坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10)(補訂板)

※本稿は投稿者の記事の管理の不充分さから
冒頭部にかつての投稿と相当程度重複する点があるまま
2020年8月8日投稿いたしました。

【参考】
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及

前記記事をご覧になった方は3項からご覧下さい。
(2020年8月9日追記)


1 魔境の概要



坐禅の際には、特異な精神的体験が生じる場合のあることが知られており、「魔境」と呼ばれています。



「いい気持ちになって陶酔できるほどに定力が練れてきたころになると、定中にいろいろな現象があらわれることがある。その現象にはよいものもあれば悪いものもあるが、それらをひっくるめて古来『魔境』と呼んでいる。(略)

だれが考えても禅の進境に害があると明らかにわかっている魔境は、これを撃退する方法もおのずから立ちやすいが、これは好い境界だ歓迎すべき境界だとおもわれるようなものはちょっと始末が悪い。よく独参(略)のときなどに修行者が、『あたりが全部まっしろくなってしまいました』とか、『体が空になってズーッと天まであがって行き、天一杯にひろがりました』などといって、いかにも無を見たかのように得々としている者もある。もっとも私自身もそれに似たようなことをいって得意がっていたら、先師から『それは多分眠っているのだろう』などと冷やかされたこともある。」

(大森曹玄『参禅入門』117~118頁)

「(専門僧堂での修行の)過程のなかで、色んな幻想が湧き起ってくるわけで、これは古来『魔境』とか『現境』とかいって白隠禅では特に喧しく注意されているところですが、少なくとも、いい気分になる場合であれ、あるいは鐘の音が全身に突きささってくるような苦しい幻覚であれ、凡そ日常生活では味わうことのできぬ体験が臨済の修行にはあるというのは事実です。」

(西村恵信「済家の風」『禅研究所紀要第18・19号』78頁)


「魔境は,心理学的にいうと坐禅の修行中に遭遇する一種の幻覚体験であるといえよう。幻覚は,精神病の典型的な徴候の一つであるために正に病理的な現象である。ただ健常者の幻覚と病理的なそれとの相違は,通常の現実に戻れる可逆性を有しているか否かという点である。つまり,坐禅での魔境は,それに関わり合うことなく瞑想を続けることで,その関門を通過することができる点である。だが人格発達の面で自我形成が未分化な場合,防衛機制によって処理できない内容に唐突に遭遇することで,不安や恐怖で一時的に錯乱したり,一種のノイローゼ症状を呈する場合もある。これは専門の禅の修行者にも見られることが知られている。また,坐禅の修行を初めて行い,適切な指導者である師家がいない場合,その魔境が強烈な幻覚を伴うようなものであるとき,見性体験と誤解してしまうこともあるであろう。(略)

魔境の問題だけでなく坐禅の不適切な修行法のために,古来禅病に罹患する禅僧が少なからずいたことはよく知られている。(略)

こうした病気は,禅に限らず西洋の宗教的修行者においても見られるという。」

(斎藤稔正「変性意識状態と禅的体験の心理過程」『立命館人間科学研究 第5号』52頁)



このような魔境は、マインドフルネスの世界でも認められ、やはり禁忌とされることからすると、坐禅等の瞑想では少なからず認められる現象のようです。



「(マインドフルネス訓練にあたり)自分を信じすぎるのは困りものです。瞑想中に光が見えたとか、神様が現われたといったような特殊な体験から自分は偉い人になったように誤解してしまうのは一番危険なことです。特殊な体験は魔境と言っています。このような状態は重要視しないほうが良いでしょう。

≪とりわけ人格変容状態には気をつける≫

必要があります。

≪精神医学で診る人格変容状態は殆どが病的なもの≫

です。それにおぼれたり、こだわったりすることは強く避けるべきです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号80頁)

「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして

≪権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性≫

をはらんでいます。」

(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)88頁)
   


井上先生の魔境に関する「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」があるとの指摘は余り耳にしないものであり、興味深いものがあります。



2 魔境の生じる機序



魔境の機序がはっきり書いてある文献に接したことはありませんが、統合失調症には、種々の幻覚・妄想が生じるところ、扁桃体の極端な活動の低下により、統合失調症様の幻覚・妄想が生じる可能性が疑われます。

また、扁桃体の活動の低下との関係性はわかりませんが、次に引用するものは、臨死体験に関する記述ですが、脳に供給される酸素の量が低下すると(常識的にも当然に感じますが)、幻覚・妄想が生じやすくなるようです。



臨死体験は、何が原因で起きるのでしょうか?

このような不思議な体験談の謎も脳のしくみで解くことができます。

人間は心臓が止まるような瀕死の状態に陥ったとき、血流が止まり脳への酸素やグルコースの供給が止まってしまいます。そのとき

≪脳は酸欠状態に陥り、暴走をはじめる≫

ことがあるといいます。

脳の活動電位が不規則に高まっていき、まったく関連のない信号を発し続けるのです。いわゆる脳がショートしてしまった状態になるわけです。そのために

≪脈絡のない記憶が次々と現れてくる≫

ので、『子供のときの記憶や懐かしい故人が走馬灯のように現れた』と思い込むのだそうです。

幽体離脱体験の人も同様に、過去に自分の姿を鏡で見た記憶を、暴走した脳が大脳辺縁系から引き出すような感覚がおこることを報告しています。」

(新井公人監修『脳のナゾ』142~143頁)
 


この記述からすると、酸素供給量の低下は、魔境でも、重要なファクターになるのではないかと思われます。



3 魔境と「悟り」との関係



先の引用中で興味深い記述は、臨死体験

「脈絡のない記憶が次々と現れてくる」

現象と捉えることができるという点です。


「悟り」の体験は、キリスト教などにも認められるとされ、「悟り体験は各宗派の文脈に即して理解される」(大竹晋『「悟り体験」を読む』281頁)とされます。

そのことからすると、自我障害を含めた幻覚・妄想体験のうち、それまで記憶されていた宗教、宗派の教義の内容に沿うものが、それぞれの宗教、宗派において、「悟り」と認定されるというのが実態ではないかと思われます。

「悟り」は、一義的に特定されるものではありません。上座仏教では、煩悩の滅尽であり、白隠禅では、自他不二の体感ということになります。

そして、それぞれの宗教の枠組内で何が悟りとされるのかも指導者により変わります。

参考までに、上座仏教の世界では、次のようなことがいわれています。



「コーンフィールドさんは、『アーチャン・チャーとマハーシ・サヤドー(マハーシ師)は、ともに深く悟った人だとみなされていたけれども、彼らは悟りの内容やそれを得る方法に関して、全く意見が相容れなかった。実際のところ、彼らは互いに、相手のことを悟りに至る真の道を説いていないと信じていた』と書いています。

こうしたことは、チャー師とマハーシ師のあいだに限ったことではなくて、仏教の実践の世界に自ら身を投じて、その実態を広く見聞した経験のある人なら、誰でも接したことのある現実ではないでしょうか。」

(魚川発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』53頁)



また、禅の世界では次のようなことが言われています。



「日本禅も腐敗の寸前にあるので、指導者を選ぶのには、用心するに越したことはない。『心理禅』と称されているもの(佐藤幸治とその仲間、石黒[法龍]、安谷[白雲]など)は、禅ではない」

鈴木大拙書簡。ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)104頁)



大拙先生から見ると、三宝教団を創設した安谷白雲老師もダメに見えるというのは興味深いものがあります。

次の柴山全慶老師のお話しも興味深いです。



臨済禅のほう、特に私のほうなんかでは、見性者というようなことはなかなか言わないことであり、口にすることさえ慎しむというくらいの気持を持っているのに、東京のほうの老師方はじきに見性々々ということを単純にいわれる。私どもどうもその点がわからぬ。見性というようなことは大体いうたら大悟に等しいものでなければならんので、その単純に三日でちょっと見性したとか、あれは見性したとか、私は見性しましたとかいうようなことは、少しくらい禅の匂いやら方向がわかったようなことでは、そういうことをいわない、むしろ隠しておくということがわれわれの世界です。それをだれでもかれでもみな見性者というということは、何だかこのごろの百円札を見るような気がしまして、いかにもインフレがきつ過ぎるような気がします。そんなことでは真剣な修行の態度だとか法を尊ぶ態度というものが出てこない。ある禅の雑誌に、今度の接心にはだれとだれが見性したから小豆飯を炊いて祝ったとある。私どもは見性者なんということをみずからいうということは、祖師に等しい境地になりましたということを宣言するような気がしておりますから諒解できません。」

(柴山全慶の著作からの引用。大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』292~293頁)



現在も、「老師」と称する人が指導者となり、「悟り」や「見性」を目指す禅の団体が存在しますが、その団体が全慶老師の批判が妥当する団体であるか否かは大切な視点ではないかと思われます。

このように何が「悟り」と評価されるかは、それぞれの宗教団体の教義や指導者によって変わります。

また、日常的に体験されることであれば、自分の判断で評価することができます。「悟り」については、言葉で表現することのできないことが強調され、その例として、味覚などが挙げられます。ただし、味覚などの感覚は日常的に体験しており、私たちはそれに対し、それは甘いのか、辛いのか、苦いのかなどといった適切な評価が可能です。しかし、「悟り」は私たちが日常的に体験することのできることではありません。

「悟り」が一義的特定できるものではなく、かつ、日常的に体験することのできるものではないことからすると、幻覚・妄想体験のうち何が「悟り」となり、何が「魔境」となるのかは、それぞれの宗教、宗派における指導担当者が決めていくということにならざるを得ません。

その意味では、宗教、宗派における指導担当者に服従しなければならないという関係性がどこかで生じます。

先に引用した井上先生の論考の中で、魔境について、「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」との指摘がされていましたが、このような関係性が生じることを言っているのではないかと思われます。

また、「記憶の想起」とも関わりますが、幻覚・妄想体験がどのように理解されるのかについては、事前に与えられる言語情報も要因として大きいように思われます。

たとえば、私が接した上座仏教の実践をしている人の中には、「リトリートが終わった後は、世界が汚く見えた(そして、自分は清らか感じた)」という体験談をする人が相当数いました。しかし、禅の実践をしている人からこの種の話を聴いたことはありません。

これは、禅の場合は、坐禅和讃に見られるように、「衆生本来仏也」、「当処即蓮華国」などと世界を肯定的に見ることが強調されることに対し、上座仏教の場合は、「一切皆苦」の強調など世界を否定的に見ることが強調されることに、影響されているではないかと思っています。



「仏教では、人間の人生はうまくいっているとは思っていないのです。人生は問題の泥沼に溺れているようなものだと思っています。もし理性のある人々が努力して平和で幸福な社会を築いても、そのうちまた衰退するのだ、という立場なのです。」
アルボムッレ・スマナサーラ『これでもう苦しまない』35~36頁)

「ゴータマ・ブッダは、世の中の人々は欲望に夢中になって、それを喜び楽しんでいるのだから、そうした対象への貪りを離れ、それらの寂滅を説く自分の教えは、語っても理解されないであろうと考えている。(略)

盲目的に何かを欲望する傾向性をもつからこそ、人々は異性を求め、より豊かな暮らしを求める。そしてその希求が生殖と労働という人間の普遍的な営みに繫がって、それが関係性を生み出し社会を作り、そこで私たちの『人生』が展開する。(略)

しかるにゴータマ・ブッダの教説というのは、その自然の勢に真正面から『逆流』することを説くものであって、彼はそのことをよく自覚していたからこそ、自らの証得していた法(dhamma)のことを、『世の流れに逆らうもの』だと捉えたわけだ。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』30~31頁)



坐禅等の瞑想の際の呼吸回数の低下により、脳への酸素供給量が極端に低下すると、「脈絡のない記憶が次々と現れてくる」中に、教義に関する言語情報が入ってくると、妄想・幻覚の元となる不定形の精神的な変化がその教義に沿ったものに解釈されやすくなるように思われます。

特に、「自他不二」の体験に類似する「自我障害」は、扁桃体の活動の低下と連動する可能性のある統合失調症の症状の一つですから、比較的解釈されやすいように思われます。

白隠禅で用いられる公案も、このような教義に沿った体験の解釈のための言語情報という機能があるのではないかと考えています。 



4 過剰な坐禅・瞑想の問題性



「悟り」体験は、それによってもたらされる「脳」の変化が、宗教団体や指導者の教義に沿うものであれば、その教義に対する確信を強めたいという人のニーズに沿ったものになるでしょう。

特に、「それに自力で気づいた」という形になった場合には、更に強く印象づけられるようになるはずです。

しかし、先の柴山全慶老師の引用にもありますし、ほとんど常識と言ってもよいかと思いますが、一般的に「悟り」の体験のできる可能性自体が極めて低いとされることからすると、特定の教義に沿った脳の変化の発生は不確実性に強く支配されているように思われます。



「すべての人が坐禅してさとりを得るまでいけるかというと、これも実際としては、(略)専門家ですら容易ではないのですから、一般信者に困難なことは明らかです。」
(朝比奈宗源『佛心』2頁)
 


また、魔境の例からわかるとおり、過剰に坐禅や瞑想をすることは精神の異常をもたらし得るものです。


 
「注意すべきことは、(略)通常の心である“自我の殻”をなくしていく時、悟り体験を得る者がいるのみならず、精神異常に陥る者もいるという点である。

たとえば、梶浦逸外(略)は悟り体験を得られず苦悶していた時期のことを次のように回想している。


 
いくら若者だといっても、無理はいつまでもはつづきません。臘八大摂心最後の一の二十一日の夜、ついに私は脳貧血でたおれました。僧堂のなかの病僧寮に入れられました。

病床で聞いていますと、寮の外で雲水たちが立ち話をしているのが聞えてくるのです。
『昔、千峰活英上座という雲水があんまり熱心に坐り過ぎて、臘八大摂心のときとうとう発狂して、老師の講座台を叩いて、天上天下唯我独尊!そうでしょうが、そうでしょうが、といいながら憤死したというが、梶浦も狂人にならねばいいが……』

こんな話を聞くと私はもう、どうしてよいかもわからず、心は悶えに悶えるのでした。」

(大竹晋『「悟り」体験を読む』242頁)



大竹先生が「“自我の殻”をなくしていく」という視点を出すのは、精神異常の機序のうちの一つを説明するものとして的確なのではないかと思います。

特に、臨済禅の世界における「公案」の役割としては、「自我」の解体が挙げられています。



「(公案を用いる理由の)一つには、最初の自我を壊して一つの体験をするためには、意味のない言葉に集中するというやり方を取ります。ですから、むしろ、あえて、もう意味がわからないものを簡単に集中させる。」

横田南嶺発言。横田南嶺・熊野裕昭「横田老師×熊野先生 禅―マインドフルネス対談」『サンガジャパンvol.32』95頁)


しかし、自我の否定は、必ずしも望ましいものではないように思われます。
 
【参考】
自我の大切さ(第2版) - 坐禅普及
【参考】
「分別心」の否定ではなく、限定 - 坐禅普及



マインドフルネスの臨床研究においては、「自我」の弱い人に対するマインドフルネスは禁忌であるともいわれています。



「自殺願望の強いクライアント、トラウマ体験から時間の浅いクライアント、自我強度(ego-strength)の低いクライアント、深刻な認知障害発達障害、精神病(略)などの心理障害をもつクライアントにも、臨床マインドフルネスを禁忌とみなす識者もいます。」
(大谷彰『マインドフルネス入門講義』198~199頁)



臨済禅にしろ、上座仏教の瞑想にしろ、その「悟り」に至る方法論としては、長時間の坐禅等の実践が必要であるとされています。

これも常識論のように思われますが、いくつか挙げると次のようなものがあります。



「(臘八摂心において)開山塔菩提樹下に、独り徹宵坐禅をすること二日、降雪粉々たる寒風に身をさらして坐りぬいた。(略)洪獄老師(釈宗演)自伝の『衣の綻び』には、『余が箇の一大事あるを省したのはこのときであった』とある。すなわち洪獄少年はここに見性の眼を開いたのである。」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』88~89頁)

「十八歳の明治四十二年三月、修行に行くことを許されました。最初掛錫(かしゃく)しましたのは、京都市花園の妙心寺僧堂でした。(略)毎夜皆のやすんだ後も外で坐って頑張り、二十歳の五月にやっと期待した見性の目的をとげました。その時分、私は夕方、昏鐘頃からの坐が一番よく坐れることを知り、日々その時間を大切に思っており、その日も気持ちよく坐り、いつか無字三昧に入り、時のうつるをも知らずにいました。そこへ直日が入室し、開板をうち、献香した後、経行(略)の柝をうった刹那、たちまち胸の中がからりとして、何もかも輝きわたり、その時は、ああともこうともいうべき言葉もなく、ただ涙がこぼれて、人について堂内を歩いていても、虚空を歩くようで、ああやっと分かったと嬉しくてたまりませんでした。」

(朝比奈宗玄『佛心』35~36頁)

「(鈴木)大拙には渡米直前の明治二九年一二月の臘八大摂心において、所謂見性体験があったと言われ(略)る。」
(水野友晴「鈴木大拙における「禅」の発見」17頁)


 
引用文に出てくる「摂心」とは、禅宗での集中的な修行期間で約1週間にわたり、徹夜の坐禅等をするものです。

上座仏教でも、リトリートと呼ばれる合宿形式の実践が「悟り」の上で重要とされているようです。

しかし、マインドフルネスが広まるに従って、このような合宿形式の修行が精神的な問題を生じやすいことが分かってきました。

これまでの記事に取り上げたものを含めて改めて取り上げます。



「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルース・ベアとウィレム・カイケンによる『マインドフルネスは安全か?』という記事が掲載された。このなかで、リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい、と彼らは指摘している。

この記事に次いで、マインドフルネスのもたらすマイナス体験の実態調査が、(略)発表された。この研究では参種類の瞑想(テーラーワーダ、禅、チベット)実践者、総計60名から6年間にわたりデータが収集された。統計結果を見ると、72%が『リトリート中もしくは終了後に問題が生じた』と答え、オックスフォード・マインドフルネス・センターの見解を裏づけている。」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』34頁)

「リトリートの参加者たちの中で、そこでの経験を瞑想センターの外での日常生活に、どのように繋げていけばいいのかという点に関する困難を、多かれ少なかれ感じた人は多かったようです。実際の所、日本で瞑想をしている実践者にも、同種の困難を感じている方々は多いと思います。」

(魚川発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』70~71頁)

「コーピング能力の未発達からマインドフルネスが困難となるケースには、境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害(略)などのパーソナリティ障害、PTSD(略)、薬物依存、衝動制御困難といった障害を抱えるクライアントが該当します。これらの障害はDBT、ACT、メタ認知療法などの臨床マインドフルネスが治療対象とする領域です。DBTの専門家たちは、こうした障害に対するマインドフルネス応用を次のように説明しています。

長時間におよぶマインドルフルネスの実践は、深刻な心理障害をもつクライアントには適用すべきではない。ある程度の基本スキルなしに実践することは失敗をまねく原因となるので、段階的に訓練を積んでゆくのが望ましい。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』197頁)



坐禅や瞑想の実践をする団体の中には、1週間前後の合宿形式の坐禅会や瞑想会を実施し、このような瞑想会等に出席して集中的に瞑想等をすれば、より効果が出るかのように宣伝をする団体も存在しますが、科学的な観点からすれば、この種の宣伝には、警戒すべきです。

私も、マニアックに坐禅をしていた頃は、この種の合宿形式の瞑想会等に参加し、大人の修学旅行のような感じで、それはそれで面白いものではありましたが、この種の宣伝を真に受けて、根を詰めて参加すると、精神的な問題を生じるリスクを負うことを十分認識する必要があろうかと思います。

坐禅等の瞑想に興味を持つ人の中には、自分自身の精神的な問題の解決に繫がるのではないかと考えている方も少なくないかとは思いますが、本当に深刻な精神的問題を抱えている人は、特に、この種の合宿形式の瞑想会等に参加することはやめるべきです。

私が、かつて所属していた団体にも、発達障害などを含めた精神的な問題を抱えた人がやってくることが時折ありましたが、そのような人に対応できるような専門的知識のある会員はおらず、当然、そのような人に対し、適切な対応のできる体制はありませんでした。
そのような人に対して、心ある瞑想団体のようにお断りをしていればよいのですが、私の所属していた団体では、指導者の方も、自分たちのやり方が心を病んでいる人にも有効であると主張したいのか、そのような人でも受け入れ、自分たちのやり方に強引に当てやめ、それを受け入れられなければ切り捨てていくようなことがありました。



仏教の教義や実践は、応病与薬の方便です。

病んでいるからこそ有用なものです。

【参考】
応病与薬の方便(1) - 坐禅普及

仏教では、「自我」の「否定」に向かう教義が重視されることが多いですが、利己心に囚われて、優越感を求めるあまり、幸福を目指しながら不幸に陥る病に陥っている人には、このような教義は、有効な薬かと思います。

【参考】
文明の発展と仏教の起源 - 坐禅普及

しかし、そうでない人にとっては有害なように思います。

「自我」の「否定」を徹底すれば、ブラック企業にいる人は「やりがい搾取」されるままでいることが正しいことになるでしょうし、DV被害に遭っている人は、配偶者から殴られるまま、虐げられるままでいることが正しいことになってしまいます。



坐禅や瞑想が精神的によい影響を及ぼす面があるといっても、それはあくまでも「薬」です。

薬を飲みすぎてはいけないように、やりすぎても有害です。

病んでいなければいらないし、健康であれば有害です。

そして、病が行き過ぎていている人に対しても、有害であることからすると、坐禅や瞑想が、適正に効く範囲の人は限定されるように思います。



私自身、うつ傾向や不安傾向があり、坐禅を通して、それが改善したからこそ、坐禅に興味を持ち、いろいろ調べるようになったり、一時期、坐禅会や瞑想会を渡り歩くようになりました。

その中で、坐禅会や瞑想会にのめり込むことによって、却って問題を抱えたり、問題を大きくしてしまっているのではないかと思われる人に少なからず出会いました。

親御さんが重度の認知症であり、奥さん(もちろん親御さんとは義理の親子関係)から介護への協力を求められているにもかかわらず、それに応じないまま坐禅の合宿に参加しに来る人もいたりして、この人は何のために「修行」とやらをしているのだろうと疑問に思うこともありました。

はまり込む人は、日がな一日、瞑想や坐禅をします。その様子を見て、私も、最初はすごいなと思っていました。しかし、そのうち、このようなあり方は、生きながらにして死んでいるのと同じではないかと疑問を抱くようになりました。

この辺りも「是非言う人は是れ是非の人」というべき点があり、深く病んでいる以上、やむを得ない行動であり、「死んでいるのと同じ」でも、生きているのに変わりないのですから、そのうち本当に生きる、すなわち、日常に戻るための1プロセスでもあるのかなとも思うのですが。



このような実態がわかるようになるにつれ、坐禅の良さを伝えることと同時にその問題点もきちんと伝えることが大切であるという思いが強くなってきました。

私がかつて所属していた仏教系の団体をやめた理由の一つがこのことです。

【参考】
所有する不幸 - 坐禅普及



仏教は、坐禅等の瞑想との関連性が深いものです。

しかし、宗教団体により、坐禅を普及させようとすることの問題点は、それを真理として、誰にでも適用できる普遍的な方法論にしてしまうことにあります。

特に、私が所属していた団体は財政状況が悪く、会員を増やして会費収入を増やすために、新規会員の獲得に力を入れていました。

坐禅のもたらすデメリットという会員を増やすためには不都合な話は殊更いわないで誤魔化し、自分たちのやり方が普遍的によいかのように宣伝せざるをえなくなります。

マインドフルネスを臨床で用いている精神科医の方でも、より仏教とコミットした「ピュアマインドフルネス」がよいように言う人もいて、警戒しなければならないことだと思っています。





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