坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

「調心」その問題性(2)――坐禅の生理学的効果(7)

「「調心」の問題性(1)――坐禅の生理学的効果(6)」から引き続いて、調心に関する知識に触れて行きたいと思います。

前稿(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412?_ga=2.85241881.1854571952.1596114502-541515618.1562325655



2 「瞑想病人」問題



マインドフルネスが広まり、臨床分野でも実践されるに従い、瞑想には、メリットばかりではなく、デメリットがあることもわかってきました。 



 
「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルース・ベアとウィレム・カイケンによる『マインドフルネスは安全か?』という記事が掲載された。このなかで、リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい、と彼らは指摘している。

この記事に次いで、マインドフルネスのもたらすマイナス体験の実態調査が、(略)発表された。この研究では参種類の瞑想(テーラーワーダ、禅、チベット)実践者、総計60名から6年間にわたりデータが収集された。統計結果を見ると、72%が『リトリート中もしくは終了後に問題が生じた』と答え、オックスフォード・マインドフルネス・センターの見解を裏づけている。個人の実践では28%が『不快体験あり』と回答した。不快反応のタイプについては『恐怖、不安、パラノイア』(82%)が抜きんでている。しかし特筆に値するのは、マインドフルネスによるトラウマ記憶の再体験である。これは

《実践者の習熟度にかかわらず、約半数近くの実践者(初心者43%、熟練者47%)に生じた。》

研究対象の被験者数が60名と比較的限られているにせよ、(略)マインドフルネスにより『瞑想難民』のみならず、『瞑想病人』の出現すら危惧される」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』32頁)

「マインドフルネス実践中に

《トラウマの自然除反応が発生》

することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、

《自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感》

といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネスが禁忌となりやすい条件が推察できます。

仏教に造詣の深い精神科医精神科医マーク・エプスタインは、臨床マインドフルネスの悪影響について、マインドフルネスの進展レベル(初心者/熟練者)、およびクライアントのコーピング能力(高/低)という2つの視座から論じています(略)。彼によるとマインドフルネスでは初心者から熟練者までの各レベルにおいて幅広い『副作用(side effects)』(たとえば、知覚の変化、不安、焦燥、トラウマ記憶再生(自然除反応)など)が生じる。これらのなかには『病的』なものもあれば、一過性の困難やトラブルにすぎないものもある(略)。こうした現象が適切に処理できればまったく問題とはならないが、対応が一時的に困難となった場合や、コーピング(*1)能力の低いクライアントには深刻な問題になりかねない、と警告します。この区分によると、トラウマ記憶によるマインドフルネス実践中の自然除反応は『一過性困難』の典型であり、境界性パーソナリティ障害(*2)のクライアントは『コーピング能力の低いクライアント』のケースと言えるでしょう。要するに、臨床マインドフルネス実践では、クライアントのあらゆる反応に留意することが必要であり、なかでもコーピング能力が十分に確立されていないクライアントには特別の配慮が必須とされるのです。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』195~196頁)

*1 コーピング=ストレスマネジメント手法の一つ。自分のストレスの感じ方を認知・内省して対処する方法。
*2 境界性パーソナリティ障害=情緒不安定パーソナリティ障害とも呼ばれる。不安定な自己―他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害。自傷行動、自殺、薬物乱用リスクの高いグループ。



また

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?_ga=2.23411774.589133550.1595447636-541515618.1562325655
でも触れましたが、偏桃体の活動の低下は、統合失調症と連動するとされているところ、マインドフルネスは、統合失調症の患者には禁忌とされており、呼吸回数の低下により偏桃体の活動が低下することによって統合失調症の症状が進行しやすくなると思われることと整合するように思います。



「マインドフルネス訓練を行ってはいけない人は、真正の統合失調症急性期の患者さんです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号83頁)

「先ほどサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が、それぞれ医療とか心理臨床の世界に取り込まれてきた過程をお話ししましたが、リラクセーション法は実は、

統合失調症の人はやらないほうがいい》

ということがわかったんですね。やはり、統合失調症の方だと、中にあるものが溢れ出してくるということがあるのだと思います。だから、集中していくということの結果、起ってくるそういう反応みたいなものに、やっぱり充分気をつけていなくてはいけなくて、そこのところが充分にケアできないような状況でやると、過集中のような状態になって、さらにその反応がワッと出てきて悪化するというようなことがあったり、あるいいは怒りなんかがまたコントロールできないような状態になったりというようなことも起こるのだろうと思います。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』85頁)



さらに、精神科医でもある臨済宗の禅僧の川野泰周師によれば、うつ病の人に対しても、初期段階では、マインドフルネス、特に呼吸瞑想は避けるべきであるとのことだそうです。



「自責感の強い人に呼吸瞑想をやろうとすると却って自責感を強めてしまう。自責感を休息と薬物療法で下げた後でマインドフルネスをやるとよい。」

(川野泰周発言要旨。「お寺で対談 其の五」『臨済宗 円覚寺派 大本山 円覚寺』WP)
https://www.engakuji.or.jp/blog/32082/



扁桃体との関係を考えると、うつ病の類については、マインドフルネスや坐禅の適応があると考えていたので、新たな発見でした。

このような問題が生ずることから、心ある研究者の間では、マインドフルネスの効果に関する喧伝への危惧が示されています。



「(Googleやスタンフォードシリコンバレー等では)他の地域に比べれば(マインドフルネスが)盛んと言うこともできます。しかし、決して、全員がしているわけではありません。

《日本で、針小棒大に宣伝されている可能性》

も否定できません。」
(飯塚まり「プロローグ」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』17頁)

「なかには人々の仏教や“悟り”に対する漠然とした憧れを半ば意図的に利用して、『このマインドフルネス瞑想をやれば、悟りも達成できるし、世俗の社会生活も上手くいく』といったような、あたかも

《マインドフルネスが『万能薬』であるかのような宣伝文句で人々を引きつけようとする瞑想指導者》

もいないわけではない。この点については、厳に注意が必要であろう。」
(魚川祐司「ピュアマインドフルネスの「目的地」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』64頁)



3 「評価をする発想」が瞑想病人を生む



「瞑想病人」が生まれる理由については、プラユキ・ナラテボー師の次の論考がわかりやすいと思っています。



「日本やタイでは、苦しみから抜け出そうと瞑想していくうちに、さらに多くの苦しみを抱えてしまう『瞑想難民』が増えている。(略)
苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり、人間関係がぎくしゃくするようになったり、なかには

統合失調症離人症、感情障害や摂食障害

のような不調をきたす人もいる。
 
《その要因として瞑想をストイックにやりすぎ》

て、心身機能のバランスを崩すケースが多い。心身の土台がしっかり整っていない状況で、心というデリケートな対象にアプローチした結果、それまで自然に機能していた生命状態が撹乱し、心身の調和が乱れ、通常の認知状態に戻る柔軟性も失われてしまい、種々の症状となって現れてくるのである。
 たとえばこんな感じである。精神状態がちょっとすぐれないので、『瞑想で解決しよう』と思いたつ。けれども、

《集中が思うように続かず、「俺はダメな人間だ」と考えて、無能力感や絶望感》

に陥ってしまう。心を楽にしようと思って始めた瞑想が、いつの間にか『苦悩の増幅法』にすり替わる。しかも本人はそれに気付かずに、

《『いつかは成果が……』と自己を叱咤しながらやり続ける。そのうちに種々の精神障害を発症。》

心がさまざまな不調のシグナルを発していたにもかかわらず、無理してやり続けることで症状を悪化させてしまうのである。」
(プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』66~71頁)



この論考を見ると、瞑想をする上で、目標達成のための手段や結果について何らかの評価をしようとした場合には、精神面での問題が生じやすくなることがわかります。

素人的に考えても、良し悪しの評価が入る余地が出てくれば、却ってストレスがたまるように思われます。

そもそもマインドフルネス自体が、評価するという発想とは異なるものです。



「(マインドフルネスの)定義には一貫して二つの共通要素がある.一つはnon-judgmental(判断を加えない)ということの強調である.自分が今している経験がどのようなものであれ

《評価や判断を加えず》

受容の態度でそれをありにままに観察する,ということだ.通常,われわれは自分の好悪や善悪といった判断に基づいて自分の経験を概念化し,貪りや怒りといった煩悩に駆られた行動を起こすという強迫的な傾向性の虜になっているが,

《経験に対して判断を加えないでそのまま受容する》

ことによってそのような習慣的パターンをはずすことができるようになるのである.今している体験に何かを加えたり,あるいはそこから何かを引いたりして,別な体験に変えようとするのではなく今起きている体験をそのまま存在させるという受動的な態度が強調されている.心理療法の世界では『脱中心化』と呼ばれている,自分の体験に振り回されないようにそこから少し距離を置く,あるいはスペースをつくる技法に通ずるものがあり,マインドフルネスの持つ効用はこの特質から来るとされている.」
 
(藤田一照「「日本のマインドフルネス」へ向かって」『人間福祉学研究第7巻第1号』22頁)




坐禅指導の現場では、このような評価しないことの大切さを考慮せずに、雑念をなくすとか、集中するなどといったことを無批判に坐禅の目標として提示してしまうことが少なくないように感じます。

初めて坐禅の体験をした方に対して、「うまくできましたか?」などと評価するように聞き、相手の方から、「どうしても雑念が出てしまう」とか、「集中するのが難しい」などと返答がされる。それだけでも、坐禅によって却ってストレスが高まっていることがわかります。

そして、ほとんどの方は二度と坐禅をやりに来ません。 

雑念をなくすとか、集中するなどといった目標を設定したり、それがどれくらいできたかなどと評価することは、宗教的な目標ないし信念を考慮しないのであれば、慎重になるべきだと思われます。

臨済禅の一部には、坐禅の目的の一つとして、雑念を生じないことを挙げる立場もあります。

しかし、後に述べますが、このような立場は、臨済禅の世界でも主流ではない上、瞑想の世界でも少数派です。このことは、多くの人にとっては、雑念の発生を防ぐことを課題にすることは、合理的な実践方法ではないことを意味しているように思います。

したがって、坐禅指導等の際に、敢えて目標の設定やその評価をするような方法を用いるときには、相手に対して、却ってストレスが高まるリスクがあることもきちんと説明することが適切ですし、そもそもそのようなことはしない方がよい。

坐禅等の瞑想の際に、何らかの形で心の持ち方を問題とすると、どうしても、そのような心の持ち方がうまくできるかどうかが問題となり、評価の問題が生じざるを得ません。

何らかの形で「調心」をすることの問題性はここにあります。

次の項目では、この点を掘りさげてみようと思います。





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