坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

魔境(2)――坐禅の生理学的効果(11)

魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10) の続きです。
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/09/023521

5 「禅ブーム」の終焉と日本仏教における坐禅否定の系譜

(1)「禅ブーム」とその終焉



禅宗史を繙くと、明治期に禅の流行していたことがわかります。



「この時代(明治期)には、激動する時代の中で心を平静に保つことが求められ、また、今北洪川や由利宜牧らが在家に対して積極的に指導を行ったこともあって、各界の名士の間で参禅が流行し、居士の活躍も目立った。彼らは居士であることを存分に発揮し、結社や出版、教育などの様々な活動を通じて積極的に社会と関わったのである。」
(伊吹敦『禅の歴史』293頁)
 


明治期の禅の流行については、孫引きの部分的な描写ですが次の記述が当時の「禅ブーム」というべき様子を生き生きと伝えています。



「(前略)明治中期以降の在家禅の流行という社会現象なしにはありえなかった。よく知られた漱石自身の鎌倉円覚寺参禅(明27)もこの現象の一部と見ないわけにいかず、銀行家早川千吉郎によれば、学生時代の彼が参禅した一六年の同寺に『参禅の僧俗は門前市なす有様』であった。佐橋によれば『この禅学大盛行のお先棒をかついだ』のは山岡鉄舟勝海舟で、特に海舟は維新での自らの功勲に『坐禅の功』を絡めた『ダボラを吹いてしまう』ものだから、『禅をやれば胆力ができるとか、自分の本職の技術が上達するとか』の現世利益を求めて、軍人はもちろんのこと『商人でも大工でも進んで』参禅し、怪しげなニセ禅道場さえ出現していた。」

佐々木英昭「「禅をする女」はどう読まれたか『草枕』と『煤煙』」『日本近代文学会』第65集65~66頁)



しかし、このような禅ブームがあったにもかかわらず、現在は、低調であるように思われます。



「戦後の禅の特徴として、禅僧の社会的活動が極めて限られたものになったということが挙げられる。(略)国内における社会的な認知度は、立田英山や久松真一(1958年にFAS禅協会を設立)、藤吉慈海(1915~、台湾仏教を参考に、新たに念仏禅を唱える)などの活動にも関わらず、次第に逓減しつつあるように見受けられる。」

(伊吹敦『禅の歴史』306頁)



低調の理由の一つとして、仏教の実践は、その場、その時、その人限りの応病与薬の方便であり、場所、時、人が変われば当然有効ではなくなるという抽象的な理由が考えられます。その時代に合った教義を提示した宗派が隆盛し、時代に合わなくなれば廃れていく、栄枯盛衰の物語が仏教の歴史でもあります。

そのほかに私自身が有力な理由と考えることは、やはり、過剰な「修行」をすることにより、却って、精神に問題を来し、社会に適合できない人が現れたからではないかということです。明治期におけるその実態については、先に引用した佐々木先生の論文が参考になります。



「鬼面人を驚かす類の『独善的な言行』に走りがちな『厭味』な野狐禅者が明治期に量産された(略)。

その種の危険への警戒の声は当時、禅界の内外から聞かれた。禅界からいわく『世の禅に志すもの往々畸行を為すを以て得意とし、禅者といへば一種変態の人物の如く思ひ、落語家や講談師が出鱈目に陳べ立つる一休和尚伝などを聞いて真に禅者の模範なりと思へるは笑ふべきの至りである』(忽滑谷快天『禅の妙味』(略))。また他宗派から『今年あたりも、鎌倉などは書生やら何やら、大分参禅者が多かったそうだが、(略)ある専門学校の生徒も参禅を考えながら『どうも坐禅をした人間を見ると言ふと、以前よりも却て花柳界に踏み込んだり、不品行なことをすることを平気になるのはどういふものだらう』と悩んでいた、『今の禅宗のものは〔中略〕空見識ばかりついて、放縦になるのをよいことにして居るといふ風がどうもある様だ』(村上専精談(略))

当人の主観はどうあれ、周囲には遊戯的・演技的と映じて顰蹙される亜流の禅者。ところで、それが女であった場合、『女らしき』という規範からの逸脱という別の問題も重なって顰蹙の度が増そうとは、容易に推察されるところである。たとえば四三年刊の談話集『名士禅』(略)が取り上げた唯一の女性である伊沢千代子 (修二夫人) は、『禅を修行なさる御婦人の中には、仲々男まさりにお成りになる方が多い様でございますが、何うも私達の目から見ると、変に見えて仕方ないのでございます』とその種の大姉へ苦言を呈している。

『男は男、女は女らしい悟りがちゃんとありますのに、女であって変性男子の如く、飛んだり跳ねたりするには当たらないかと存じます。〔中略〕だらしなく跳ね回るは、寧ろ狂禅子に近いといってよからうと思ひます』云々。(略)

『狂禅子』が『女』であると来れば、そこになんらかの〈性的奔放〉が期待されるのは、容易に推測される成り行きである。実際にも、一時的にであれ奔放となった女性禅者が、意図の有無にかかわらず、男への誘惑を結果するという事態は十分に可能であって、見性直後の平塚明子(※)のいわゆる『接吻事件』はまさにそれだし、明治三八年から半世紀近くにわたって鎌倉建長寺管長を務めた菅原時保は、女性の参禅を許さなくなった理由として『近頃の婦人は遊戯的で修業僧の気持を乱すから』と明言している。」

(佐々木前掲67~69頁)

※平塚明子=本名平塚明(はる)。平塚らいてふのペンネームの一つ。



先に引用した禅ブームの中で、禅の「修行」により、精神に問題を生じたと思われる人と接する一般の人が増えたことから、何とはなしに、禅に対する社会的評価が下がっていったのではないかということを考えています。



(2)日本仏教における坐禅否定の系譜



そもそも明治期の禅ブームは、廃仏毀釈に対し、禅宗寺院が生き残り策として在家に禅の実践を広く進めていこうとした過渡的な現象というべきで、元々日本仏教では、坐禅を否定する考え方が仏教を継受した時点から有力でした。



「(聖徳)太子の思想ということになれば、ここでどうしても『三経義疏』について触れなければならない。これは『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経に対する註釈で(略)、(法華経の)安楽行品の「常好坐禅」という一句の解釈はきわめて興味深いものである。すなわち、ここでは経の本文はもちろん、法雲などの解釈も「常に坐禅を好め」という意に解しているが、『義疏』ではあえて異をとなえ、山中で坐禅ばかりしているような修行者は小乗の禅師であり(「常好坐禅少(小)乗禅師」)、菩薩が近づいてはならない十種の対象(十種不親近)の一つとみたのである。」

末木文美士『日本仏教史』38~40頁)



日本の仏教の継受については、中国仏教を盲目的に受容したような言い方がされることは少なくありませんが、日本仏教の黎明期において、経典について、日本独自の解釈をしていたことには興味深いものがあります。

この時代、既に、坐禅は、日本に伝わってきてはいたとされます。



禅宗は、はやく飛鳥・奈良時代にも伝えられている。白雉四年(六五三年)遣唐使に従って入唐し、相州の隆北寺で慧満に禅を学び帰国した道昭(六二九~七〇〇)、神秀の北宗禅を伝える唐僧道璿(どうせん)(七〇二~六〇)の天平八年(七三六)来日などの伝禅があった。」

(竹貫元勝「禅宗の歴史」沖本克己・竹貫元勝『これで大丈夫 禅語百科』19~20頁)



そうであれば、飛鳥・奈良時代にも、坐禅の実践をした人は少なからずいておかしくはないはずなのに、法華義疎でそれが否定的に評価されたのか。

それは、明治の禅ブームの時や、現代の瞑想難民問題にみられるように坐禅にはまり込んで、却って精神に問題を来す人が現れ、その危険性に対する認識を持ったからではないかと想像しています。



6 まとめ



坐禅を始めてから、坐禅中、「神秘的な体験」をしたという人に少なからず会いました。

その中に、嘘を付いているような感じがするように思われるような人はいませんでした。

また、私自身、とある瞑想会に参加した直後、世界の画素数が上がるように見えたり、その直後、それまで意味のわからなかった禅書の字面がそのまま納得のいくようになったことがありました。

ですから、自己洗脳の類を含めて、脳に対する何らかのインパクトを与える体験をすることも本当にあるのだろうと思います。



しかし、そのような体験をしている人の現実生活を見ると、体験をしていない人に比べて取り立ててよいわけではないように思われます。

語弊があるかとも思いますが、坐禅をするようになり、色々な坐禅会や瞑想会に行くようになってから、強く思ったことは、私自身が非常に恵まれた環境にいるということでした。

坐禅会や瞑想会に来る人は、バックグラウンドとして、家庭環境や労働環境に恵まれていない人が少なくありません。何らかの救いを求めている人が少なくないのですから、当たり前といえば当たり前ですが。

坐禅をする前、私は、自分の人生が上手くいっていないのではないかと思うことが多かったのですが、坐禅会や瞑想会に来るほかの参加者の方を見ていると、私自身は、同世代の平均と比べて多くの収入があり、家族にも恵まれ、社会的意義を感じやすい仕事をし、この仕事のおかげで、世間的には社会的地位も相応に見られる立場にあるということがはっきりと分かりました。

仏教では、他人と比較することをやめることを通して幸福が得られるものとされますが、私自身は、坐禅会や瞑想会に参加するほかの人との比較を通して、自らの相対的な幸福を感じることが多くありました。

職場の周りの人は、私と同じような立場にありますから、それまでは、それが当たり前になっていて、私自身それがいかに恵まれているか本当のところは分かっていなかったのだと思います。



坐禅の生理学的効果」と題する一連の記事をご覧になった方はおわかりかと思いますが、私は、坐禅や瞑想を頑張って「悟り」と呼ばれるものを含めた非日常の体験を目指すことは避けるべきだと思っています。

その科学的な究明は手が着けられたばかりであり、「悟り」という目的を達すること自体が困難である上、却って精神的な問題も生じるリスクがあるからです。

また、非日常の体験は、私たち個々人の脳内で起きる現象にすぎず、それがどのような幸福感をもたらすようなものであっても、自分だけがほかの人にはない何らかのよい感覚に満たされることを実現することを目指すものであって、結局は、自分自身を不幸に陥れるものだからです。

自分だけがほかの人よりもよくなろうとすることは、根本的には、アドラーの言う「普通であることの勇気」を見失った劣等感の現れです。脳生理学的にいえば、平等感を失った自己の利益を目指すことは扁桃体の活動を活発化させ、不安感を高め、やがてはうつ病をももたらすものです。

【参考】
文明の発展と仏教の起源
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/06/09/213324

私たちは、意識から世界を見ているので、意識が自己のすべてであり、意識がすべての基盤であると思いがちです。私自身も、そう思っていました。

だから、自分の幸福感が重要だと思ってしまうのだと思います。

しかし、「幸福感」というプラスの名前をつけようが、それは、私たちの肉体の中のほんの一部で起こっている現象であり、全体ではないのです。

「幸福感」が重要であれば、それは何らかの薬物によってもたらされてもよいのですし、サイバーパンクの世界のように脳に機械的な処理を施して、端子を差し込み、幸福な感覚を脳に味わわせてもよいことになります。



どんな世界にもありがたい人はいると思うのですが、以前、子どもと一緒に見た、東映の特撮シリーズ「リュウソウジャー」の人間を眠らせて、幸福な夢を見させる怪物が出てくるエピソードは、子どもを自然と教育する上で、ありがたいお話しでした。現実の世界には、つらく苦しいことがあるのですから、その人の見たい夢を見させる、その怪物を倒すことが本当に望ましいことなのか、主人公たちが苦悩するという話です。

「幸福感」が重要であるなら、眠って幸福な夢を見ているままでよいはずです。

しかし、それではダメだというのが私たちのあり様です。

私たちは、現実の、この日常の世界を生きたいと思っており、頭の中の幸福感ではダメなのです。



とはいえ、困難にぶつかって生きることが辛くなるときがます。

私たちの肉体の出来はよく、どんな困難が前にあっても、きちんとそのときのベストパフォーマンスで活動してくれています。しかし、往々にして脳の一部分だけが不安感を訴えて頑張ろうとしている肉体の足を引っ張ります。困難な現実にぶつかっていくのではなく、逃避しようとしてしまうのです。

脳の不安感を軽減させる対処療法が坐禅等の瞑想です。

瞑想が現実に向き合うための手段であることを明示的に述べる瞑想指導者がティク・ナット・ハン師です。



「瞑想は社会から離れ、社会から逃げ出すことではなく、社会への復帰の準備をすることです。」
(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』68頁)

「瞑想は、社会からの逃避ではありません。」
(ティク・ナット・ハン前掲書72頁)

「瞑想は、私たちが社会にとどまる助けをする道です。これは、重要なことです。
 社会から疎外されて、社会に復帰することのできない人々がいます。注意しなければ、自分たちもそうなることを、私たちは知っています。」
(ティク・ナット・ハン前掲書74頁)

「瞑想センターは、あなたがみずからに帰り、現実についてのいっそうはっきりした理解を得、理解し愛する力を強め、社会に復帰する準備をするところです。
 もしそうでなければ、ほんとうの瞑想センターではありません。
 真の理解を発達させるに伴って、私たちは、社会に復帰し、真の貢献をすることができるのです。」
(ティク・ナット・ハン前掲書79頁)

「悟り」等の特殊な体験を求めて、家、禅堂、瞑想施設に閉じこもって、坐禅、瞑想にふけることは、何か違うのではないかと思っています。



その観点から敢えて親切で書くと、坐禅会や瞑想会で出会った人で、何らかの神秘的な体験をしたという人は、正直ぱっとしない人がほとんどでした。仕事や家庭などの実人生が上手くいかないことから、それを取り返すために、坐禅や瞑想を一生懸命頑張る感がありました。

よく「悟り」などの特別な体験をしても、すぐ元通りの日常に戻るなどと言われます。

マインドフルネス研究で知られる熊野宏昭先生も、20代のとき強い体験をしたそうですが、人格が本質的に変わることがなかったとおっしゃいます。



「二〇歳頃、ヨガにはどうも瞑想というものがあるらしいと知り、瞑想のほうも始めたのです。(略)

ヨガの瞑想は、先ほど横田老師が教えてくださったような集中瞑想(※)です。私もそのとき数息観をやりました。それで非常に強烈な『ドッカーン』という体験をして。『何だこれ?』と思ったんですね。(略)

一六歳でヨガ、二〇歳頃の強烈な体験を経て、ずっとやってきていましたが、マインドフルネスとの出会いのきっかけは、自分が失意のどん底に落ちたことでした。

どこかでお聞きになった方もいるかもしれませんが、二〇〇五年に東大の教授選に負けたのです。負けたというより、私の業績があまりに情けなかったので教授選自体が流れてしまって、他の教室から教授が来て、私は非常に失意のどん底に落ちました。そのとき、思いました。『ヨガもやったし、ずいぶんそれで人間が変わったと思ったし、サマタ瞑想もやって、それでまた非常に大きな体験をして、それまでの自分と違う自分になって、今に続く自分になった。だけどこの辛さは何だ』と。『全然、何も解決できないじゃないか』と思って、当時、貪瞋痴という言葉が頭に浮かんできました。まさに『教授になりたかった』という欲の気持ち、それから他の教室から横滑りで入ってきた教授が大嫌いで、『こんなやつ、何だ!』という怒り。それから『この後、どうしていいかわからない、私はどうやって生きていけばいいんだろう』みたいな混乱。『まさに貪瞋痴とはこんな状態だ』『自分はまさしく貪瞋痴の塊だ』というふうに思いました。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』63~64頁)

※横田老師が教えてくださったような集中瞑想=数息観のこと



古くはこんな話もあります。



「宮崎虎之助(みやざきとらのすけ)は、『予言者』として飛びあるいた、妙な宗教者であった。わしの所へ尋ねて来て、これから東慶寺へ行くから紹介せよと云う。宗演師に会って、色々と自分の不遇・不幸を訴えたと見える、即ち或る宗教者は裕福なブル的生活をして居るのに、自分は轗軻《かんか》不遇、今日の衣食にすら窮すると云う不平であったらしい。これは後から老師から聞いたのである。その時老師は、『そんな不平があっては、まだ真の予言者にはなれぬ、今一段の修行を要する。併し実際問題として、衣食に窮してはお困りだろう』と云って、老師は信者の喜捨金一包をそのまま与えて別れられたことがある。宮崎君のような宗教家は時々見付かる。一種の体験はあるが、知性の発達が、これに伴って居ないので、事物全般の展望が欠けて居る、それで畸形児的なものに成って仕舞う。」

(加藤咄堂『碧巌録大講座 第十三巻』163頁)



神秘的な体験をしたという人のほとんどは、この宮崎氏のような感じです。

ほかの人が体験したことのない何か特別な体験をして、優越感を抱きますが、往々にして一過性のものです。人生が根本的に変わるわけではないように思われます。

それでまた同じような体験、あるいは、以前よりももっと素晴らしい体験を求めて、待ちぼうけをするように坐禅や瞑想を続ける。「待悟禅」とは、このような風景を指して言うのでしょう。

しかし、どんな体験を繰り返しても満たされないのは、現実を生きていないからです。
私たちの人生は、脳内をバラ色にするためにあるのではなく、這いつくばってでも現実を生きるためにあるのです。



よく禅の「修行」を始めた動機として、「人生をいかに生きるべきかに悩んだ」とか、「人生の価値に疑問を感じた」といったことを挙げる人が少なくありません。

仏教で問題とする「苦」は、怪我をしたときのような物理的な痛みではなく、「不満」、満たされない人生に対する虚しさなどといわれますが、先の動機は、その本人が人生に虚無感を抱いていることの反映でしょう。


 
「『無我の教説』に内在するパラダイムとは、人生は結局死によって終わるのだから、満足できるものではあり得ないということのようである。現象として存在するものは全て相互に連結する三つの特性を有すると言われる。すなわち、無常性、苦性、そして無霊魂ないしは無実体性とである。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』109頁)



日常の生活、すなわち、平凡な人生に自足することができず、それなら自殺をしてもよいものを、生きる欲望をも捨てきれず、むなしくない、ほかの人よりもよい生き方をしたいと考える。そんな人には、日常生活に自足するまでの1プロセスとして、「空虚な人生」を特別な価値のあるものだと思えるようにするために、特別な体験を味わせてあげることも、悪くないのかも知れません。

実際、臨済禅の修行のプロセスの機能は、そのようなものであると思われます。

日常生活に自足できず現実から離れようとする不満な心を一旦は「悟り」と称する特別な体験で満たしてやった後で、悟後の修行と称して、「悟りの臭み」を取って日常生活に適合できるようにするための実践をする。

とはいえ、「悟り」を体験すると、能力や飛躍的に向上するのではないかと思われる方もいるかも知れませんが、私は、懐疑的です。



私がかつて所属していた団体では、禅的な意味での「悟り」、すなわち、「見性」を重視していました。「見性」していることになっている人も多数いました。

そこでは、指導される方が、公案の修行により「道眼」が身に付くと言ったり、また、「見性」しないと人と人とは本当に理解し合うことができないなどと言っていました。しかし、毎回の会議での重要なテーマは、団体の財政を安定させるために、会費を払ってくれる新規会員の確保の方策でした。

余りよい言い方ではありませんが、「道眼」というものによって判断力が飛躍的に高まるのであれば、なぜ、指導者の人自身が、その目的を達する上で実効的な方策を策定できないのか。「見性」して人と本当に理解し合うことができるのなら、指導者の方自身が、なぜ、自然と一般の方を共感させて会員にすることができないのか。

その団体にも、良心的な人はいて、よく社会問題を取り上げる方がいらっしゃいました。その方に対して、指導者の方が、これまたよく「それが禅と何の関係があるのか」と突っ込んでいました。最初は、何らかの指導の類いの親切ではないかと思っていたのですが、同じ場面を繰り返し見るうちに、本気で言っていることがわかりました。また、その方のお話しなどに関し、その団体で何十年と「修行」をされている久参の方がテーマとして興味が持てないということを口汚く述べるのを耳にしたりもしました。多分、指導者の方も、久参の方も、根本的なところで、禅の目指していたものからズレているのだと思います。



「存在するものすべての相依関係の真理に目覚め、たがいに協力する時、はじめてわれわれは栄えるのだという事実を、まず自覚しようではないか。そして、力と征服の考えに死して、一切を抱擁し、一切を許す愛の永遠の創造によみがえろうではないか。(略)
 
《われわれ(略)は、善にあれ悪にあれ、この人間社会に行われることの一切に責任がある。》

だから、われわれは、人類の福祉と智慧の全体的発展を妨げるような条件が、ことごとく改善もしくは除去するように努めなければならないのである。」

鈴木大拙『禅』203頁)



禅に魅力を感じるのであれば、社会問題に関心を持ち、それに心を痛め、その解決に向けて、短者は短法身ながらも、日常生活で具体的な工夫をするはずです。

結局、何十年修行をし、指導者になるほど修行をして、「見性」したことになっていても、それだけで作られる能力や人格は、その程度のものなのかなと思っています。



日本の禅宗で用いられる語録の多くは、唐代の南宗禅の禅匠に係るものですが、そもそも唐代の南宗禅において、「悟り」は問題とされていませんでした。

その代表である馬祖によれば次のとおりとされます。



「馬祖によれば、人間はみな覚醒した世界に生きているのであるから、日常の生活の裡に自足しておればよいのであって、このうえ更に『佛法』を学び、『修行』をし、『坐禅』をして 『悟り』を求める必要はまったくない、外にそれを求めることはむしろ清浄心を汚すものである、とした。」

(衣川賢次「臨済義玄禅師の禅思想」『禅研究所紀要第34号』109頁)



このような伝統に照らしても、「悟り」を目指す禅が果して望ましいものであるかはよく検討される必要があるように思っています。

「悟り」を目指す禅では、社会に適合することができない人を生み出す可能性があり、却って「たがいに協力する」ことが困難になるようにも思います。

そうすると、日本仏教が伝統的に坐禅に対し懐疑的であったことにも合理性があるように思うのです。



「禅堂には、素敵なものはなにもありません。ただ、ここへ来て、座るだけです。お互いに意思を通じ合わせたあとは、家に帰り、また毎日の暮らしを純粋な禅の修行の続きとして行います。そして、人生の真の生き方を楽しむのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』258頁)





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