坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

雑念あってよし(第2版)

◯雑念がでてきて困る

座禅会に参加すると、座禅のときに、「雑念がなかなか収まらなくて、困る」という人がよくいます。

座禅は雑念や煩悩を絶つものだ、と思っていることから、「雑念が出て来るのは困ることだ」と思ってしまうのかな、と思います。

しかし、仏教は、私たちを生きづらくしてしまっている私たち自身の思い込みから自由になることを狙いの一つとしています。

ですから、「雑念が出て来るのは困ることだ」ということも疑ってみる必要があると思うのです。



◯座禅に何を求めるか?

人生に答えはなく、座禅も人生の一部ですから、人生と同様、その人その人が自分なりに「これでよし!」と思ったやり方でやればよいと思っています。

同時に、座禅に固定観念をもってしまって、それに無理矢理合わせようとしてしまう。

小さいベッドで寝るために、自分の足を切るようなことをしてしまっている人が少なくないのではないかと感じます。

このブログでも触れましたが、仏教の瞑想の実践にはリスクもあります。



「動機づけが強くなりすぎて『これさえ毎日おこなっていれば自分は癒やされる』と思ってしまうと、どうしても力んでしまって、自律訓練法で言うところの受動的注意集中や適度なリラックスができにくくなってしまう。」

(佐藤豪「心理カウンセリングのなかで」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』49頁)

「日本やタイでは、苦しみから抜け出そうと瞑想していくうちに、さらに多くの苦しみを抱えてしまう『瞑想難民』が増えている。」

(プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』66頁)

「苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり、人間関係がぎくしゃくするようになったり、なかには、統合失調症離人症、感情障害や摂食障害のような不調をきたす人もいる。

その要因として瞑想をストイックにやりすぎて、心身機能のバランスを崩すケースが多い。心身の土台がしっかり整っていない状況で、心というデリケートな対象にアプローチした結果、それまで自然に機能していた生命状態が撹乱し、心身の調和(71頁)が乱れ、通常の認知状態に戻る柔軟性も失われてしまい、種々の症状となって現れてくるのである。」

(前掲書70~71頁)
 


多くの人が、座禅などの仏道の実践を始めた理由は、どこかしら生きづらさがあって、それを解消するためだったのではないでしょうか。

それにもかかわらず、座禅を通して却って雑念が解消されない苦を背負い込むことなることはおかしいと感じてもよいのかなと思います。


◯そもそもの大乗仏教の理念=悉有仏性=全てを肯定する

そもそも大乗仏教の基本的な理念は悉有仏性です。

全ては、仏性の現れである以上、否定すべきものはないという肯定の思想です。



禅宗系の諸派に共通しているのは、まず、現実にあるすべての事象に真理を見る、という徹底的な現実肯定の思想です。」

(石井清純『禅問答入門』22頁)


そうすると、雑念というものも仏性の表れである以上、これを無くしたいなどと否定することは疑問です。

力のある禅匠の多くは、雑念を否定してはならないと語ります。



「『一念不生全体現、』先に申し上げました如く以下四句禅修行の心得であります。そのおつもりでお聞きください。――一念と云うは、可愛い――憎い――ほしい―――おしい――と云う、それであります。かかる念慮は何人にも胸中に生じます。それを生じさしてならぬと云うのであります。従来、心と行うものは死物ではありません活物であります。故に如何にしても念慮の生じない様には出来ません。(略)種々様々な念慮の生ずるのが、心の本質であります。一応字面の上のみを見ますると無念無想になれと云う様でありますが、否、然らずであります。可愛なら可愛の一念の外に余念を生ぜず、憎いなら憎いの他に邪念を生ぜず、ほしい――おしい――そのまま、是に別の念慮を混入せず、そのものそれ三昧になることであります。それ三昧になりきった処に心の全体が現出致します。(略)

元より本性は無病健全である。然るに可愛いと云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、ぞれぞれが抑々(そもそも)病気の上の病気である。煩悩即菩提であると云うことを知らずして是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」

(菅原時保『碧巌録講演(其二)』57~59頁)

「佛性を心内に向って求めねばならぬと云うて、別段奥深くにかくれて居る譯ではない。

其人々の、惜いとか、欲しいとか、憎いとか、可愛とか、活動しつつある其一念上を離れて、別にあるのではない。」

(釈宗活『臨済録講話』171頁)

「われわれの坐禅は決してこうした煩悩妄想を断滅しようとするのではありません。煩悩妄想がわき起こるのも、われわれの生命力なのですから、これを断滅していいはずはないからです。しかしさりとて、ただ煩悩妄想のままにひきずりまわされていることは、かえって生命そのものを傷つけることであるのはいうまでもありません。

今われわれのする坐禅においては、この思いを手放しにすることの中に、いかなる煩悩妄想も「ありながら、ありつぶれ」になってしまうのです。」

(内山興正『坐禅の意味と実際・生命の実物を生きる』138頁)



雑草という草がないのと同じように雑念という念もないと考えるべきなのではないでしょうか。


◯「どちらに転んでもよし」結果を問わない心を作る

禅の実践の目的の一つは、結果を問わない「どちらに転んでもよし」と、すべての結果をありのままに受け入れる心を創ることです。

こうすることによって、将来の損得勘定にとらわれず、自由に生きることが可能となり、現在における幸福に気付くことになります。

 内山興正老師、新井石禅老師、有馬頼底老師も、「受け入れる態度」の大切さを語ります。



坐禅がわれわれに覚めさせる生命の実物とは、まさに『自己ぎりの自己』『今ぎりの今』――『どっちへどうころんでも、出逢うところがわが生命』という生命態度です。

われわれは、ふつういつでも何事につけてもアレとコレと分別比較し、少しでもなんとかウマイ方へころぼうというはからいを働かせ、そのために、かえってッキョロキョロ、オドオドしながらいきています。というのは、ウマイ方を考えるかぎりは、ウマクナイ方があるのは当然であり、それゆえウマクナイ方へころぶまいという危惧が、どこまでもついてまわるからです。つまりこのウマイ方とウマクナイ方ということを分別して生きるかぎりは、決して『どっちへどうころんでもいい』というような絶対的な安らいにおいてあることはできません。」

(内山興正『坐禅の意味と実際』115~116頁)


「何故に生死があるかというに是れは萬物変化の相であって宇宙活動の現象である。宇宙の本体は絶対平等であるが、恰も大海水に波瀾あるが如く、絶対平等とは申し乍ら霊動体であるに依て常恒不断に活動を起して息(や)まぬ(略)、然れば吾々の生も死も皆な霊動作用でありますから、生死として厭うべきも無く涅槃として欣うべきも無い筈である、けれども凡夫は常に生死の為めに縛られて、三界六道昇沈の相に苦しんで居るのは何故ぞというに、是れは宇宙その物より苦しめらるるに非ずして、皆な各自が自ら作り出だせし業相であります(略)此生死に対する観念亦之と同じく、苦痛と観るも愉快と観るも、その観る人の業障と思想のとの致す所である」

(新井石禅『教理と信仰』44頁)

「最後は全部、受け入れる。『公案』の正解が出ようと出まいと間違っていようとそんなことはどうでもいい。
その「どうでもいい」という所までゆかないといけない。」
(有馬賴底『『臨済録』を読む』24頁)



雑念の生じることを避けようとすることは、このようにあらゆるものを受け入れるという禅で目指す心の持ち方に反するように思います。


◯雑念の否定は一般的な考え方ではない。

そもそも、雑念の否定は一般的な考え方ではありません。

座禅会でも、雑念については、放置するように言われることが多いのではないでしょうか。

追わず払わずで、嫌うこともなく、執着することもなしに、放置していれば、いつかなくなるものであり、なくそうと思うと却って意識され、強まるものです。
 




「もし念が起こったら、すぐに数息なり、公案なりに取って返せというのである。妄念が起こったからといって、これをなくしようなどと夢々これに取り合ってはならない。念をやめようというのが、また一つの念なのだから、それでは念のやむ時はない。血で血を洗うようなものである。血は水できれいに洗わねばきれいにならぬ。この水に当たるものが数息観であり公案参究である。だから念が起こっても一切取り合わずに、数息なり公案なりに取って返すのである。こうすれば、もともと根無草の念のことだから、「紅炉上一点の雪」のごとくすぐにシュンと消えてなくなる。」

(秋月龍珉老師『公案』49頁)

「煩悩を追うな払うな引かれるな。 

煩悩を追ったり払ったりしている中に肝腎の自分を見失ってしまう。坐禅をしている間に、たとい八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。悟りを求めず、迷いを払わず、念の起こるを嫌わず、また念を愛して相続せず、ただ起こるに任せ滅するに任せておく。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』84頁)

坐禅をして、『何かを達成しよう』とか、あるいは『特別な(安定した)精神状況になろう』いった『思いはからい』を一切捨て去り、頭の中を、自然な状態にする、それが非思量ということなのです。
 よく坐禅の指導で用いられる表現として、『坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず、また、あらゆる希望・願望・要求・注文・条件等を持込まないでただ坐る』というものがあります。」

(石井清純『禅問答入門』227頁)

「雑念、妄想と思うのは起こってくる念(色々な思い)の他に私があると認めるからである。雑念、妄想の外に私なしとわかれば、雑念、妄想はそのまま正念になる。」 

(山本龍廣「巻頭言 妄想」(『禅味』2019年4、5、6月号)3頁)

「無心になるとか、無念無想になるとはどういうことか、『菜根譚』はそれに明快な答えをだしていう。

近ごろの人は、専心、無念無想になることを求めるが(かえってそのために雑念を生じて、)結局、無念無想になれないでいる。ただ、前念をとどめてくよくよすることもなく、後念を迎えてびくびくすることもなく、ただ目の前に起っている物事を、次々に片付けて行くことができれば、自然にだんだんと無念無想の境にはいっていくことができよう。(今井宇三郎訳注、岩波文庫本による)

無念無想になることを求めようすればするほど妄想はおこるものである。一度坐禅をしてみればよい。妄想がつぎからつぎへおこってきてどうしようもない。過去にした失敗をくよくよするのは無駄なこと、また未来のことをあれこれ心配するのは無用なこと、やることはただ今のことだけだ。一回ぽっきりの人生のただ今のことをつぎつぎに処理してゆくこと、これが無念無想にほかならない。」

(鎌田茂雄『禅とはなにか』44~45頁)



このような考え方が大勢であることからすると、雑念が生じることを気にする必要は全くないように思います。



〇上座仏教の瞑想でも、「雑念あってよし」

これまで、禅を含めた大乗仏教の観点から、「雑念あってよし」ということを述べる考え方に触れてきたのですが、上座仏教の瞑想や、これを踏まえたマインドフルネスの瞑想においても、雑念はあってよいものとされていることにも注目すべきかと思います。



「瞑想という言葉から、考えや雑念が何も浮かばなくなることがゴールであるというイメージが強いのか、「あっ、また心がそれた、なんて自分はだめなんだ」と心がそれたことで自身を非難してしまう初心者が多いのです。

最初にご紹介したマインドフルネスの定義を思い出してみてください。注意を向ける際の心の態度は、批判・非難・評価しないという態度であることが明示されています。何かに心を集中しようとすると、そこから注意が離れて他のことを考えるというのが心の習慣です。ですから考え・雑念が出てきても、そのことを非難する必要は全くありません。」

(越川房子「マインドフルネスとは」『大法輪』2020年3月号63頁)

「マインドフルネスを学びはじめの方にとくに多いのですが、この瞑想を行なっているときに雑念が出てきてしまうことを悪いことだと気にされる方が非常に多いです。しかしながらこれは大きな誤解です。

マインドフルネスは雑念を押さえたり、雑念が出なくなるようなことを目指すのではなく、雑念が出てきたときにそれに囚われないでいる自分をつくることが大変重要です。うtまり、雑念は練習をつづけていてもありる程度は出てくるのです。

それに補足しますと『雑念』というのは『心がつくりだすフィクション』です。今実際に目の前にないことが雑念となって頭の中に現れてきます。つまり、雑念に飲み込まれるということは心がつくりだしたフィクションの世界に入り込んでしまうことになります。」

(井上広法「マインドフルネスの実践法――通勤・会社・家庭――」『大法輪』2020年3月号75頁)

「初心者の多くは、瞑想中に雑念が浮かぶのは悪いことだと思い込んでいる人が多いようです。ですから、今日もまた雑念がいっぱい浮かんでしまって良くありませんでした、と自己卑下的に話す人がいます。自分のマインド【80頁】フルネス訓練に対して採点してしまうのです。
 このような時に私は次のように話します、“それはそれでよいのです。マインド・ワンダリングに気づくことがマインドフルネスなのです。呼吸に注意集中(考えていない状態)→雑念→雑念に気づく→呼吸に注意集中の繰り返しが脳の訓練、すなわちマインドフルネス訓練です”と。今日はリラックスできてよかったなとか、今日は落ち着かなかったなとか、今日は集中できたとか、いろいろ自分雄マインドフルネス訓練を評価してしまうのですね。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号79~80頁)



○雑念は出た方がよい

以上の話は、雑念が出てもよいとは言っても、何とはなしに「出ても仕方ない」的なニュアンスがあるのですが、早稲田大学教授熊野宏昭先生によれば、雑念は積極的に出た方がよいそうです。



「サマタ瞑想のときになぜ起きていられるかですが、これはリラクセーション反応の研究、あるいはリラクセーションを使う自律訓練法というのがあって、その自律訓練法の中で非常によく知られている現象に『自律性解放現象』というのがあるのです。自律訓練で緩んでくると、いろいろなものが出てきます。瞑想される皆さんがよく経験されるのは雑念ですよね。集中しよう、無念無想になろうとすればするほど雑念が出てくる。あるいはリラックスしてくると、何か凝っている感じがあるなあとか、ちょっと痒いなあみたいな感じとかいろいろな体の症状なんかも出てきます。これは瞑想などで一点集中して無になることから言えばネガティブなことですが、自律訓練法では実は自律性解放が起ったほうが症状が改善することが知られているのです。つまり、自分の中に溜め込んでいた歪みみたいなものが浮き上がってきて解放されていくわけですね。」
横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』67頁)



このような雑念の積極的評価を語る人は余りいないので、参考になります。

〇雑念は遊ばせる

私自身は、雑念については、「追わず払わず」というところでやっているのですが、これについても、人によっては、「雑念をどうしても追ってしまう」というふうにハードルを感じる人がいるかも知れないなと思っています。

そこで、「脳を遊ばせればよいです。脳は考える臓器なので、いろいろ考えてしまうのは仕方が無いことです。私たちも、休もうと思ってじっとしていると却って動きたくなるものです。たとえば、布団に入ってじっとしていると却って苦痛を感じることもあるものですから、考えてしまう方が却って楽になるということもあると思います。積極的に考えるのではなく、遊ばせるということでやっていけばよいのではないかと思います。」と説明しているのですが、いかがでしょうか。



*本稿は、2019年8月5日に投降した「雑念あってよし」の記事が比較的参照されることが多いことから、その後、参照した文献の内容を加えて改訂したものです。

元の記事は、こちら。
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/08/05/074722?_ga=2.137924912.1677448783.1594432160-541515618.1562325655





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