させながら外敵に注意する「分散力」を必要とします。だから、集中しないようにする“非集中力”を発達させてきたわけですし、その能力に長けた動物たちが生き残ってきているわけです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』319頁)



そもそも坐禅や瞑想の時に集中できたとしても、それは坐禅や瞑想の時という場面に応じたところのもので、それ以外の時に集中できるかは別であると考えるべきなのでは無いかと思います。

脳がある場面で望ましい活動をしていても、脳が普遍的に望ましい活動をするとはいえないという観点から、池谷裕二先生は、いわゆる「脳トレ」にも疑問を呈します。



「世間一般における『脳によい』ことを指示するためのデータ基盤が、ほとんどの
ケースで『○○をすると脳が活性化する。したがって、○○をすれば脳が鍛えられる』という論理構造を持っている(略)。

脳トレにおいて問題にされるべき核心は、トレーニング中に脳がどう活性化するかではなく、トレーニングによって脳がどう変化(あるいは成長)するかということではないでしょうか。(略)

脳が変化したとしても、まだ問題があります。つまり、成績が上昇しなければ、まったく意味がないからです。脳トレを試みる人が本当に気にしていることは、どれほど脳が活性化するかではなくて、結局は『成績が上昇するか』(略)ではないでしょうか。(略)
実生活としては、たとえば計算練習をして計算が速くなれば、結局、もうそれで十分であって、それ以上の実質的な意味はありません。なぜなら私たちはあくまでもトレーニングによって外に現れる変化を期待しているのですから。脳の内側を気にするというのは、それ自体が奇妙な風潮なのです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』107~108頁)



「『○○をすると脳が活性化する。したがって、○○をすれば脳が鍛えられる』という論理構造を持っている」というのは、脳トレで行われるような計算をするような時には、「脳が活性化」していることは当たり前なので、そこから当然に脳が鍛えられるかは別ということなのでしょう。

そして、脳トレの「計算練習をして計算が速く」なったとしても、それ以外の場面で脳がほかの人よりも効率的に機能するとはいえないということなのかなと思います。

禅に関係する本を改めて読んでみると、禅の世界でも、ある場面において集中力を発揮できることは、他の場面で集中力を発揮できることを意味しないことを前提としているということがわかります。



「正三は、ある時にこう言っている。禅定の機、坐禅の気合いというのはどういうものかと聞いたら、大刀を抜いて構えて見せて、これだと。だから侍は禅定に入りやすいんだ。ところが、侍というものは刀を置くとゲソッとして禅定の機を失ってしまう。それで駄目なんだ。禅僧というものは、朝起きるから夜寝るまで、いや寝た中でも刀を抜いてピタッと構えたような気合いでいるものだと。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』14~15頁)



とはいえ、坐禅をしていれば当然集中力が日常のあらゆる場面で継続するのかというとそうではないように思われます。

禅の世界で「正念相続」ということが言われ、坐禅の際の精神状態を日常一般まで拡大するよう強く言われる理由は、坐禅の際の精神状態、本稿の文脈で言えば集中力は、坐禅後も当然に継続するわけではなく、そのためには「特別な訓練」が必要であることを前提とするものでしょう。

(ちなみに、私自身は、このような「正念相続」理解には若干の疑問を持っています)

【参考】「【参考資料】正念相続とは随処に主となることである」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/04/03/215638

集中力を養うことも悪くはありませんが、これを坐禅や瞑想を通してやろうとすることに問題があることからすると、やるのであれば、私たちの多くが実際にやってきたとおり、仕事なり、勉強なりのその現場で仕事や勉強を一生懸命にやるというオンザジョブトレーニングでやることが適切かつ効率的であるように思います。





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「調心」その問題性(2)――坐禅の生理学的効果(7)

「「調心」の問題性(1)――坐禅の生理学的効果(6)」から引き続いて、調心に関する知識に触れて行きたいと思います。

前稿(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412?_ga=2.85241881.1854571952.1596114502-541515618.1562325655



2 「瞑想病人」問題



マインドフルネスが広まり、臨床分野でも実践されるに従い、瞑想には、メリットばかりではなく、デメリットがあることもわかってきました。 



 
「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルース・ベアとウィレム・カイケンによる『マインドフルネスは安全か?』という記事が掲載された。このなかで、リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい、と彼らは指摘している。

この記事に次いで、マインドフルネスのもたらすマイナス体験の実態調査が、(略)発表された。この研究では参種類の瞑想(テーラーワーダ、禅、チベット)実践者、総計60名から6年間にわたりデータが収集された。統計結果を見ると、72%が『リトリート中もしくは終了後に問題が生じた』と答え、オックスフォード・マインドフルネス・センターの見解を裏づけている。個人の実践では28%が『不快体験あり』と回答した。不快反応のタイプについては『恐怖、不安、パラノイア』(82%)が抜きんでている。しかし特筆に値するのは、マインドフルネスによるトラウマ記憶の再体験である。これは

《実践者の習熟度にかかわらず、約半数近くの実践者(初心者43%、熟練者47%)に生じた。》

研究対象の被験者数が60名と比較的限られているにせよ、(略)マインドフルネスにより『瞑想難民』のみならず、『瞑想病人』の出現すら危惧される」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』32頁)

「マインドフルネス実践中に

《トラウマの自然除反応が発生》

することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、

《自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感》

といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネスが禁忌となりやすい条件が推察できます。

仏教に造詣の深い精神科医精神科医マーク・エプスタインは、臨床マインドフルネスの悪影響について、マインドフルネスの進展レベル(初心者/熟練者)、およびクライアントのコーピング能力(高/低)という2つの視座から論じています(略)。彼によるとマインドフルネスでは初心者から熟練者までの各レベルにおいて幅広い『副作用(side effects)』(たとえば、知覚の変化、不安、焦燥、トラウマ記憶再生(自然除反応)など)が生じる。これらのなかには『病的』なものもあれば、一過性の困難やトラブルにすぎないものもある(略)。こうした現象が適切に処理できればまったく問題とはならないが、対応が一時的に困難となった場合や、コーピング(*1)能力の低いクライアントには深刻な問題になりかねない、と警告します。この区分によると、トラウマ記憶によるマインドフルネス実践中の自然除反応は『一過性困難』の典型であり、境界性パーソナリティ障害(*2)のクライアントは『コーピング能力の低いクライアント』のケースと言えるでしょう。要するに、臨床マインドフルネス実践では、クライアントのあらゆる反応に留意することが必要であり、なかでもコーピング能力が十分に確立されていないクライアントには特別の配慮が必須とされるのです。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』195~196頁)

*1 コーピング=ストレスマネジメント手法の一つ。自分のストレスの感じ方を認知・内省して対処する方法。
*2 境界性パーソナリティ障害=情緒不安定パーソナリティ障害とも呼ばれる。不安定な自己―他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害。自傷行動、自殺、薬物乱用リスクの高いグループ。



また

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?_ga=2.23411774.589133550.1595447636-541515618.1562325655
でも触れましたが、偏桃体の活動の低下は、統合失調症と連動するとされているところ、マインドフルネスは、統合失調症の患者には禁忌とされており、呼吸回数の低下により偏桃体の活動が低下することによって統合失調症の症状が進行しやすくなると思われることと整合するように思います。



「マインドフルネス訓練を行ってはいけない人は、真正の統合失調症急性期の患者さんです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号83頁)

「先ほどサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が、それぞれ医療とか心理臨床の世界に取り込まれてきた過程をお話ししましたが、リラクセーション法は実は、

統合失調症の人はやらないほうがいい》

ということがわかったんですね。やはり、統合失調症の方だと、中にあるものが溢れ出してくるということがあるのだと思います。だから、集中していくということの結果、起ってくるそういう反応みたいなものに、やっぱり充分気をつけていなくてはいけなくて、そこのところが充分にケアできないような状況でやると、過集中のような状態になって、さらにその反応がワッと出てきて悪化するというようなことがあったり、あるいいは怒りなんかがまたコントロールできないような状態になったりというようなことも起こるのだろうと思います。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』85頁)



さらに、精神科医でもある臨済宗の禅僧の川野泰周師によれば、うつ病の人に対しても、初期段階では、マインドフルネス、特に呼吸瞑想は避けるべきであるとのことだそうです。



「自責感の強い人に呼吸瞑想をやろうとすると却って自責感を強めてしまう。自責感を休息と薬物療法で下げた後でマインドフルネスをやるとよい。」

(川野泰周発言要旨。「お寺で対談 其の五」『臨済宗 円覚寺派 大本山 円覚寺』WP)
https://www.engakuji.or.jp/blog/32082/



扁桃体との関係を考えると、うつ病の類については、マインドフルネスや坐禅の適応があると考えていたので、新たな発見でした。

このような問題が生ずることから、心ある研究者の間では、マインドフルネスの効果に関する喧伝への危惧が示されています。



「(Googleやスタンフォードシリコンバレー等では)他の地域に比べれば(マインドフルネスが)盛んと言うこともできます。しかし、決して、全員がしているわけではありません。

《日本で、針小棒大に宣伝されている可能性》

も否定できません。」
(飯塚まり「プロローグ」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』17頁)

「なかには人々の仏教や“悟り”に対する漠然とした憧れを半ば意図的に利用して、『このマインドフルネス瞑想をやれば、悟りも達成できるし、世俗の社会生活も上手くいく』といったような、あたかも

《マインドフルネスが『万能薬』であるかのような宣伝文句で人々を引きつけようとする瞑想指導者》

もいないわけではない。この点については、厳に注意が必要であろう。」
(魚川祐司「ピュアマインドフルネスの「目的地」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』64頁)



3 「評価をする発想」が瞑想病人を生む



「瞑想病人」が生まれる理由については、プラユキ・ナラテボー師の次の論考がわかりやすいと思っています。



「日本やタイでは、苦しみから抜け出そうと瞑想していくうちに、さらに多くの苦しみを抱えてしまう『瞑想難民』が増えている。(略)
苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり、人間関係がぎくしゃくするようになったり、なかには

統合失調症離人症、感情障害や摂食障害

のような不調をきたす人もいる。
 
《その要因として瞑想をストイックにやりすぎ》

て、心身機能のバランスを崩すケースが多い。心身の土台がしっかり整っていない状況で、心というデリケートな対象にアプローチした結果、それまで自然に機能していた生命状態が撹乱し、心身の調和が乱れ、通常の認知状態に戻る柔軟性も失われてしまい、種々の症状となって現れてくるのである。
 たとえばこんな感じである。精神状態がちょっとすぐれないので、『瞑想で解決しよう』と思いたつ。けれども、

《集中が思うように続かず、「俺はダメな人間だ」と考えて、無能力感や絶望感》

に陥ってしまう。心を楽にしようと思って始めた瞑想が、いつの間にか『苦悩の増幅法』にすり替わる。しかも本人はそれに気付かずに、

《『いつかは成果が……』と自己を叱咤しながらやり続ける。そのうちに種々の精神障害を発症。》

心がさまざまな不調のシグナルを発していたにもかかわらず、無理してやり続けることで症状を悪化させてしまうのである。」
(プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』66~71頁)



この論考を見ると、瞑想をする上で、目標達成のための手段や結果について何らかの評価をしようとした場合には、精神面での問題が生じやすくなることがわかります。

素人的に考えても、良し悪しの評価が入る余地が出てくれば、却ってストレスがたまるように思われます。

そもそもマインドフルネス自体が、評価するという発想とは異なるものです。



「(マインドフルネスの)定義には一貫して二つの共通要素がある.一つはnon-judgmental(判断を加えない)ということの強調である.自分が今している経験がどのようなものであれ

《評価や判断を加えず》

受容の態度でそれをありにままに観察する,ということだ.通常,われわれは自分の好悪や善悪といった判断に基づいて自分の経験を概念化し,貪りや怒りといった煩悩に駆られた行動を起こすという強迫的な傾向性の虜になっているが,

《経験に対して判断を加えないでそのまま受容する》

ことによってそのような習慣的パターンをはずすことができるようになるのである.今している体験に何かを加えたり,あるいはそこから何かを引いたりして,別な体験に変えようとするのではなく今起きている体験をそのまま存在させるという受動的な態度が強調されている.心理療法の世界では『脱中心化』と呼ばれている,自分の体験に振り回されないようにそこから少し距離を置く,あるいはスペースをつくる技法に通ずるものがあり,マインドフルネスの持つ効用はこの特質から来るとされている.」
 
(藤田一照「「日本のマインドフルネス」へ向かって」『人間福祉学研究第7巻第1号』22頁)




坐禅指導の現場では、このような評価しないことの大切さを考慮せずに、雑念をなくすとか、集中するなどといったことを無批判に坐禅の目標として提示してしまうことが少なくないように感じます。

初めて坐禅の体験をした方に対して、「うまくできましたか?」などと評価するように聞き、相手の方から、「どうしても雑念が出てしまう」とか、「集中するのが難しい」などと返答がされる。それだけでも、坐禅によって却ってストレスが高まっていることがわかります。

そして、ほとんどの方は二度と坐禅をやりに来ません。 

雑念をなくすとか、集中するなどといった目標を設定したり、それがどれくらいできたかなどと評価することは、宗教的な目標ないし信念を考慮しないのであれば、慎重になるべきだと思われます。

臨済禅の一部には、坐禅の目的の一つとして、雑念を生じないことを挙げる立場もあります。

しかし、後に述べますが、このような立場は、臨済禅の世界でも主流ではない上、瞑想の世界でも少数派です。このことは、多くの人にとっては、雑念の発生を防ぐことを課題にすることは、合理的な実践方法ではないことを意味しているように思います。

したがって、坐禅指導等の際に、敢えて目標の設定やその評価をするような方法を用いるときには、相手に対して、却ってストレスが高まるリスクがあることもきちんと説明することが適切ですし、そもそもそのようなことはしない方がよい。

坐禅等の瞑想の際に、何らかの形で心の持ち方を問題とすると、どうしても、そのような心の持ち方がうまくできるかどうかが問題となり、評価の問題が生じざるを得ません。

何らかの形で「調心」をすることの問題性はここにあります。

次の項目では、この点を掘りさげてみようと思います。





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