不確かな世界を愛している
「(形而上学的な問題について)釈尊は答えられないときには、沈黙を守る。そしてその沈黙に対する執拗な追及があり、まれに釈尊は適切な比喩を、相手または弟子に示す。(略)
『(略)世界の常・無常などをいつまでも求める人は、解答の得られないあいだに死ぬ。世界の常・無常などにかかわりなく、生・老・病・死の苦はあり、わたくしはその制圧を説く。それに対して、現実の実践・さとり・ニルヴァーナ(ニッパーナ、涅槃)に役立たないから、世界の常・無常などを、わたくしは説かない。わたくしの説かなかったこと、説いたことを、そのとおりに受持せよ』(要旨)という。
(略)形而上学的論議は、それに耽る人にとっては、たしかに興味は尽きないであろう。
しかしそれは、他の原理による別の形而上学とほとんどの場合に論争を引きおこし、しかもその論争はどこまでもつづいて決着はつけられず、所詮は知のための知の饗宴にすぎなくて、多くは不毛に終わる。それはまた、現実そのものにはなんのプラスにもならず、まして実践からはるかに隔たってしまう。」
(三枝充悳『仏教入門』72~73頁)
釈尊の考え方として伝わるもののうち最も大切な考え方は無記であると思います。
無記については、形而上学的な議論についてよく言われますが、よくよく考えてみると、形而上学的な議論に止まらず、私たちが認識しようとすること、全てに当てはまることではないでしょうか?
私たちの認識能力には、限界があります。
私たちが的確に認識をしているといえるためには、その認識能力が適切に機能していることを認識する必要がありますが、機能を認識する能力が適切に機能していることを認識する必要が生じというように無限に退行せざるを得ない以上、私たちには、的確に何かを認識することはできないのです。
したがって、私達の認識している世界も、全く不確かなものです。
仏教の基本的な考え方とされる諸行無常、諸法無我、そして、一切皆苦というのも、このような不確かさに由来するものでしょう。
すべての存在は、不確かなものとしか認識できない。
したがって、それらのものにとらわれる必要はない。
私達が直面する世界は不確かに変転していきます。
不確かに変転していきますが、どうもそこには一定の法則がありそうです。
しかし、法則があるらしいのだけれども、実際に、どんなことが起きるのかは、様々な要因がかかわっているようであり、したがって、一定の法則はあるはずなのに、どのように世界の見え方が変転していくのかの予測はつかない。
いわゆる「衆縁和合説」は、そのことを言い表しているように思います。
「すべて創造された結果はすでに原因ののなかにおいて予定・予想されたものでなく、まったく不定の結果である。だからこそ世間は千変万化すると言われる。なにが生まれ、出現し、発生するかは、おそらく神でさえ予想できない。」
(田上太秀『「涅槃経」を読む』64~65頁)
世界のことについて十分予想できないことに対し、不安を持つ人は、何らかの形で「真理」を求めようとする。
「安心決定」するために。
しかし、このような「真理」を求めようとする努力は徒労に終わる。
というのは、私達の認識能力には、限界があるから、「真理」は求めようと思っても求め得ない。
このように求め得ないということ自体が、真理であるというほどに。
色々な宗教……上座仏教等ほとんどの仏教の宗派を含めて!……は、真理を問題とし、自らが真理であると主張しますが、それには無理があり、無理があるからこそ、そこには、排他主義、教団機構による官僚制、現状維持による堕落、他宗教との対立・抗争等々の不幸が生じがちです。
幸福を目指して「真理」を求めたはずなのに、矛盾する結果になるという不幸を生じさせる。
「真理」や「安心」を求めないことこそが、いわば、「安心」を実現する「真理」なのです。
「力がないと、この聖を愛し、凡を憎むと云うことになり易い。(略)とかく人間と云うものは、腹のなかに意必固我の執情を持って居て、多少修行をしたものでも、やはり意必固我の執情や悟を愛して、迷いを憎むと云う、凡情が失せない。」
(釈宗活『臨済録講話』233頁)
「仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業
菩薩を求むるも亦た是れ造業
看経看教も亦た是れ造業
仏と祖師とは是れ無事の人なり
(臨済録『示衆』)
(略)
有馬 (略)「地獄」は自分で造っているんです。悟れない者が仏に頼り、経典に頼り……そうするとどんどん地獄に落ちていくよ、ということです。
地獄というのは煩悩の凝り固まった世界。「煩悩即菩提」――煩悩を裏返しにしたら菩提なんです。菩提っていうのは悟りの境地。それが実は煩悩と同じもんやと言うてる。だから、それを求めたらアカン、というただそれだけの話です。
――禅とは修行して「悟り」を求めるものではないのでしょうか。それなのに、菩薩を求めても、仏典を読んでも「地獄」から逃れることは出来ない、というのですか。
有馬 いや、そうではなくて、その行為自体が「造地獄」やと言うとるんです。書いてある通りです。仏を求めること、法を求めること、これが「造地獄」の業と。」
(有馬賴底『『臨済録』を読む』188~189頁)
そもそもが私達は、何が「安心」なのか、何が「真理」なのか、そんなことは全くわからなくても、今、確かに生きているのであり、生きる上では、「安心」や「真理」など全く知っている必要はありません。
薔薇は、自分がどんなに美しく咲いているかわからなくても、きちんと美しく咲いています。
生きる上では、知っている必要などはないのです。
衆生本来仏也。
私達は、最初から、この不確かな世界を不確かなままに生きる力が備わっているのです。
だって、今、きちんと生きているではないですか!
「真理」など全くも知らず、いつも、悩んで、迷って、苦しんで……不安で、まるで「安心」などないのに!
私達は、不安でも、悩んでいても、迷っていても、苦しんでいても、いつもきちんと生きています。
ですから、不安や、悩みや、迷いや、苦しみは、私達が生きるに当たって何ら障害になるものではありません。
私達には、最初から、不安なまま、悩んだまま、迷ったまま、苦しんだまま、この不確かな世界を不確かなままにきちんと生きる力が備わっているのです。
「安心」や「真理」を、単なる妄想にすぎない彼岸にあるものを求めてしまうのは、ちょっと気弱になってしまっているだけです。
不安は、脳の片隅で起きている些細な現象であり、圧倒的に確かなことは、今、現在、生きているということです。
禅の世界で、目の前の現象に徹せよということが強調される理由は、現象の背後に「真理」を求めようとする態度に問題意識を持つからでしょう。
「黒いものを黒いといい、白いものを白いと云うのが禅の本領である。柳は緑り花は紅い、烏はかあかあ、雀はちうちう、みんな同じ道理である。此の道理に徹底した人を悟ったと称して居る。
禅はどこまでも説明のできぬものである。何等の前提なしに、すべてを断定する。それ自からが其れ自身を証明する、決して他の弁証を待たない。天は天なり、地は地なり、それで万事を尽しておる。此処を言詮不及とも、意路不到とも云う。
私どもは何の為に生れたか、何故死ぬるか、這んなことは問題にならぬ。何の為でも、何故でもない。生れたから生きておる、死ぬから死ぬるのである。それ以上何と理屈をつけても詮無いことである。生を生とさとり、死を死とさとれば、それでよろしい。人生のすべては斯くして解決されるのである。」
(神保如天『従容録講話』序1~2頁)
とはいえ、目の前の現象が「真理」かというと、実は、これも不確かなものです。
日常生活を送っていると、実は、「現実」と思えたことが、勘違いであったという経験をすることが少なからずあるからです。
また、そもそも、目の前に起きている「現実」としか思えない「現象」が、実は、夢に過ぎなかったという可能性も否定できません。
禅門では、目の前の現象が真理であるということがよく言われますが、実は、目の前の現象が真理であるかどうかすら、全く不確かなものなのです。
目の前にある現象は、不確かであるはずなのに、私達は、この目の前にある現象を現実のものとしています。
これは一体どういうことなのでしょうか。
目の前の現象が夢でもよいわけです。
夢であるから無視してもよいわけです。
夢であるから目の前の現象に攻撃を加え、破壊の限りを尽くしてもよい。
でも、どういうわけかそういうことをしない。
私達の意図的な行為は、意志によって起動されます。
夢であることを前提とする行為を私達がしない。
逆に言えば、目の前の現象を現実のものとして行為するということは、とりもなおさず、私達が、目の前にある現象を現実にしたいという意志があるからです。
目の前の世界は、私達が、目の前の現象を現実にしたいという意志によって、現実の世界になっているのです。
生きる以上は、私達は、目の前にある世界を現実のものとして成立させたいという意志をもっています。
目の前に世界、空も、森も、山も、川も、風も、虫も、ビルも、橋も、犬も、猫も、親も、同僚も、そして、愛する人も、すべての目の前にある世界について、これを現実化したいという意志を持っているのです。
目の前にある不確かな世界を現実のものとして成立させたい、この気持ちがアガペー的な愛というものでしょう。
目の前にある不確かな世界。
誰もが、これを現実の世界として生きています。
私も、あなたも、政治家も、経営者も、官僚も、農林漁業者も、職探しをしている人も、専業主夫・婦も……犯罪者も!
誰もが世界を愛しています。
ただ、往々にしてそのことを、そのことを忘れてしまいます。
人生の不幸の原因は、自分が世界を愛しているという生きる上での根本事実を失念してしまっていることです。
最初から愛しており、今現在も、愛しているのですから、もっと素直に愛すればよいのです。
誰もが、不確かな世界を愛しています。
もっと素直に愛していけばよいのです。
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