坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

自我の大切さ(第2版)

1 自我の否定で本当によいのか?



仏教の世界には、「自我」を否定するようなに思われる夥しい数の言説があります。

確かに、私たちの不幸の大きな原因には、自己の幸福を実現しようとすることによって、他者との平等な関係が崩れてしまうことがあり、「自我」に対しては、警戒しなければならないように思います。

【参考】
○文明の発展と仏教の起源
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/06/09/213324

しかし、私自身、短い間でしたが、禅の修行をすると称する団体で活動した実感からすると、「自我」には問題があると同時に、やはり、きちんとなければいけないものでもあるということでした。

【参考】
○「所有する不幸」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/06/07/220706

そこの団体の会員の多くは、禅者というよりも信者という感じの人が多くいて、指導者の人の指示に盲目的に従い、自己の組織の会員を増やすための勧誘活動、たとえば、企画したイベントに人を呼ぶため、自分の知り合いに電話をかけるなどといった活動をしていました。

そのことによって却って社会との関係が悪くなるにもかかわらず、そんなことなど考えないのです。

指導者が白いものを黒いと言ったときに、黒と言うのが信者ですが、白と言うのが禅者のはずです。

そして、そもそも原始仏教の時代から、仏教というものは指導者に盲目的に従うようなものではありませんでした



「西洋人のために書かれた仏教入門書では、カーラーマと呼ばれる一族の人々にブッダが与えた忠告が、冒頭に引用されることが多い。彼らはぶブッダに、さまざまな導師が訪れては異なる教義を説くので、どれを信じてよいものかわからないと訴える。ブッダは、このような問題に際しては、誰もが自分自身で考えを決めねばならないと答えた。いかなる教えも、〔個人的〕信頼関係や外的権威に頼るのではなく、自らの経験という試金石を用いて、その真偽を確かめるべきなのだ。(略)

自らの決断、とりわけ、誰の教えに従うべきかについての決断の責任を自分自身で負うというのは、知的判断能力に相当な重きを置くことである。(略)

知的に自立しているならば、その立場を生かすために頭を働かせるべきである。ブッダが生まれた当時を含むあらゆる伝統社会において、教育とはたいてい、師の言葉を鸚鵡返しすることに過ぎなかった。後世に、『師は自分で考えよと言っている』と、ひたらすら繰り返すだけの仏教徒が現われたとしても、ブッダにその責を負わせるのは酷であろう。ブッダはサンガに対して、師が教義上間違ったことを述べた時、あるいは何か不適切な発言をしそうになった時、弟子はそれを正す義務を負うとする規則さえ設けていた。」

(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』45~47頁)



そして、このことは、禅でも重視されるものでした。



「馬祖は口癖のように、『外に求めるな』と言い、『我が語をとる勿れ』とおしえた。古往今来、『俺のいうことをきくな』と教えた人は、そうざらにあるものでない。弟子たちは、この言葉をどう受けとめたであろう。聞けばそむくし、聞かねば聞いたことになってしまう。」

(柳田聖山『禅思想』122頁)



しかし、私のいた団体の会員の人は、このような考え方自体が存在することを知らないような感じでした。

禅では「知識」に対する警戒もありますが、私が知識の大切さを感じる理由はこのようなところにあります。



2 自我は虚構、しかし、否定されるべきではない。



仏教では、あらゆる事物に永続する実体がないものとされます。

これを「諸法無我」といいます。



「仏教の根本真理の一つに『諸法無我』という言葉があるが、永遠に存在する実体を認めない考え方である。」

(鎌田茂雄『維摩経講話』43頁)

「『諸法無我』とは『すべてのものに決まった実体はない』という意味です。」

(花山勝友『[図解]禅のすべて』22頁)



私、自己、自我などと呼ばれるものも、固定した実態のない現象であるとされます。

その意味で、自我は虚構です。

しかし、虚構だから否定されるべきだということにはなりません。

なぜなら、虚構でも、有用なものは私たちの身の周りにたくさんあるからです。

一番分かりやすいものが芸術作品です。

小説、演劇、映画、漫画、アニメ等、その中で、展開される物語は、真実ではない、全くの嘘ですが、しかし、私たちの心によい影響を及ぼし、有用性があります。

そのような芸術作品の中で展開される世界が嘘だから芸術作品は廃棄すべきであるなどというばかな話はありません。

また、国家、貨幣、言語、道徳なども虚構ですが、有用性があることから、その存在が許されています。

貨幣は、人間の争いを生みがちであり、警戒すべきです。しかし、貨幣がなければ多くの人の生活に困難を来すでしょう。

私たちは、自分の力だけで衣食住に必要なものを生産することができません。

ほかの人から、必要な物の提供を受ける必要があります。

貨幣がなければ、純粋な人的関係を通して、ほかの人から必要な物の提供を受ける必要があります。

とはいえ、このような事態は、特に、仏教などに興味を持つ人にとっては困難な状況を生じさせるものといえます。

なぜなら、仏教などに興味を持つ人の多くは、何らかの心の問題を抱えており、心の問題の多くが人的関係からもたらされることからすると、このような人は、人的関係の構築に問題を抱えていると言ってよいでしょう。そのような人は、人的関係を基礎として、衣食住に必要な物を十分得ることは困難であるように思います。

貨幣があることによって、私たちは、濃厚な人的関係がない人からも、物やサービスの提供を受けることができるのです。

貨幣は、人間同士が人的関係なしに協力し合うことを可能にする機能もあるのです。

ですから、あるものが虚構だとしても、それを否定すべきということにはなりません。

虚構を真実であると思うのは、小説の内容を真実だと思い込むことと同じように愚かなことですが、しかし、虚構を真実ではないと諒解した上で、これを有用に使って行くことを否定してはなりません。



自我、私、自己などと言われるものは虚構です。

しかし、これには有用性もあります。

仏教の世界、特に、大乗仏教の世界では、利他行為が重要視されます。

しかし、利他行為が重要だと言っても、私たちは、それぞれの肉体を通してしか、行為ができません。

それぞれの肉体が死滅しては、利他行為のしようがないのです。

そこで、それぞれの肉体の存続が必要になってきます。

肉体の存続には捕食が必要です。

そのためには、世界の中にある様々な肉体のうち、それぞれの「自己」の肉体が捕食する必要があります。

Aさんが飢えを感じたとときに、食事を作って、これをBさんに食べさせても、Aさんの飢えが満たされるわけではありません。

禅の世界では自他不二が強調されますが、Aさんが飢えたときに、大地に食糧をぶちまけても、Aさんの飢えが満たされることはありません。

Aさんの飢えが満たされて、Aさんの肉体がこの世界に存在し続けるためには、ほかでもない、Aさんを世界の中から区分し、Aさんという肉体の中においては、Aさんの肉体をほかの世界に存在するものと異なる特別な「地位」を得させなくてはなりません。

その地位が、自己、私、自我などと呼ばれる虚構です。



自我を否定してしまうと、却って生活上の不都合が生じます。

このことは、心理学の世界では、自我が適切に成長させるべきものとして重要視されるとともに、仏道修行の実践の場面では、自我の確立の弱い人には、却って精神疾患を来す事例のあることからしても明らかだと思います。



「意識的に自分自身の行動をコントロールする部分がエゴである。したがってエゴは、無意識でない部分、つまり意識に相当する。(略)

(ホワイト、R.W.によれば)エゴは無意識とは別に独自のエゴ・エネルギーをもっているという。そして、エゴはそのエネルギーを使いながら積極的に行動を起こし、環境に適応していく働きがあると考えたのだ。

ところで、カウンセリングは自我の成長を援助することを大きな目標にしているので

《エゴの働きを強めることもその目的の一つ》

となっている。」

( 松原達哉編著『図解雑学心理カウンセリング』30頁)

「マインドフルネスがさらに多様な人々に広がってゆくことは望ましいが、その注意点や問題点についてもさらに明確にしてゆくことが望まれる。特に

《自我境界の弱い人にどのように適用するか》

自我の混乱を起こさないためにどのような配慮をするかなどを検討してゆくことが重要である。」

(佐藤豪「心理カウンセリングのなかで」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』46頁)

「苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり、人間関係がぎくしゃくするようになったり、なかには、統合失調症離人症、感情障害や摂食障害のような不調をきたす人もいる。

その要因として瞑想をストイックにやりすぎて、心身機能のバランスを崩すケースが多い。

《心身の土台がしっかり整っていない状況で、心というデリケートな対象にアプローチした結果》

それまで自然に機能していた生命状態が撹乱し、心身の調和が乱れ、通常の認知状態に戻る柔軟性も失われてしまい、種々の症状となって現れてくるのである。」

(プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』70~71頁)



仏教の実践の世界では、諸法無我を根拠にして、自我を否定するような考え方をする人もいます。

けれども、それは、自我が強すぎて、その活動を強く抑制する必要がある人が、カウンター的に自我を否定する実践を通して、バランスを取るという意味だと捉えるべきで、それを超えて自我を否定するということになると問題だと思われます。

人は利己心が強くなりがちで、バランスをとるなどというと、却って、利己心を助長してしまうと考えるのか、明示的に語る人は少ないのですが、鈴木大拙先生の著作をよく読むと、このバランスを取ることの前提とする記述が少なからずあることがわかります。



「『無明』は必ずしも悪くはないが、しかしそれはその

《自己の範囲を越してはならぬ》

のである。『無明』は論理的二元主義の他の名目である。」

鈴木大拙『禅学入門』46頁)

「人生はこの生きているままで満ち足りている。そこに人騒がせな知性が入ってきて、人生を破壊しようとする。その時はじめて、われわれは生きることをやめて、何か欠けている、何か足りない、と思いはじめる。知性はそのままにしておくがよい。それはその

《しかるべき領域においては、それなりに有用》

である。だが、生の小川の流れを邪魔させてはならない。」

鈴木大拙『禅』51頁)



これらの記述の中の「無明」や「知性」が自我に該当するものですが、それらのものは、「自己の範囲」や「しかるべき領域」においてはなければならないものなのです。

私を含めてではありますが、少なくない人の自我の活動は過剰になりがちであり、だからこそ、強い否定の圧力をかけることによって、その「しかるべき領域」に収める上でのバランスがとれることになります。

しかし、これを完全に否定してしまえば、私たちは、ブラック企業や、やりがい搾取の問題に見られがちなように、利己的な誰かの奴隷になることになってしまいます。

それが不合理であることは明白です。

力のある禅の指導者は、禅の修行が誰かの奴隷になることではないことを強く訴えます。



「有用とはなにか。

たとえば、企業で有用な人間といえば、企業を大いに儲けさせてくれる人間であり、そういう陣頭に立って働く人でなくても、最低限、企業の管理に、きっちり当てはまる人であろう。もっと端的にいえば、社長を頂点として、上司の思い通りに動いてくれる人間であろう。

そういう人間になってくれることを、企業では、『人間形成』と称する。なんという傲慢であろうか。自分の思い通りになる人間が有用であり、思い通りにならぬ人間は無用と斥ける。そのために『人間形成』するという。そういう人間形成に禅が役立つとすれば、それは、企業にとっては『善』であろうが、形成されたナマの人間にとって、これほどの『悪』はない。

禅の有用とは、そんなちょこまかした、ちいさなちいさな世界に人間を閉じ込めることではないのである。禅は、あくまでも個人の『さとり』であり、全体の中での矮小化とは、本質的に違うのである。

だから、そうした、期待を込めての『人間形成』のための新人社員教育に、禅が利用されるなんて、真っ平である。これほど、禅を悪用することはないからである。

そのような野心、もしくは意図をもって来られた人に、私は、いつもつぎの言葉をのべて、返事にかえている。

達磨大師、梁の武帝に見ゆ。帝問う。朕、寺をたて僧を度す。何の功徳がある。達磨いわく、無功徳』(葛藤集)。」

(関大徹『食えなんだら食うな』102~103頁)



同じ流れですが、仏教の基本的な考え方との関係でわかりやすいものが、南直哉師のお話です。



「いろんな企業が新入社員や中堅幹部の研修をさせてくれ、とやって来る(略)。

こういう社員は、まるで流刑地に護送されてきた囚人のごとく到着し、懲役刑のごとく我々の修行生活を勤め、赦免釈放されたかのように帰っていく。こちらは相手にするのもほとほと馬鹿馬鹿しく、個人で真剣に坐禅している一般参禅者にも失礼きわまりないので、私のいる道場では現在、企業の研修は受け付けない。(略)

 『無我』(略)普通、一般人がこの言葉を聞くと、(略)『わがままを言わない』ことを意味する(略)。

わがままを言わずに何をするかといえば、『いまなすべきことをひたすらなす』のだ、とこうなる。そのときもし、『なすべきこと』を他人に決められるとしたら、それは、その他人に対して『滅私奉公』することと寸分違わない。(略)

世上に流布する『無我』と『滅私』の取り違えには、仏教者の側にもだいぶ責任があるであろう。

いつぞや、八十過ぎの知り合いのおじいさんと話していたら、彼はこんなことを言った。

『ちょうど戦争が終わり近くになって、そろそろ本土も危ないと言われ出したころ、仏教で言う『無我』ということは、たとえばいまなら、お国のために命を捨てることだと説教していた坊さんがいたな。(略)』

ハッキリ言っておきたい。一般に仏教語の『我』とは、常に同一で普遍の実体を意味するのであって、『無我』は、それが私たちの思い込みによる錯覚にすぎない、ということを教える言葉なのだ。

したがって、(略)『滅私奉公』の『公』には、どんな固定した真理も実体もない。それが『無我』の意味だ。裏返せば、私たちが『主体的』と呼ぶべき生き方を築き上げるための、前提中の前提こそが『無我』なのだ、ということである。」

(南直哉『語る禅僧』60~64頁)



※本稿は、2019年7月12日に投稿した
「自我の大切さ」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/07/12/080843
を補正、加筆したものです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。