禅と全体主義――「戦争と禅と日本国憲法」追補
先に「戦争と禅と日本国憲法」の記事を投稿しましたが、これをきっかけに、改めて近代史をテーマにした本を読もうという気になりました。
【参考】
○戦争と禅と日本国憲法
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/15/155159)
近代史、特に、満洲事変から太平洋戦争にかけての歴史に関する本を集中的に読んだのは今から3年ほど前で、久しぶりのことです。
ブログにも少し書いた太平洋戦争の開戦の要因の一つには、海軍における予算確保もあったのではないかという見立てについて裏付けが欲しいと思い、若干古くはなりますが、NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』が文庫化されており、安く入手できるようだったので、アマゾンを通して購入しました。
内容は、1980年から1991年にかけて、太平洋戦争当時、軍令部や海軍省に所属していた軍人の方による「海軍反省会」の発言を録音したテープが発見され、その録音された発言を題材にしたNHKのドキュメンタリーがベースとなっているものでした。
見立て通り、海軍の予算確保の必要性が開戦の要因の一つであるという話が、当時の幹部の発言にストレートに現われていることなど、参考になる点が多くありました。
「(高田利種元少将)『予算獲得の問題もある。予算獲得、それがあるんです。あったんです。それそれ。それが国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。軍令部だけじゃなくてね、みんなそうだったと思う。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので十一月になって、本当に戦争するのかしないのかともめたわけです。』
『だから、海軍の心理状態は非常にデリケートで、本当に日米交渉妥結したい、戦争しないで片付けたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とか言われるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあげたところを言えば』
(横井秀信「開戦 海軍あって国家なし」NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』138頁)
「開戦時の作戦参謀だった三代(辰吉)元大佐が証言する。
『私が申し上げておきたいのはねえ、私は軍令部におる間はね、感じておったことはですな、海軍が“アメリカとは戦えない”というようなことを言ったことがですね、陸軍の耳に入ると、それを利用されてしまうと。
どういうことかというと、海軍は今まで、その、軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと、それでおりながら戦えないと言うならば“予算を削っちまえ”と。そしてそのぶんを、“陸軍によこせ”ということにでもなればですね、陸軍が今度はもっとその軍備を拡張し、それから言うことを、強く言い出すと。(略)そういうふうになっちゃ困るからと言うんですね、一切言わないと。負けるとか何とか、戦えないというようなことは一切言わないと。こういうことなんですな」
(横井秀信「開戦 海軍あって国家なし」NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』143~144頁)
また、読みながら、集団や組織に抗しうるような自己を確立することの重要性を強く感じました。
先の投稿でも、時流に随順した僧侶の在り方を問題視する鈴木大拙先生の言葉を引用しましたが、当時のエリートであり、事実上、強い権力を持っていたはずの軍官僚ですら、同じという発言が少なからずあったからです。
「扇元大佐がさらに重要な発言を反省会でしていることに気づいた。
『海軍の上層部は、自分の意志、判断をもっとりながら、それはこちらに置いて、そうして流れていった』
『思わぬ、好まぬ自分の本意でない方向に流されていったと。だれかれと言わず、みんなそうですもん』」
(右田千代「特攻 やましき沈黙」NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』271頁)
「『なぜ海軍の作戦を統括する第一部長として特攻を止められなかったと思いますか?』
私の問いに、(中澤佑元中将の長男である)忠久氏はこう答えた。
『これは今の日本人にも言えるけど、時の空気には勝てないんでしょうね、全体がそういう流れになっている時に。父は非常に慎重かつ緻密でですね、先を読んで現状を理解する能力が非常に高かった。しかし、現状が間違っていると思ったとしても、組織の大きな流れを止めたり、動かしたりする力はなかったと思いますね。』」
(右田前掲349頁)
禅や仏教では、自我、自己、あるいは、私というものに対して、否定的に見る傾向があります。
しかし、このような戦争中の軍幹部の発言を見ると、しっかりした自我、自己、あるいは、私というものの確立も、重要ではないかと感じます。
そうでないと、集団に不安が蔓延し、全体が望ましくない方向に行きそうなときにはっきりとした発言して、全体と対峙するができなくなってしまうからです。
私たちは、一つの自然の法則から現われたのであるとしても、全く同一の性質のものとして、現われたのではなく、それぞれが個性的なものとして現われています。
多様な個性のあることが生物集団として様々な環境に適応することを可能にしたものと思われ、その個性を否定してしまえば、生物集団としての環境への適応性が下がっていくことになるものと思われます。
常識論にも思えますが、様々な研究から、私たちが自分自身の意見をしっかりと言って、議論をすることがよりよい解決策に至る手段となることも判明しています。
「コロンビア大学のスミス博士らが報告した(略)実験では学生350人に対して問題を提示しています。当初の正解率は約50%でしたが、小グループ制でのディベート後には約70%に上昇しました。
誰かが答えを知っていれば、その正答が周囲に伝わりますから、この結果は当たり前にも感じられます。しかし、学生のディベートを丁寧に調査すると、答えを誰も知らない状況でさえ、正解率が上昇することがわかったのです。つまり正答は、単純に伝播するだけでなくて、議論の中で新たに芽生えるわけです。
面白いことに、議論を通じて正解に辿り着いた場合は、問題に対する理解も深まって、応用力が身につくため、類似した問題の正解率も上昇します。『話し合い』は、一方通行の授業とは異なり、より本質的な理解や解釈をもたらすのです。」
(池谷裕二『脳には妙なクセがある』222~223頁)
ちなみに、群棲生物の集団においても、トップダウン式の集団は崩壊しやすいそうです。
「群れをなす動物たちは、集団の進むべきルートをどう見定めるのでしょう。ミツバチや魚や鳥の一部では、『正しい知識を持ったリーダー』が少数いることが知られており、こうした優等個体が集団を牽引するようです。(略)
計算結果によれば、集団に占める『正しい知識を持った個体』の割合が増えるほど、群れは正しい進路を取ります。これは当然でしょう。しかし、意外なことに、知識個体率が同じ場合は(たとえば10%のメンバーが正解を知っているときには)、集団の規模が大きいほど群れは正解に至ります。こうしたところに動物が巨大な群れをなす理由があるのかもしれません。
さらに面白いことに、知識層のメンバーが正解にあまりに固執すると、集団は分裂崩壊してしまうことが示されました。リーダーは確固たる意図をあえて明示せずに、一見曖昧な行動をしたほうが、結果として、集団を正しい方向に導くことができるようです。」
(池谷裕二『脳には妙なクセがある』225~226頁)
禅僧の戦争協力の問題を始め、禅の言説が全体主義と結びつきやすくなる理由の一つには、特に、臨済禅が目的とする「見性」が「自他不二」の体感などと呼ばれ、全体として一つであることが強調されることがあるように思います。
認識論の問題としては、「自他不二」という捉え方がシンプルでよいようにも思っています(とはいえ、マルクス・ガブリエルは、このような一元論は誤りだといいますが、言及すると切りがないので、避けます。興味のある方は、『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)をご覧下さい)。
しかし、「自他不二」では全体主義的な誤解を生みそうです。
より適切な言葉は「不二不一」、「不異不一」かと思います。
二つでもない、異なるのでもない、しかし、「一つでもない」ということです。
坐禅の姿勢である結跏趺坐をベースにして、このことをわかりやすく説かれるのが、鈴木俊隆老師です。
「この姿勢(結跏趺坐)は、二つではない、一つでもないという『二元』性の『一者』性を表わしています。これはもっとも大事な教えです。二つではない、一つでもない、ということです。もし私たちの心と身体が二つである、と考えると、それは間違いです。私たちの心と身体は、二つでありながら一つ、なのです。(略)実際の人生の経験に照らしてみましょう。私たちの人生は、複数であるばかりでなく、単一です。私たちは、互いに支えあう、と同時に自立しています。」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』38頁)
支え合う、関係し合うということは、様々な存在が一つのものとしてあることを示しますが、様々なものがそれぞれ個別的に存在していることが前提となっています。
この個別性を否定してしまうと、安易に全体主義へと行ってしまうように思います。
「不二不一」の概念は、二祖僧璨によって著されたと「される」『信心銘』の記述が元になっているようです。
「真如法界――そこには自他の対立はない。対立がないと云うのは、すべてが一色で塗り潰されたと云うことでない。自は自、他は他で、そのまま不二である。(略)一と云わずに不二と云うところに意味がある。」
(鈴木大拙『禅の思想』50~51頁)
しかし、往々にして、「すべてが一色で塗り潰された」と捉えるのが禅だという勘違いをされやすいように思います。
このような勘違いが、禅と全体主義を結びつける一つの要因になっているように思います。
しかし、そもそも、禅の思想や実践自体、個性を尊重し、強く個々人の自律を促すものでした。
【参考】
○【参考資料】仏教・禅は自由を説く
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/01/27/182048)
なぜ、それがおかしな方向に行ってしまったのか。
ユング派の心理療法家であり、仏教にも造詣の深い河合隼雄先生の次のお話しが参考になるように思います。
「日本人の特徴として、『厳しい』、『苦しい』練習ほど素晴らしいという固定観念があるように思う。これは一理あるわけで、日本の芸や道と言われているものは、自我を消滅させることによって、そこにユングの言うような意味の自己を感知させる、という方向をとってきた。そのためには、まず『型』からはいることが必要で、型を完成させるために自我を棄ててゆくと、自己が顕現してきたとき、その型は――古来からの知恵を反映して――自己の容器として適切なものであるために、そこにはじめて深い個性を伴った芸ができあがってくる。これはこれで素晴らしいひとつの方法が確立されている。
しかし、この方法を一歩誤ると、教える側は教えられる者を苦しめ、その自我を破壊することにのみ力をそそぐことになり、しかも、それが西洋のスポーツや芸術などの場合は、特に日本的な『型』を重視してできあがってきたものでないだけに、それは、あまり効果をあげないどころか、有害にすらなってくる。しかも、そこには教える者と教えられる者の差を絶対化してしまうだけに、悪くすると、妙な順位ができて上の者は下の者を苦しめるだけという類のヒエラルキーができあがってきてしまう。日本の家元式のシステムが悪く運用されると、このようになる。」
(河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』274~275頁)
この記述を見ると、禅の修行についても、それまでもっていた自我を否定した後に、何らかの理想的な個性を確立するようなものと捉えることができそうです。
けれども、教える方が、「個性の確立」という目的を見失ってしまうと、当たり前の話ですが、おかしな方向にいくということでしょうか。
実際、禅の修行の場においては、上にいる指導者が下にいる学人に対し、頭ごなしの指導をすることが見られるようです。
「我々、禅の世界というのは、老師方は自分が体究練磨、苦労に苦労を重ねて体験しますと、もうそれが万人に通用するという感じで、『お前も苦労しろ、お前も苦労しろ』となるのです。『どうだ、わかったか』『まだだめです』と言うと『それは苦労が足らんのだ!』で終わり。それでやれる人もいますが、中にはついていけない人も出てきます。禅の世界というのは、大勢の中から一人か半人できればいいんだ、というわけです。」
(横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』51頁)
「自我」を否定した後、どのような人格を入れ込むかについて、家元制度的な上下関係を前提とすると、上にいる者の在り方によって左右されることになります。
そのようなことからすると、禅の修行というものも、容易にカルト集団的な洗脳の問題が生じうる可能性を否定できないようにも思われます。
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