坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

初心

「私が理解する仏教は『無条件に真理のようなものを提出することはできない』ということが根本にあります。だから『真理』とか『悟り』ということを無防備にいう人は信用できないんですよ。」
(南直哉発言。南直哉・島田裕巳「南直哉 坊主も知らない仏教の落とし穴【1】――対談:南 直哉×島田裕巳https://president.jp/articles/amp/11377?page=3

 こんな言い回しが好きです。

 人間の認識能力には限界があります。
 目の前に直面する世界には一定の法則性はありそうなので、「真理」というものは多分あるのでしょう。
 けれども、自分が今、真理と思っていることが、未来永劫真理の位置を保つかどうか保証はありませんし、ほかの人が言っていることも同じこと。
 人間の理性、すなわち、分別には限界があるからといっても、坐禅や瞑想による「悟り」ならわかるというのは、もっと信用が出来ません。
 
 それで、こんな言い回しが好きなのですが、さらに重要だと思うことは「真理のようなものを提出することはできない」としても、私達は、きちんと生きており、したがって、これからもきちんと生きていけるということだと思っています。
 これも、結局、ある種の真理を提示したことになってしまうことになる、不立文字を痛感するところではありますが。

「自信で生きている人などいない。生きているということだって自信ではないのですよ。”生き方も知らないうちから生きている”のです。」
野口晴哉『風邪の効用』52頁)

 同じことを藤田一照師は、このように言います。

「わからない(不知)のに、それでもきちんとちゃんと事実として生きてるよね」
(藤田一照発言。藤田一照・魚川祐司『感じてゆるす仏教』36頁)

 鈴木大拙先生も同じことをおっしゃるのですが、流石に格調高いです。

「思想の歴史が証明するように、非凡な知性の人によって築かれた新しい体系は、どれも必ず、後に続く者たちによって、倒されてきた。(略)しかし、人生それ自体の問題になってくると、たとえ知性が究極の解決をもたらすことができるとしても、それを待つわけにはゆかない。われわれは、一瞬たりとも、生活活動を停止して、哲学が人生の神秘を解き明かすのを待つわけにはゆかない。”神秘はそのままにしておいても、われわれは生きねばならぬ”。」
鈴木大拙『禅』50頁)

 「神秘はそのまま」にしておいていても、現在、きちんと生きているのです。これをそのままにしておかないと「思想の歴史」の混迷の中に入って苦労することになります。

 神保如天老師も同じ。

「私どもは何の為に生れたか、何故死ぬるか、這んなことは問題にならぬ。何の為でも、何故でもない生まれたから生きてをる。死ぬから死ぬるのである、それ以上”何と理屈をつけても詮無い”ことである。生を生とさとり、死を死とさとれば、それでよろしい。人生のすべては斯くして解決されるのである。」
(神保如天『従容録講話』序)

 このような体育会系の熱血もよいですが、風流の味わいのある菅原時保老師もよいです。

「分けのぼる麓の道の多ければ
 登らぬ先に日は暮れにけり
 
 道の善悪、――道の高低、――道の遠近、――道の安危なぞを選択して居る中に日は暮れますぞ、人生五十の命は尽きますぞ。」
(菅原時保『碧巖録講演其一』39頁)

 これらの消息を一番端的に表現した禅語が「初心」です。
 鈴木俊隆老師は特に強調します。

「日本語では初心といいますが、それは『初めての人の心(ビギナーズ・マインド)』という意味です。修行の目的は、この”初めての心、そのままを保つ”ことです。」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』31頁)

 とはいえ、以上は抽象論です。

「禅は実際である。決して理屈でない。」
(菅原時保『禅窓閑話』2頁)

 禅門での「初心」の実際で好きなのは、曹洞宗の関大徹老師が臨済宗正眼寺僧堂に入門しようとしたこの場面です。

「『当僧堂は、ただいま満衆である。早々に立ち去りなさい』
 客行は、そういい捨てて立ち去った。(略)ここまでは手順のうちである。手続きというものである。ところが、その後の言葉が、私を少なからず驚かせた。制中(一定の修行期間)も始まったいまごろ、のこのこと出てくるのは何事かというのである。その上、到着の時刻も違うし、服装も法の如くではない――。
 あとでわかったことだが、制中は、五月一日からであり、私が門を叩いたのは、半月も遅れた十五日だった。それに到着時刻は、早朝とされているのに、私はちょうど八時だった。これらのことは、頑牛(引用者注:大徹老師の師匠)は、わかっていたのである。一言、教えてくれたらよかったのに、“知らん顔をしていたところに頑牛の面目”があった。」
(関大徹『食えなんだら食うな』40~41頁)

 人生わからないことだらけの初心でも、きっちり乗り切れるのだということを強引に体得させるやり口ですね。

 目の前に展開する世界は常に変転します。同じようなことが起きているように見えても、その実、同じではありません。先のことがわからないと不安になります。「悟り」が欲しくなる衝動はこのようなところにあるように思います。
 私達は、生まれてこの方、ずっと「初心」で目の前の世界に向かい合い、先のことなどまるでわからなくてもきちんと生きてきたのです。私達は誰でも、先のことがわからなくてもきちんと生きていく素晴らしい能力があるのです。

 初心……誰もが意識せずにいつも使っている素晴らしい能力。
 那一通の妙用。

 うっかりすると、きちんと生きている現実があるのに不安でダメだという妄想を抱いてしまうことになります。諸行無常の世界は、先のわからない状況が無限に続き、不安がなくなるといことはあり得ません。そこで、「何か特別なものが欲しい」という気持ちが現れます。
 仏伝の釈尊が、若く、健康で、食欲も性欲も満たされているのに、「いつか病み、老い、死ぬ」ことを妄想して、王族としての勤めや家族を放り出し、修行の旅に出るという愚かなことをしたのと同じです。 
 
 脚下照顧、「看よ看よ」と色々声をかけて、現に今、「それ」を使っているじゃないか、怖がる必要はないじゃないかと知らせようとするのですが、なかなか分ってもらえません。

「薬はその場その時で異なるが、薬はやはりいるのである。病人に対して、人は本来健康などという、空疎ななぐさめを弄してはならぬ。」

 こうして仏道の実践が行われるようになるという次第です。





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