仏教はなく、禅もない
「全部が仏法であり、特別なものは、何に一つもなかったのです。したがって仏法は特別な神がかり的な自己満足的修行することではなかったのです。何故ならば、一切衆生悉有仏性だからです。したがって宇宙の全てが仏性、即ち真実です。故にこれこそはという特別であるものは、全てあってはならぬことです。こうしてみると、全てが仏性であり真実であってみれば、特に外道というものがあるわけではないのです。」
(酒井得元「永平広録について」23頁)
「おそらく、禅者たちは一連の教理をもっているであろう。だが彼らは、自前で教理をもち、自分たちの便宜のためにもっているのであって、禅そのものにそれがあるわけではないのだ。したがって禅には、聖典とか教義個条といったものはあり得ず、ましてや禅の奥義に到達するよすがとなるような象徴的形式といったものもない。ではいったい禅は何を教えるのだと聞かれたら、禅は何も教えはしない、と私は答えるであろう。」
(鈴木大拙『禅仏教入門』16頁)
「禅そのものの説明ということはあり得ない。禅そのものはないからである。」
(上田閑照『禅仏教』3頁)
「仏教として主張するものが何もないのが仏教だ」
(中川正壽「ドイツの地に曹洞禅の種を蒔く」
https://www.bukkyo-kikaku.com/archive/bk_tusin_no21_2.htm)
「禅はどこまでも説明のできぬものである。何等の前提なしに、すべてを断定する。それ自からが其れ自身を証明する、決して他の弁証を待たない。天は天なり、地は地なり、それで万事を尽しておる。此処を言詮不及とも、意路不到とも云う。」
(神保如天『従容録講話』序)
「臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。』――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。」
「人は生き方を知る前から生きている」
(野口晴哉『風邪の効用』)
私たちが生きていくのに、特別な教えや、特別な実践は必要ない。
特別な教えや特別な実践が必要だなどと思ってしまうのは、仏教等を知る前からきちんと生きていたのに、どういうわけか、そのことを忘れてしまったからだ。
悩み、苦しみ、迷いがあっても、今、きちんと生きている。
確かなことは、今、生きていること。
悩み、苦しみ、迷いがあっても、生きていく能力があること。
不安は、妄想にすぎない。
坐禅は、それを感受するためのもの。
特別なものがなくても問題がないということを感受するため、特別なことをやめる。
だから、口は閉じ、手は印を結び、足はしっかり組んで、特別なことをやれないようにする。
けれど、感受するためには意識がしっかりなければならないから、背筋を伸ばし、目を開いて、しっかりと意識を保つ。
坐禅はただやらなくてはならない。
何かのためのものにしてはならないというのは、その意味だ。
悟る、解脱する、三昧に入る、集中する、健康になる・・・坐禅を何かのためにやろうとすると、坐禅が「特別な実践」になってしまう。
特別なことをやらないことではなくなってしまう。
習禅が否定される由縁だ。
余り難しく考えなくてもよいように思うけれど。
このように語ってしまった時点で、多少なりとも「特別な教え」が現れ、坐禅は「特別な実践」になってしまう。
だから「不立文字」という。
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