坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

「調心」その問題性(1)――坐禅の生理学的効果(6)

坐禅の構成要素は、「調息」、「調身」、「調心」といわれますが、「坐禅の生理学的効果」の記事では、(1)から(4)までで「調息」を、(5)で「調身」を取り挙げました。
(6)から「調心」を取り挙げようと思います。



これまでの記事

○「扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328

○「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455

○「オキシトシンの分泌――坐禅の生理学的効果(3)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/23/104238

○「呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(4)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/25/094125

○「姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(5)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/30/221319




1 「調心」――瞑想の多様性



坐禅を含めた瞑想には多様なものがありますが、いわゆる「坐る瞑想」では、「調息」と「調身」については、若干の相違があるとしても、ほぼ共通であり、相違点は、瞑想をする際にどんなことを心の中でやるか、という「調心」に大きな違いがでてきます。

典型的な瞑想手法の調心には次のような相違があるといえるかと思います。



(1)数息観=呼吸回数を数えることに集中する。

(2)随息観=呼吸に集中する。

(3)TM法=特定のマントラを心の中で唱え、それに集中する。

(4)ラベリング法=身体変化(腹式呼吸の際の腹の動き)、外部情報の感受(声が聞こえたときは「音」)、心理的変化(いわゆる雑念が生じたときには「怒り」、「悲しみ」等)について心の中で言語化する。

(5)ヴィパッサナー瞑想=「知覚している(こころの)働きに1つずつすべて気づきつづけるようにすること」(大谷彰『マインドフルネス入門講義』22頁)

(6)マインドフルネス=「『今ここ』の体験に気付き(awareness)、それをありのままに受け入れる」(大谷前掲書17頁)、あるいは、「今ここの自分が何をしているか、考えているか、感じているかなど、心身の状態をありのままに自覚していられる状態」(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号 85頁)

(7)只管打坐=調心をしないこと。「坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず、また、あらゆる希望・願望・要求・注文・条件等を持込まないでただ坐る」(石井清純『禅問答入門』227頁)

(1)から(3)は、集中瞑想(サマタ瞑想)、(5)及び(6)は、観察瞑想と呼ばれます。

(4)は中間形態というべきかと思います。特定の身体的変化のみに着目するのであれば、集中瞑想に近づきますし、着目する変化の対象が拡大していくに従って観察瞑想に近づいていきます。

(7)の只管打坐は、曹洞宗坐禅の手法ですが、「調心」をしないという点で、集中瞑想でも、観察瞑想でもないということになるように思われます。しかし、マインドフルネスの研究者の方は、只管打坐をマインドフルネスの一種と見たり、更にはマインドフルネスの原点であるという方もいて、その評価には面白さがあります。



「黙照禅とマインドフルネスとの共通点が見られます。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』43頁)

「二〇一二年にカバットジン氏が来日した折、懇親会の席で筆者がカバットジン氏に直接マインドフルネスの基本的教理を問いただした時、彼ははっきりと、“ソートーゼン”と答えた」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号 83頁)



瞑想の研究者の間では、集中瞑想と観察瞑想の相違は強く認識されています。

禅宗における坐禅は、(1)、(2)又は(7)に該当しますが、(7)を除く、(1)と(2)は、集中瞑想(サマタ瞑想)に属し、マインドフルネスなどの観察瞑想とは異なるものだと考えられています。



大乗仏教では(略)、天台宗で実践される摩訶止観(略)、密教の(略)阿息観(略)、チベット仏教で実践されるロジョンやトン・レン瞑想(略)などがあります。ただしこれらは気づきを中心とする瞑想(ヴィパッサナー)よりも、意識の集中による止観(サマタ)に近いものなので、オープンな気づきによるマインドフルネスとはやや異なる瞑想法とみなすべきでしょう。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』44頁)

「(臨床的なマインドフルネスについては)テーラワーダ仏教の四念処瞑想や長時間にわたる非思量や公案による本格的な禅瞑想は一部の例外を除いて受け入れられず、気づき(awareness)、『今ここ』の体験(即時性)、あるがままの受け容れ(受容)の三原則を主軸とする斬新な瞑想モデルが考案されました。」

(大谷前掲書111頁)

「この対談でも何度も指摘してきた『集中力重視』の問題点が、『気づきの実践』であるはずの『マインドフルネス』にも、同様に見られる場合があります。例えば、二〇一四年十一月六日のNHK『おはよう日本』で『マインドフルネス』が特集されて、(略)その番組について熊野(宏昭)先生は、『取材時には何度も、観察すること、注意を分割することの重要性を説明したが、ほとんど触れられず、『集中する』という言葉が目だった。マインドフルネスが集中瞑想よりも観察瞑想との関連が深いことを、紹介してもらえなかったことはとても残念』と、ツイッターで感想を投稿されていたんですね」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』197頁)



プラユキ師のおっしゃる「集中瞑想」の問題性については、「『調心』問題性」の今後の記述の中でも触れていこうと思います。

また、「数息観」、「随息観」を用いる臨済宗坐禅では、集中したいわゆる「三昧」の状態に入ることを目指しますが、マインドフルネスは、自己の心理状態を観察する手法であることから、「三昧」の状態に入ることをよしとしないことにも注意をする必要があります。
 


「催眠トランスに特有の意識変容状態は想像没入(imagnative involment)(略)ともよばれますが、マインドフルネス実践中に気づきが失われると、想像没入が起こり、もはやマインドフルネスではなくなってしまいます」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』30頁)



マインドフルネスについては、様々な臨床的な実践や研究があり、それには限界があるにしろ、一定の効果があることが明らかとなっています。



「マインドフルネスの効果量は中程度を示し、無治療(ノンアクティブ)グループとの比較では統計的な有意差が見られるが、認知行動療法などを用いた治療(アクティブ)グループとの検定では効果に有意な違いが見られない」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』32頁)



このことから、禅の団体の中には、数息観や随息観といった臨済宗坐禅もマインドフルネスの一種であるとして、当該団体の瞑想手法を宣伝するところもありますが、数息観や随息観といった臨済宗坐禅は、厳密にいえば、マインドフルネスとは異なるものであり、このような宣伝は誤っているといわざるを得ないように思います。





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